マレーシアの独立記念日ですかぁ。いろいろ考えちゃうなぁ・・・

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イギリスからの独立は1957年8月31日ですか。

こんなことを考える人はいないだろうけれど、日本の手でマレーシア独立ができていたら随分歴史も変わったんだろうなぁ、なんて思ったり。

かつての日本が提唱していた「大東亜共栄圏」にはマレーシアも他のアジア諸国と同様に賛同したし、日本の力に期待はされていたんでしょう。

1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩少将率いる第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始した。アメリカ領ハワイの真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、太平洋戦争はこの時間に開始された。

真珠湾攻撃の前にマレー半島に進軍していたんですね。知らなかった~。

その後、イギリス軍と戦闘を交えながら(マレーシア人と戦ったのではない)55日間で1,100キロを進撃し、昭和17年(1942年)1月31日に半島南端のジョホール・バル市に突入。シンガポール陥落は1942年2月15日。日本軍は弾薬も尽き、これ以上の戦闘は不可能という時に、イギリスが降伏。

この間、マレーシア人は日本軍の侵略によって蹴散らされ、殺されたのかと言うと全く違っていて、マレー半島を自転車で南下したときには沿道でマレーシア人の歓迎を受けたし、進軍の手助けをしたのも現地のマレーシア人。これは戦史に記録されていること。

イギリスの植民地だったマレーシアとしては、マレーシアを開放してくれる日本軍という位置づけだった。

ところが、日本軍による統治が始まって、いつになってもマレーシアの独立、自治を認めなかったんですね。せめて旧ビルマのように傀儡政権だと言われてもマレーシアを独立させていたらやっぱり歴史は変わったんじゃないかなぁ。

ここが「日本軍に対する印象が変化した時」だと思うのですが、日本にとってのマレーシアは石油、天然ガス、ゴムなどの天然資源が豊富な国で、日本にとっては非常に重要な国。だから日本にしてみれば、日本が管理する必要があったのだろうけれど、マレーシア人にしてみれば「話が違う」ということにしかならない。

その頃、「このままでは日本軍に対して銃口を向けることになるだろう」とマレーシアの指導者は言った。

日本軍がしたことは開放なのか侵略なのか。意見が分かれるのはこういうところだと思います。植民地からの開放ではなくて、新たな征服者が現れただけということになる。

そして戦況も変わり、日本軍が劣勢になってくると各地での日本軍も変化してくるんですね。本来の友好国であるべき国での態度も変わってくる。

日本の大東亜共栄圏というのはお題目でしか無く、日本は侵略国家だと言われるのはこういうところじゃないんですかね。

そして戦争が終り、日本は負けた。

そこでかつての盟主が戻ってくるのはマレーシアに限らず、他のアジア諸国も同じ。

でもその時のアジア人はかつてのアジア人とは変わっていた。世界無敵と言われたイギリスの戦艦を日本軍が沈没させたのを皆が知ったし、インドネシアがどう頑張っても勝てないオランダに350年も統治されていたのを、いとも簡単に追い出してしまったんですから。

「俺達にもできる」という意識がアジアに広がった。

特にインドネシアでは戦後、インドネシアに居残った日本兵が多く、彼らがインドネシア軍を率いて戻ってきたオランダと戦ったのは有名で、インドネシアと日本といまでもつながりが深いのはそれが理由でしょう。

そして長い間続いた「世界の白人による支配」は終りを告げた。アジアでの独立は遠くアフリカにも広がっていった。

時代背景としては、「もう植民地の時代は終わりに近づいていた」と言われるものの、実際の独立のきっかけを作ったのはあの戦争なのは間違いがないと思うんですよ。

だからアジアには日本にいまだに感謝の念を持っている国や人もいれば、侵略者と罵る人達もいる。特に中国系住民は中国本土での日本との戦いもあったし、中国系住民は日本軍に抵抗したしゲリラとしての戦いは続いた。ここも難しいところで、相手は正規軍じゃなくて、また中国人は「便衣兵」を良く使うんですね。つまり、「民間人のふりをして戦う」ことをする。

ゲリラ、便衣兵を殺して問題ないのかどうかは国際法の解釈の仕方でいろいろあるようですが、戦時下では殺すのが常識化している様子。そして問題はゲリラと一般人の区別が難しいってこと。本来ならゲリラを捕らえても裁判をしなくてはならないのに、日本はもっと簡単な手を使った。「怪しければ罰する」という方法。これによって全く関係のない一般市民も大量に殺されてしまった。これがマレー半島、特にシンガポールではかなりあったようで、マレーシアでもマレー人と中国系はかなり日本に対して違う考え方を持っている一因となったんでしょう。

こういうことは各地で起きていたようで、誰しも知っている南京大虐殺ですが、日本の保守、右翼はこれは捏造だと言う人が多くいる。確かに中国側が言う30万人(どんどん彼らの言う数字は増える)ようなことはなかったんでしょう。そもそもそれだけの住人が南京にはいなかったし、南京陥落時、陥落後の写真や映像、証言を見聞きしても、大規模な虐殺が起きたようには思えない。

ちなみに世界中で「日本軍の悪行」を喧伝する施設や書籍が大量に存在しますが、日本では有志達が集まってそれらに書かれていること、使われた写真を地道に検証することが行われています。そして使われている残虐な写真は、全く関係ない戦争のものだったり、逆に日本人が中国各地で虐殺されたときの写真を「日本軍による住民の虐殺」として使われているケースが多いのもわかってきている。膨大な写真がありますが、一つ一つ、これほいつのどこの何が起きたかときの写真なのか、多くのものの出処が今ではわかっている状態。

だから海外の、あるいは日本に存在する施設や写真を見て、「日本軍はこんなことをしたのか」と単純に信じてはならないんですね。良いことしかしなかったなんてのも嘘ですが、日本を陥れるためにありとあらゆる手を使う反日勢力があるわけで、そして彼らはなぜかプロパガンダがうまい。そこを差し引いて見ることは大事だと思います。

でも南京で何もなかったのかと言うとそうでもなくて、ある選ばれた部隊が数万人の捕虜(民間人を含むんでしょう)を輸送中、揚子江の沿岸でその数万人を殺して揚子江へ流した記録がある。この数万というとんでもない数の捕虜を殺す場面はまさに地獄絵のようで、それを行った部隊の生き残りの証言は信じられないぐらい壮絶、そして悲惨。これは「幕府山事件」と言われている。

ところがそれは極秘裏に行われたわけで、南京にいた他の大部隊はそんな事が起きたのを全く知らされていない。だから「私は南京を攻略し、陥落後もいたけれど、そんな虐殺なんかなかった」という日本兵がたくさんいる。ありえないと。

でもその捕虜の大量虐殺はあったと私は思っていて、これは日本政府の見解でも「日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。」というのは正しいと思っています。日本政府は南京大虐殺に関しては否定はしていない。

また数万人を殺した「幕府山事件」も、それそのものが捏造だという人もいるけれど、それは事実だという当時の将校もいた。ただし、捕虜が暴動を起こしたのでその鎮圧がおこなわれただけで、違法性はないと。

ま、戦争ですから日本も相手も、そして住民も冷静なわけはなく、あちこちで様々なことが起きたであろうことは簡単に想像できますし、「日本軍は規律を守る軍隊で、悪いことは一切していない」という論はあまりにも日本を美化していると私は思うし、「アジア諸国は日本に感謝している」と断言する評論家も、それは嘘とは言わないけれどある一面だけを強調しているに過ぎないと思います。

逆に、日本は侵略者でアジアの嫌われ者だと断定するのも間違っていて、これは自分の足でアジアを回って調べてみればわかること。そしてそれは「アジア」でひっくるめては駄目で、国によってかなり印象が違うのね。

でも残念ながら、戦後、日本ではマッカーサーによる「ウォーギルトインフォメーションプログラム」で自虐史観をしっかり刷り込まれた。日本だけが悪の根源だと。

そりゃ勝ったほうが都合が良い歴史を作るのは世の中の常で、戦争に負けるというのはそういうことも受け入れるってことだと思うんですよ。

ネットのチャットで昔知り合った従軍経験がある友人がいまして、私は興味があるからいろいろ聞きたいのだけれど、彼は一切話さないんですよ。でも「戦争は絶対にやってはいけない」というのはいつも言っていたこと。そして「戦争するなら絶対に負けてはならない」というのを一度だけ聞いたことがあります。そして彼は「(旧)ソ連だけは絶対に許せない」と言っていましたっけ。

あの戦争って一体なんだったのかを私なりに知りたいとずーっと思っているんですが、やっぱり結論は出ません。やるべきではなかったのは当然として、でも始まってからは「和睦」のチャンスもあったはずなんですね。そして当時の軍部だって最後の最後まで戦って勝てるとは思っていなかったわけで、でも和睦のチャンスはなかった、あるいはそれを無視して暴走したってことじゃないですかね。そして航空機による神風特攻隊に限らず、様々な特攻部隊が作られ、多くの若者が無駄死にしたのは間違いがない。捕虜になるのは恥辱とされ、もう駄目だと思ったら投降するのではなくて「万歳突撃をする」なんて馬鹿なことを当たり前のようにやった。あるいは「集団自決」で、そうするべきというのは軍人だけではなくて民間人にも広がっていたのが恐ろしいと思う。

私は昔から史跡巡りが好きで、サイパンの「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ」も行きましたが、上陸したアメリカ軍から軍人も民間人も北へ北へと逃げて、そこにあったのは断崖絶壁。海の向こうには祖国日本があるのにどうにもならず、多くの民間人がアメリカ兵の説得も聞かずそこから身を投げた。その現場に立つと、なんとも言えない悲しさ、悔しさが湧き上がってきましたっけ。

私がどうにも許せないと思うのは、「俺も後に続く」と言って特攻作戦を立案して実行した上層部。結局彼らは生き延びで、何ら責任を追求されることもなくのうのうと戦後暮らし続けた。冗談じゃないですよねぇ。また日本政府も、あの大量虐殺の「東京大空襲」「原爆投下」」の指揮官(カーチス・ルメイ)に、後に「自衛隊の育成に貢献した」と勲章(勲一等旭日章)も出している。彼はとんでもない「日本焦土作戦」を立てて、日本の木造家屋をどうやったら効率よく焼けるか日本家屋を立てて研究までしたんですね。それでできたのがあの「焼夷弾」。彼は「もし戦争に負けたら戦争犯罪人として罰せられるだろう」ということを当時に言っていた記録もある。で、結局は、日本の勲一等。

こういう事も含めて、私は日本人の手による「大東亜戦争の総括」「責任追及」が行われるべきだと思うんですよ。でもそれは一切なされることもなく、歴史的にはあの茶番で戦勝国の復讐劇でしかない東京裁判が歴史の事実となってしまった。

またそれと同じように、「アジア諸国にとってあの戦争はなんだったのか」「マレーシアにとってなんだったのか」とか国別の捉え方も再検証されることがあったら良いのにと思っています。

「ペナン陥落(Fallen of Penang)」というドキュメンタリーをマレーシアに来てからテレビで見ました。正直なところあれはがっかりで、「イギリスの植民地として平和に暮らしているところに日本軍が侵略してきた」というストーリー作り。でもそれと同じ様なことをグアムでも感じたことがあって、「植民地化される」ことに憤慨するどころか、グアムでは「アメリカ人になれたことを誇りに思うグアム人」が多いのにびっくり。まぁ、植民地になることで豊かになったり、庶民が気になるのは「毎日の生活」ですから誰が統治者になろうと、「家庭の平穏」がいちばん大事なのはわからないでもない。でもこういう「女性的な発想」は侵略者にしてみると格好の餌食となるんじゃないですかね。これは日本でも同じようで、「中国に侵略されたらどうしますか?」という質問に「すぐに手を上げて降参するべし」という女性が日本には結構多い。

ちなみにグアムとは非常に繋がりが深い私ですが、かつてのグアムはスペインと30年戦争をして、人口が3分の1に減った過去があるんですね。でもその後は戦うにも全く刃が立たないのを思い知らされたと思うのですが、基本的にグアム人はあの戦争に関しては間違いなく反日の立場。また私が仲の良いグアム人家族がいるのですが、彼らは日本人の血を引いていて戦後はかなり苦労したと。でも戦時中、日本軍が上陸した時には優遇されたそうです。また日本軍による統治も最初は海軍で、非常に紳士的で大きな混乱はなかったと言っています。でもその後、陸軍が入ってきてからはとんでもなく怖かったと。スパイ容疑をかけられたグアム人が公衆の面前で首を切って処刑されたり、また日本語の教育も始まっていて、ある時、日本大嫌いなグアム人が「俺はこれを忘れたいのに忘れらないんだ」と軍人勅語を暗唱する老人と会ったこともあります。日本軍に協力させられていたと。

日本では自虐史観が徹底して教育されましたが、日本で起きたのと同じように、アジア諸国でも戦後「戦勝国による教育」が行われた。

日本のみが悪の根源であると。

戦争に負けるというのはそれさえも受け入れないとならないわけで、それを覆して「アメリカが仕掛けた戦争だろう」とか「人類の歴史上最大の無差別殺人を行ったアメリカの罪は?」「アメリカ軍がフィリピンで何をした?」とか言いたいことはいろいろあるのだけれど、戦勝国が「私も悪うござんした」なんて認めるわけもなく、この歴史は固定されて未来永劫続くのでしょう。

そしてあの戦争にもいろいろな見方があるというのも段々と忘れられて、日本人の中に「日本だけが悪かった」という歴史が固まって行くのだろうと思います。近年になって情報公開が進んで、一体、アメリカが何を企んでいたのかなどが明るみに出て来るようにはなったけれど、それで「作り上げられた歴史が変わることはない」と思っています。戦争で負けるというのはそういう事だと諦めています。でも私個人としては「事実を重視したい」気持ちは一生変わらない。

そして思うんですよ。あのアジアに進軍して白人たちを蹴散らす日本軍を大歓迎した人や国もあったこと。そして紆余曲折はあったけれど、アジアの植民地化はそれ以上進まなかったどころか、どの国も独立を果たした。

無駄死にした各国の兵隊、市民も含めて、「貴方達の犠牲によってアジアは救われた」と私は祈りたいと思うんです。歴史的に誰が良いの悪いのは別にして、植民地主義は終演を迎え、それぞれが独立できてよかったと私は思う。

しかし、白人たちが世界で何をしていたのか、それも絶対に忘れてはならないと思うんですよ。

私が気になるのはアジア以上に南北アメリカで、そもそもなぜメキシコではスペイン語を話し、ブラジルではポルトガル語を話し、スペインやポルトガルの血、文化を引く国になったのか。あの地域にあったもともとの国や文化、人たちはどうなったのか。「男は殺し、女には支配者の子どもを産ませる」という常套手段を取るれるとああまでも国は変わってしまう。

あれは過去の話でしょ?と思うかもしれないけれど、そう思う人は中国がチベット、南モンゴル、ウイグルで今何をやっているのか調べてみたら良いと思う。

歴史は繰り返されると思うのだけれど、中国の侵略を止めようとする国はこの地球上に存在しない。自分が儲かれば、自分に関係なければ、他人、他国はどうなっても構わない人ばかりがいる今の世界。ただ今の中国がかつての欧米なのかそれとも日本なのかの見方はいろいろだとは思うけれど、国が、民族が、文化が、伝統が、言語さえも消えようとしているのは間違いなし。

私は「イギリスからの独立を祝うマレーシア」を見て、チベットやウイグル、南モンゴルでも同じことが起きることを願うばかり。

そういえば、イポーの温泉「The Banjaran Hotsprings Retreat」に行った時、そのリゾートの中の洞窟に「日本軍人が書いたと思われる落書きが多数あった」のを思い出しました。

温泉は大正時代から存在したようで、いろいろ時代の落書きがあるのですが、日本軍がマレー半島に上陸し、南下している最中にイポーに駐留したときのものもあるんじゃないですかね。あの温泉で傷を癒やしたんだろうと思います。

また行ってみたくなったなぁ。あの場に静かに座って、あの当時の日本人が何を考え、何を思っていたのか、そんなものでも伝わってきたらいいな、と・・・。でもあの場に行くとやっぱり悲しいんですよ。あの当時はまだ日本軍が善戦している頃で、その後、戦争は拡大し、しまいにはあちこちで多くの兵隊が死んでいった。きっとあそこに落書きを書いた軍人たちは日本の勝利を確信していたかもしれず、そしてそういう人たちの多くはきっと帰らぬ人となったんじゃないですかね。

あそこにたくさんある落書きを一つ一つ検証してみるなんてのも、大事なことかもしれないなんて思ったり。残された日本の縁者に「貴方のお父さんのこんな落書きが見つかりました」なんてことが連絡できたらそれも素晴らしいと思う。

その時の日記。【イポーの温泉「The Banjaran Hotsprings Retreat」その3 旧日本軍の痕跡】(ここをクリック)

 
 
 

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