12月23日かぁ・・・

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今日は何の日?天皇誕生日。

でもあの、今日が皇太子の誕生日だった日、7人のA級戦犯が処刑された。わざわざ連合国ってそういう日を選ぶのね。

でも私としてはなぜか心が動かないんですよ。ちょうどこの時間、処刑が終わったばかりの時間なんだけれど、悔しい思いも、可哀想という感情も起きない。ただ、事後法で裁かれるのは無念だったろうと思うだけ。今日作った法律で、昨日の事件を裁くのと同じなんですから。死、そのものに関してはもう当然、受け入れていたろうけれど、あの罪名だけは我慢できなかったろうなぁ。

これに対して自分の中で怒りが沸いてこない理由として、「日本が負けたのが悪い」という気持ちがあるからだろうと思ってます。負け=死というのは日本的な発想だろうとは思うけれど、それとはまた違った感覚で「日本が負けたのが悪い」と思う。つまり、あんな負け方をする戦争じゃなかったと私は思っているということ。それが何よりも私は悔しい。

あの東京裁判は茶番だと思うのだけれど、戦争とはそんなもんだろうし、勝ち組が歴史を作っていく。だから戦争には絶対に負けてはならない。で、日本の場合は負けないチャンスはあったと思うんですよ。あの戦争そのものは不可避だと思っていて、真珠湾攻撃をしないにしても、遅かれ早かれアメリカに叩かれたはず。なぜそう思うかは長くなるので今は書かないけれど、戦後、あの戦争に関して「日本人としての総括」が一切なされていないことが私としては気に入らない。

あの東京裁判が異常だったから、またその延長で占領政策が取られたってのはあるにしても、日本にも言い分があるということじゃなくて、日本人として日本人を断罪する機会も逃したのね。

こんなことを言うと、天皇のことか?なんて言われそうだけれど、全くそんなことはなくて、神格化しているような山本五十六にしてもなんで真珠湾なんだ?と思うわけです。やるならやれば良いのに深追いせずに引き返した司令長官南雲忠一中将もわけがわからんし、またその後の緒戦にしても、おかしな戦略を立てたのもあるし、天下分け目のミッドウェイも勝ち目はあった。

まぁ、後でいちゃもんをつけるのは簡単なわけで、意味がないといえばその通りなんだけれど、実際に無謀な作戦はいたるところで繰り広げられましたよね。兵站のめどもないのに死守命令をだして、餓死が多発。なんという島か忘れたけれど、戦闘も無く餓死でほとんどが死んだ島さえある。人肉を食ったなんて話はあちこちにいくらでもある。戦没者の60%140万人は餓死であったなんて論者がいるけれど、その数字が大げさだとしてもあの戦争は異常だったのがわかる。

そして私が許せないと思うのは特攻。

私はあれがクレイジーだとは思っていなくて、人間の尊厳を賭けた最後の戦い方だと思うし、特攻で命を落とした人たちには言葉が見つからないほど感謝もしているし、尊敬もしている。でもその命令を出した側には見逃すべきではない罪が存在すると思っています。多少なりとも成果があることを祈って真面目な若者たちは命を差し出したのに、神風にしてももう効力がないのがわかった時期でもそれを繰り返した。飛行機も偵察機や練習機まで動員したなんて考えられない。そして人間爆弾の桜花もそう。人間魚雷の回天もそう。震洋なんかベニア板で作った小型の船で爆薬を積んだ特攻船。そして各地で当たり前に行われた爆弾を抱えた戦車への特攻とか死ぬためとしか思えない万歳突撃。これらは効果があると見込めないのに、最後は一億玉砕という考え方があるからなんでもありで実行されたのだろうと思う。

当時の日本人、日本軍の考え方が大きく影響しているのは間違いが無いけれど、だから当時はそれで良かったのだ、仕方が無かったのだと済ませて良いとは私にはどうしても思えないんですよ。ただそういう日本軍だからこそ日露戦争では勝てたとは思うのだけど、行き過ぎた軍国主義の異常さは明るみに出すべきだと思ってます。もしも戦争が起きて、息子たちが行くというのなら、私は送り出すつもり。でも絶対に犬死だけはして欲しくない。

そして敗戦責任。

戦争責任というとどうしても「開戦責任」ばかりに集中する。これも変だと思うのだけれど、ま、連合軍の占領政策、戦後教育を考えれば当たり前かもしれなくて、でも海外がどう反応するかは別にして、日本人としてはどうして負けたのか?どうして講和のチャンスを逃したのか?その辺の論議がなされないのが私には不思議。もう負けたのだから分析しても仕方が無いなんてのは認めたくありません。多分、自衛隊の中ではそんな分析もされているんだろうけれど、私は負けた責任の所在、講和に持ち込めなかった責任の所在、そこのところをはっきりさせるべきだと思っています。日本ってそれまで戦争で負けたことが無いから負け方の研究ってしないのね。そして、無駄死にを強いた責任。これは糾弾すべきだと思っています。

私は戦争肯定論者じゃないのだけれど、戦争に巻き込まれないように何でも妥協しようとか、戦争になったらすぐ降伏するべきだ、なんて考え方は一切持っていないわけで、何に腹が立つかというと、広島原爆記念碑の「私たちは二度と過ちを繰り返しません」という言葉の根底にある考え方。とにかく悪いのは日本で、連合国による殺戮、人類史上始めての大量虐殺である東京大空襲、そして広島長崎への原爆投下も、すべて日本の責任とする考え方を到底受け入れるわけにはいきません。なぜ非戦闘員を意図的に殺した殺人者より自分たちが悪いと言う?なぜ連合軍の行為は正当防衛だと決め付けて日本国民を虐殺したのを許す?それとも「私たち」とは世界人類の意味?

なぜ戦争を止めて講和に持ち込めなかったかという点において、それは国民意識のせいだという論者もいる。これは私も一理あると思っていて、浮かれてどんどん行けと騒いだのも国民。もちろんその裏に大本営の発表やそれに沿ってどんどん煽ったマスコミの存在がある。今の日本のマスコミが左傾しているのは、彼らが戦争を煽った張本人であるという呪縛から逃れられないのだろうと思ってます。そして自分たちなら戦争をとめることさえ出来たはずだと過信してる。

まぁ、あれだけ悲惨な戦争を経験するとその恐怖から逃れられなくて、とにかく戦争を排除しようという気持ちが強くなるのはわかるのだけれど、戦争にもいろいろな形があるし、戦争とは過去のものではなくて今現在も世界中で繰り広げられているし、人間の営みの自然な一部として考えなくてはならないはず。これに異論があるのは重々承知の上だけれど、人間は争いごとを止めるほど進化していないと思っています。いや、仮に世界の99.99%が争いごとを否定しても、残りの0.001%が戦争を仕掛けたら戦争になってしまうという現実を無視することはできない。いや、0.001%どころかたった一人の狂った独裁者がいただけで戦争は起きる。そういう時にどうするかを考える必要があるはずで、理想論が世界の99.99%に通じても意味が無い。

だから戦争は絶対にしないと誓っても、理不尽に攻められる戦争もあるし、そして戦争になったら絶対に負けるわけにはいかないわけで、過去の戦争の分析と、いかに被害を小さくするか、いかに負けないかの研究こそ大事だと思うわけです。そしてそのノウハウの蓄積そのものが他国に対する抑止力になるはず。攻められない様にするのは当然だけれど、逃げるのではなくて交渉力を含めた抑止力を持つべきだと考えるのが自立した大人の考え方だと思うんですよ。

戦争は悲惨だ。二度とするべきではない。これはその通りだけれど、そこで思考停止してしまってそこから先は夢のような理想論だけしかないという状態こそが、次の戦争を呼び込むことになると私は考えています。たとえ国民全員が戦争反対を訴えても、戦争を仕掛けようとする相手方にその声は届かない。その状態をSitting duckという。いわゆるカモ状態。

また戦争アレルギーは平和な時代でもうまくないと私は考えていて、世界経済を考えるとこれって世界大戦争中と考えてまるでおかしくないと思うんですよ。武器は金と人と技術であって、他国の富を平和的にぶんどるというのが経済戦争。で、経済を戦争だと考えると見え方も随分変わってくるんですね。TPPもそう。仲良く一緒に発展しようじゃなくて、ルールを決めて総当りの全面戦争しようぜというのがTPP。経済戦争に勝てば相手国を平和的に植民地化できる。今、韓国がすでにその状態だという評論家も少なくない(自国の資本だけではやっていけず、特定の財閥系大企業だけが儲けを出し、それは日本を含む外資に吸い上げられる構造になってる)。戦争アレルギーになると、大国(というかその背後にある勢力)の思惑って戦争と何も変わらない事が見えなくなるんじゃないでしょうか。ついさっき、TPPは安全保障上大事だというコラムを読んだけれど、それは全くの錯覚だと思いますわ。

とかなんとか考えても所詮自分は無能なB層で、きっと的外れのことを考えているんだろうな、と思ったり。(笑)

ま、そんなことを考えていた、A級戦犯処刑の日。

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