セミリンガルの恐怖

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前回紹介した秘密コメントの中に「セミリンガル」という言葉がありました。私はこういう言葉があるのを知りませんでしたし、それが問題になっていることも知らず。でもバイリンガルを狙う過程で「セミリンガル」状態を必ず通るであろう事、また下手をするとその状態で大人になることもあるだろうことは簡単に想像できました。

で、セミリンガルを検索ワードとして調べてみましたが、出てくるわ出てくるわ、凄いですね。

まず、紹介したコメントの重要な部分をまたここに載せてみます。

「ウチの方(英語なんかほとんど通じない人たちの住む地区)のローカル(現地人の)ママさんって、「自分は中国語の学校で勉強したから英語とマレー語は苦手(中国語なら分かると言わんばかり)」って大抵言うんですけどね、 なっ何と!自分の子が小学校3年生ぐらいになると「自分の時代はこんな難しいもの習わなかった。私にはわからない。」って言いだすんですよ。語学としての中国語はもちろんのこと、中国語で学ぶ全教科の内容がわからないんだそうです。「中国語はわかる」と言っていた人達がですよ!もう、ビックリでしょ?」

はい、ビックリです。(笑)

こういう現地の方々って、我々から見ると3言語を操るマレーシアならではのお母さんのはず。でも実態は一つの言語に大きな比重が掛かっていて、なおかつその言語でさえも「小学生レベル」で止まっているということ。

マレーシアのことをほとんど知らない私としてはこれが本当の実態なのかどうか、自分で検証することが出来ずちょっとイライラしてきます。

でもマレーシアに私が行って何年住んだところでこれの検証のしようがないんですね。その3言語を評価する能力が私に無いから。多分、いやーー、皆さんたいしたもんじゃないですかぁ、なんてきっと思うのでしょう。

そういう意味で、オーストラリアで育った自分の子供を考えた場合、一体彼らはどういう状態なのかってのを私ははっきり掴んでいないことにも気がつきます。息子達とはもちろん日本語で話しますし、我が家は心の中の問題とか、思想とか(右翼思想だなんて言わないでね 笑)、そういうのも突っ込んで話し合うことが多いし、その中で彼らの日本語に大きな問題があると思ったことはありません。

ただ、たまにわけのわからないことがないってことでもない。彼らがある単語を違う意味で解釈していることはたまにある程度なのですが、漢字の読みを間違えて使うことは結構ありました。彼らは書籍で得たその言葉、概念なのだろうと思うのですが、漢字にルビが振ってあるわけじゃないから読みを間違える。

例えばと考えてもすぐには出てこないのですが、例えば、「カブシキイチバ」って言ったりする。

え?何それ?と思うわけですが、話の流れからそれは「株式市場」であるのがわかる。ま、そんな感じ。でもそういう間違いがいつも出てくるわけじゃないので私は心配はしていません。

では彼らの英語は?

長男が3歳のとき、次男が1歳の時にオーストラリアに渡ってきて、学校はずーっと現地校ですし、勉強の内容と言うか、中学からレポート提出やディベート主体の授業ですから英語に問題があったらろくな成績も取れないはずで、結果的にはそこそこの大学も出、次男は難関大学院も好成績で出ていますので、英語に問題があるとは思えない。でもそれはそういう状況判断ができるというだけのことで、本当にそうであるかどうか私自身にチェックする能力は無いわけです。

私の英語はまさに小学生レベルのままですから。

多分、勉強の上での彼らの英語は大丈夫なのでしょう。でも専門外の思想、文化とか感性、情緒の分野ではどうなのか考えると、もしかしたら・・・・とちょっと心配になってきます。

ただ、語学ってところどころに壁と言うか通過ポイントみたいのがあると私は思っていまして、ある程度のところまで来れば、あとは自分に興味さえあればそちらの方面でどんどん進んで行くはずで、基礎的な英語は習得しているであろう息子達は将来的にも英語の心配はないと楽観しています。

で、その基礎というのが、日本で言えば中学であり、高校の国語力ということなんだろうと思っています。義務教育の大事さってのを再確認できます。(笑)

でももし、国語力がそこまで行っていなかったとすれば、上のレベルを理解し、そしてもっと先に進むことも出来ないんですね。

これがまさに「セミリンガル」の「小学生レベルで止まった大人」なのでしょう。

でも語学って難しいですよね。私にとって外国語はもちろんのこと、日本語も難しい。まぁ、日常生活に困ることはない(当たり前か 笑)ですが、実はこうやってブログを書いていると自分の国語力の低さに嫌気を感じることがあるんですよ。私の表現力には問題がある。限界がある。そもそも日本語のボキャブラリーが少ない。

うんうん、なんて思っている人いるでしょ~~。(笑)

ま、話が長いのはそれも一つの理由だし、そして話をまとめる能力も無い。本来的確な言葉を選び、箇条書きにまとめる能力が私にあれば、きっと文章量は3分の1以下になり、なおかつもっと理解しやすいのだろうと思います。

そういう意味で、私がああじゃこうじゃ自分の考えを書く事自体、おこがましいのですが、ここはブログ、つまり日記であるからして、自分の好きなようにすれば良し、そしてそれが認められているから助かっているだけなんですね。

でも自分の思いを本にすると仮定した場合、絶対無理だと思うわけです。

ま、そういう風に考えてみると、自分も所詮セミリンガルなのではないかみたいな気がしてきます。

でも周りを見渡してみると、一般人ってそんなもんかな、みたいな気もしてくるわけです。うちのヨメサンなんてそういう意味じゃ完璧なセミリンガルでしょうし、知性や教養そのものがあるのか?なんて言う人もいるかもしれない。(笑)

いつもここに書いているTPPにしたって、「新自由主義に反対!」って言えば、言わんとしていることの80%は通じるはずで、でもその新自由主義って何?となったら半端じゃない量の説明が必要になりますよね。まぁ、世の中ってそれと同じことが常に起きているといって良いわけで、共通した言語、概念がないと全く話が進まない。また、その概念がないということは、現状認識さえもできないってことなんだろうと思うのです。

で、その語句や概念を手に入れるためにはそれ相応の基礎が無いと駄目で、その基礎を得るには語学の基礎が最も重要となる。

こうやって考えると怖いですね。海外育ちどころか、一国で育ってその国の言語を話す中でもそれが起きているってことなんですから。

だから教育って大事なのね、って話しになるんでしょう。

まして多言語の中で、コアの言語さえ突き詰めて習得することが出来なかったらどうなるのか。

全部習得しようなんて思うからゾッとするわけで、そうじゃなくて選ぶことができる環境にいると考えれば素晴らしいことだというのがわかりますね。それと共に、選択と集中が出来なかった場合、あるいはしなかった場合、「セミリンガル」の恐怖が忍び寄ってくるということなのでしょう。

言語ってどれほど大事なのか、改めて考える機会になりました。そういう意味で、自分としては「ネイティブ?」なんて言われるくらい英語がうまくなりたいなんて思っていましたが、本当は私とてもっと日本語を勉強しなくてはならないという現状に気がつきました。60になってそんなことに気がついたなんて、バカ丸出しです。(笑)

セミリンガルに関してはネットの中だけでもかなりの量の情報がありますので、是非調べてみてください。面白いですね~~。

「セミリンガルというのは、多言語使用者がどちらの言語でも(母語でも)抽象的思考ができず、複雑な表現もできないことをさします。」

「2言語が使われる環境で育つというのは、子どもの言語習得や概念の理解において有益なこともあれば、よくない影響を及ぼすこともあります。多民族国家や、移民を多く受け入れてきた国では、すでに事例も研究も多数あるようですが、日本国内では外国人労働者が増えた近年になって、ようやく注目されはじめた問題です。両親が使う言語と居住国言語の両方を、問題なく使い分けていく子どもは、もちろんたくさんいるでしょう。しかし、母語か居住国言語、あるいはその両方で言語習得が遅くなったり、学習障害を示したりする子どもの事例が日本でも報告されています」

「もともと言語発達の遅れの原因というのはいくつも考えられます。そこにバイリンガルという要素が加わると問題がさらに複雑になり、医療、教育、家庭とあらゆる場面でサポートする必要がでてきます。国際化が進み、多くの外国人が日本に住むようになりましたが、今のところこのような問題に対応できる専門家はあまりいません」

「セミリンガル--おそろしい言葉である。たとえば帰国子女が、外国語を十分に身につけることなく、しかし日本語も相当に失ってしまい、いずれの言語も中途半端で不十分な場合に、そう言われる。いくつかの受け入れ校で現にそういう子ども達の指導に苦慮しているという話も耳にしたことがある。言語が発達していないと、まともな思考もできないとさえ言われる。一方でバイリンガルとは2つの言語に通じていることを言うが、双方同じ程度に、かつどちらの母語話者とも対等以上に使えるという例は、ほとんどないと言われる。どちらかが優勢であり、片方は、まぁ、中途半端なのである。」

「「一定の年齢で一定の期間を海外で過ごすとセミリンガルになるから、子どもを海外に連れていかない方がいい」というような結論を書いている啓蒙書を読んだときには、頭に来た。ぼく自身が帰国子女として帰国子女教育にかかわっているのは、すでに一定の期間、海外で育ってしまっているからであり、もちろん子ども達のほとんどは否応もなく海外に行かされている。その年齢も期間も、子ども本人はおろか親にさえ決められないことが多い。「すでにセミリンガルになっている」のがぼくらにとっての出発点なのだ。強いて言えば問題は「予防」ではなく「予後」である。今さら「海外に行かなければいい」と言われたって、何の意味もない。」

「しかし予後が問題であると言っても、70年代の帰国子女教育研究のように「醜いアヒルの子」がいかに醜いか、それを如何に「普通のアヒル」にするか(帰国子女にはどういう問題があるか、どのようにして日本に再適応させるか)というのでは困る。セミリンガルを「どう治すか」ではないのだ。
まず第一に言いたいのは、すでに海外で育った経験を持っている者にとって、その経験はポジティブなものとしてとらえる以外にはない、ということである。そういう自分を受け入れるところからしか、前に進むことができない。ぼくらは、すでにアヒルではなくなってしまっているのだから、白鳥とは言わないがぼくらなりの生き方を見つけ、それを受け入れてくれる森を見出さなくてはならない。「治療」されても困る。だって、ぼくらはビョーキではないのだから。」

今、フト一人の子供を思い出しました。その子は両親の転勤と共にゴールドコーストにやってきたのですが、来た当時は2歳ぐらいかなぁ。この子がいくつになっても言葉を発しないんですよ。

まぁ、そういう子供って結構入るわけで、実はこのおしゃべりな私でさえも口の重い子、言語能力に問題があるんじゃないかと思われていたそうなのですが、この子の場合、精神的に病んでいるのが私にもわかった。

自閉症かな?と思っていたのですが、全くしゃべらないけれど、人とのコミュニケーションを嫌っているわけでもなく、この子が私の家に来るとすぐ私の横に来て、手をつないだまま、あるいは私の膝の上に乗る変わった子でした。で、話しかけると首を縦に振ったり横に振ったりするんです。でも思い出しても彼女の声を聞いた覚えが無い。

自閉症だとしたら、まず私のところへ来たり、膝に乗ったりもしないはずだと聞いたことがあって、じゃぁ、一体なんであんなふうになるのか全く理解の外でした。

でも今思うと、彼女はその「セミリンガル」の中で一生懸命あがいていたんじゃないかと、そんな気もしてくるんです。その子のオネーチャンがこれまた小さいときから活発、社交的で正反対。それもあって、親はその下の子の喋らないことに苛立ちがあるんでしょう。なんで喋らないの!って叱るんですわ。

これってうまくないと思いましたが、他人の家の子育てに口出しするわけにもいかず黙っていましたが、その子がしゃべらないのなら、こっちもベラベラしゃべらずに一緒に遊ぶとか、たまに言葉を発するぐらいで接していればんでいればいつかどうにかなるんじゃないかと思っていました。きっと喋らない事を叱る親ですから、その子がたまに喋っても声が小さい!とか何を言っているのかわからない!なんて言うんじゃないのかなぁ。

その家族は4年ぐらいゴールドコーストにいて帰っていきましたが、あの子がどうなったのか凄く気になります。凄く可愛い女の子でした。

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