マレーシアのカテゴリーで、オーストラリアにも悪いやつがいる、いい話ばかりじゃないというのを書いたけれど、フト、18年前にオーストラリアに視察に来たときのことを思いだした。
当時私は30代後半で、オーストラリアへ移住するつもりでオーストラリアの視察に来た。それが初めてのオーストラリアだった。
行ったことも無い国に移住したいなんて考えるのは、今思えばおかしな話で、マスコミやその当時の通産省が進めていた「シルバーコロンビア計画」にうまく躍らされていたのかもしれない。
ただ移住先としてオーストラリアじゃないとイヤだと決めたのはうちのヨメさんで、私としてはカナダに行きたいと思っていた。本当はグアムなのだけれど(グアムは私が一番好きな場所。私の人生観を根本から変えた島)、グアムでは子供の教育に心配があるのと、アメリカの永住権を取るというのはあまりにもハードルが高すぎて無理だった。
もしあの当時、アメリカの永住権が取れたとしたら、グアムかハワイに行っていたかもしれない。しかし今、私はオーストラリアへの愚痴はいくらでもあるけれど、オーストラリアは本当に好きだし、ここに来たのは絶対に間違えではなかったと確信してる。だからアメリカの永住権を当時狙わなかったのは正解かもしれない。
で、話は18年前。
移住を決める前の年に、まずはとりあえず見に行ってみようと、誰一人として知り合いもいない南半球の大陸オーストラリアはゴールドコーストへ来た。そしてまずは、ブリスベンの日本領事館に行き、資料を集めようとした。
その時、日本で調べているときにはわからなかった、ゴールドコーストに日本人会が出来ていたというのを知った。領事館の窓口にペラペラのお粗末なコピーで出来たゴールドコースト日本人会の案内書があったのを見つけた。
これは嬉しかったっけ。当時ブリスベンにしか日本人会は無かったと思っていたし、子供の教育を考えても、日本人会は大事な存在となるわけだから。
その案内書にそれを作成したゴールドコースト日本人会の総務担当理事の名前と電話番号が書いてあった。すぐその場でその人に電話をしたのだけれど、いつでもどうぞいらっしゃい。いくらでもお話しましょうと、私の突然のアポを快く受けてくれた。
早速その方の家にお邪魔した。その家は、当時ゴールドコーストでは一番といわれた場所であるパラダイウォーターズにあった。もちろんウォーターフロントで裏庭の桟橋にはクルーザー(小さなモーターボートではない)が浮かんでいたっけ。www
プールもある大きな家で、おーーーー金持ちーーーと心の中で思いながらその方にいろいろお話を伺った。
何時間話したろうか。その方はザックバランな方で、全く偉ぶるでもなく、話の中に自慢も全くなく、奥様も息子さんも、非常に素敵な素晴らしい方達だった。
ゴールドコーストの話、移住に関するポイント、生活する上の注意点などいろいろ伺ったが、彼はオーストラリアを良いとも言わないし、悪いとも言わない、非常に公平な見方をしている方で、彼が与えてくれた情報は本当に価値のある物だった。
数時間の後、もうこれ以上聞くことはないと思った私の最後の質問は、私たちの話を横で聞いていたお爺さまに向けた。お爺さまは一切口を出さず、何時間もニコニコしながら私たちの会話を聞いていたのだけれど、その方に尋ねた。
「実際の所、今、どういう風に感じてらっしゃいますか?」
その方は答えた。
「もっと早く来たかった。」と
私はこの返事で心を決めた。私もここに移住しようと。絶対に来ようと決めた。
あれからもう18年経った。あのお爺さまはとっくに亡くなって何年経つだろうか。あの時にいた小さな子供も、今では立派な青年になっている。あの時、私にいろいろ教えてくれた日本人会の総務担当理事は今では私の一番の親友と呼ぶべき人になった。
彼には本当に助けられた。私たちがお礼を言っておいとまするときに、一言言った言葉。
「ああ、こちらのブルテンという新聞を見たらいいですよ。土曜日版ね。」
何気なく言ってくれたこの一言も大変な意味を持っていたのが後になってわかることになる。私はその人の言うとおり、土曜日版を手に入れて、その新聞社から土曜日版だけ毎週日本に送ってもらうように手続きを取り、日本にいながら毎週毎週、その新聞でゴールドコーストの情報を仕入れた。
それまで私が得ていた情報は、数少ない書籍、オーストラリア移住を薦める日本のコンサルタントや、日本にあるオーストラリアの銀行、そしてゴールドコーストで日本人向けに不動産を売っていた会社などからであるが、そういう私が仕入れていた情報とはかなり違う、本物のゴールドコーストの情報が新聞には載っていた。話がまるで違う。
まぁ、当たり前といえば当たり前だけれど、まさか自分たちがカモにされそうになっているなどとは、この新聞を見るまで私は気がつかなかった。コンサルタントも不動産屋も銀行までもが、自分たちに都合のいい話だけをしていたのが、この新聞によってわかった。
細かい話をごちゃごちゃ言わずに、この新聞を読んでご覧なさいと、帰り際に一言だけ言った彼の優しさと、懐の深さには頭が下がる思いがした。
後年、私も彼の様に本当の意味で後に続く人たちの為になりたいと思い、彼が務めていた日本人会の理事になり、彼と同じ総務担当、いわゆる何でも屋をやらせてもらうことになった。
私が総務担当理事の間に、どれだけの方々に奉仕できたか自分ではわからないのだけれど、それなりに楽しかったのは憶えている。とにかくお金のない日本人会で、理事会と言うと金策の話ばかりだったのが懐かしい。お金集めでいつも頭を下げて回っていたけれど、中には黙って5万円、10万円寄付してくれる老齢の会員の方々もいて、みんな考えていることは一緒なんだと心温まることが何度もあった。また、お金が出せない人は身体を使って徹夜をしてでも行事の準備をを手伝ってくれたっけ。
忘れられないのは、阪神大震災の時。ちょうどお金集めのバザールをやろうと企画を練っていたところに阪神大震災。これの義援金集めをやろうということになった。
当時の婦人部部長と私とで企画を練り上げたが、実はよこしまな考え方があった。阪神大震災を表に出せば、かなりの売り上げがあがるだろうと。
会場は当時その婦人部部長がやっていた大きなナイトクラブを使った。そこに一体どれだけの人が来たろうか。日本人だけではなく、オーストラリア人の子供からお年寄りまで、店に入りきれないぐらいの人が来た。売り上げも上々。友達でもある日本食レストランの板前達に来てもらって本マグロの寿司を出したり、婦人部の方々がみんなで様々な食べ物を作って売った。大きなナイトクラブであったのでその施設を利用して、映画を子供達に見せたり、カラオケ大会をやったり、また多くの日系企業から協賛を頂いて、ワッフルも大盛況だった。
で、かなりのお金が集まった。さて、どうするか。実は私は余りよく憶えていないのだけれど、結局ほとんど全部の売り上げを神戸に送ったような気がする。神戸大震災義援というサブタイトルが付いたバザールであったし、本来は金のない日本人会の為ではあったものの、日本人会としてそのお金を頂戴するわけにはいかなかった。
良いことをしたと思っていたけれど、後日談としてはいいことばかりではなかった。場所を提供してくれた婦人部長のナイトクラブだけれど、人でごった返したおかげで、店はぐちゃぐちゃになりタバコの焼けこげや食べ物をひっくり返した跡があちこちに出来たり、壊された調度品があったり、紛失(盗難とは言いたくない)したものもあった。婦人部長曰く、バザーで日本人会として集めた金以上のお金が修復に掛かったとのこと。それだけではなく、そのバザーが成功したことをやっかむ人もいて、その店の宣伝に使われたとか、日本人会が利用されただけだとか、信じられないぐらいの非難が集中した。
私も本マグロや魚類などの寿司ネタを自腹で買って寄付したり、二人の板前の出張費を出したりかなりの散財をしたものの、あいつは儲けたんだろうと陰口をさんざん叩かれたっけ。
そして、その婦人部長はそれを機会に部長職を降りた。私は陰口で動揺するような性格じゃないので平気な顔をしていたけれど、あんなバザーをやるべきではなかったとはっきり言われた事はやっぱりきつかった。日本人会の運営も難しいと思ったっけ。
でも、その婦人部長と私は親友と言ってもいい仲になり、彼女の経営するナイトクラブには良く行って、何年もその時の話を肴に酒を飲み交わしたものだった。
今はその店もなく、彼女もゴールドコーストから去っていった。
話は長くなるばかりだけれど、こんなこともあった。
当時、お年寄りの退職者が結構来ていて、それなりに様々な問題が起きていた。中には英語がしゃべれない方もいたし、多少わかっていても緊急時に問題なく意思の疎通ができるなんてことはないわけで、さて、どうしたもんかと頭をひねった。
24時間ヘルプラインというのを作った。こちらの日本人医師にも話を持ちかけて、万が一の時には頼むとお願いしたら、この方も快く受けてくださったので嬉しかったっけ。今でもこの医者は私の主治医。
ただ、その24時間ヘルプラインの電話番号は私の携帯。お年寄りは正直なところ、まさかと思うようなことを日本人会に相談してくることもあり、どんなことでも困ったときには電話をくださいと表明したら一体何が起きるのか、想像しただけでも怖ろしいと思った。でも、困るから日本人会に頼ろうと考えるのであるし、たとえそれが水漏れであろうと、脳卒中であろうと、困っていることには間違いがない。
出来ないことはやらないという主義の人もいるけれど、私は出来ないかどうかやってみようという主義なので、どこまで自分が対応できるかちょっと自虐的な気持ちでこれをやろうと決心した。
で、一体何が起こったと思います?
私の携帯電話にはとうとう一年間に一本の電話も掛かってこなかったんです。
これには正直びっくりした。良かったと思う反面。あいつはあてにならないから電話をしないんだなんて思われているんじゃ無かろうかと、考えたくないことも考えたけれど、まぁ、とにかく電話は一度たりとも掛かってこなかった。そして大きな問題が起きて困ったという話も聞こえてこなかったので、まぁ、私があてにならないからというのではなかったと考えることにしました。
後日、こんな話をあるお年寄りと話をしていたら
「いやーー、何かあったら電話をすれば24時間対応してくれると思っただけで嬉しかったですよ。有り難う。」
と言われた。その時、期待していた答えではなかったので、思わず涙ぐんでしまったのを憶えています。有り難うと言いたいのはこっちの台詞だと思いました。
結局、私は二年理事を務めたけれど、まぁ色々ありましたわ。日本人会にはお金も無かったけれど、日本語補習校設立という大仕事があって、それも内部でもいろいろもめて、怪文書が流れたり、脅迫があったり。地元の日系新聞社までも巻き込んで、日本人会が分裂して多くの人が去っていったり、そんな大騒ぎになったなんてこともありました。
今となっては全ていい思い出ですが、私自身もその後はなんとなく日本人会と距離を置いて、今ではほとんど日本人会と接点がなくなってしまった。
と、まぁこんな感じのことでいろいろありましたが、このブログを作ったおかげで何年も前の懐かしいことを思い出すことが出来たのは良かったような気がします。
ところで、私は東京生まれの東京育ちで田舎もないのだけれど、どういうわけか東京というのは故郷と呼べない雰囲気がある。幼少の頃育ったのは新橋のど真ん中で、お祭りには芸者だけの芸者御輿がでたり、すぐ近くの裏通りはゲイバーの発祥地である細い路地があって、後に超有名になった「葵」のママがいたり、子供の頃から女形には親しんでいた。また、家の真ん前は芸者の置屋で、夜になると芸者が歩き、耳を澄ませば遠くに新内流しの三味線が聞こえたような街だった。
でも今、新橋にそういう面影も全くないし、当時の知り合いも全くいない。東京とはどこでもこんな感じなのだろうと思います。友達に浅草育ちがいるけれど、やっぱりかなり変わってしまったと言っていました。
そんな私が17年間住んだゴールドコーストは、やっぱり昔とはかなり変わってきたけれど、基本的な物にはなんの変化もない。美しい空と海と風。そして底抜けに楽しいオージー(オーストラリア人)達。もしかしたら、ここが私にとっての心の故郷なのかもしれないなんて思うことがあります。
17年前に1歳の時に一緒に連れてきた次男坊に聞いたことがあります。
「お前の故郷ってどこだ?」
「あはは、ゴールドコーストに決まってるじゃん。」だとさ。
そして、続けて彼は言った。
「でも僕は日本人だ。日本が本当の故郷だよ。」と。
そんな嬉しいことを言ってくれちゃう次男坊も、今は大学生、そしてこれから就職、どんな人と結婚して、どこに住むのだろう。一体どうなっていくのだろう。全く想像がつかない。どの国に将来いるのかさえもわからない。
我々夫婦も、子供達ばかりに向けていた視線を変える時が来た。
マレーシア・・・・・・
私たちはほんとにマレーシアに行くのだろうか。そこでやっていけるのだろうか。
また、ゴールドコーストで経験したような楽しい、有意義な生活が待っているのならいいなぁ。そして、楽しい思い出を語れる場所になるのだろうか。
18年前、私の友人のお爺さまが言ったように、
「もっと早く来たかった。」
と言えるようになるのだろうか。
おーーい、マレーシア!!これから行くぞ!俺たちを待っててくれよー!!