マレーシア人の話を聞いて思うこと

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マレーシア人の話を聞いていて思うことは、結構オーストラリア人と似ているということ。

時間にルーズ、仕事を一生懸命しない、約束事を守らないなんてのは全く同じ。初めの頃はオーストラリアに渡った日本人が集まると、すぐその話しになりました。でもそのうち慣れてきますし、みんな同じ事を言います。

日本の価値観をこちらに持ち込むべきではない、と。

まぁ、こちらにすると文句は色々あるわけですが、それは相手から見ても全く同じで、異質だと感じるってことは、相手もこちらを異質だと感じているんですね。どちらが正しい、悪いかはどっちサイドに立つかによって答えは変わるわけで、どっちが本来あるべき姿かどうかは誰にもわからない。こちらが正しいと信じているのは自分と、そして自分に似た価値観を持っている仲間だけ。

ただ一つ言えることは、そういう異質な我々を快く迎えてくれる人がたくさんいると言うこと。もちろんアジア人として見下されたことは何度もあるけれど、心から迎え入れてくれていると感じたことの方が何十倍も多い。

で、私はその受け入れ方が日本人とは違うと思うんですよ。日本人の外面が良いのは日本人の特徴だと思うのだけれど、彼らの受け入れ方に私は愛を感じることが多くあります。愛だなんて言い方はちょっと臭いかもしれませんが、実際にそう感じます。私は残念なことに、そして悲しいことですが、そういう愛を日本人から感じたことは私の人生の中でもそうは多くないんです。私に言わせると、日本人のは愛ではなくて、単なる外面、あるいは同じ価値観を持った者同士の連帯感みたいな感じで、異質な物を愛して受け入れるということは希であると思っています。でも、彼らの受け入れ方には愛を感じるんです。まるで中身が違うと思っています。単なる外人に対するホスピタリティー以上の物を感じます。

価値観も違えば常識も違う、当たり前だと思うルールさえ違う。でも、そういう相手をちゃんと認めた上で受け入れている。諦めて付き合ってくれているケースも多いだろうけれど、無償の愛と言うか、懐の深さを感じることがあります。30年前のグアムでそれを感じて人生観がかわりました。オーストラリアでもそうでした。どうしてそうなのか考えてみると、どうもキリスト教に関係があるのかなと思いますが、とにかく日本人とは違う。

で、その日本人ってのがこれまた面白いんですね。海外に出たら日本の常識は持ち込むなという癖に、日本人同士が集まると、そこは突然日本になってしまう。全て日本の論理で動く。

日本人はどこへ行っても日本人なのか。日本人の呪縛があるようにさえ感じてしまいます。

ところが、そういう日本人の呪縛に気がついている日本人、その呪縛からすでに離れちゃった日本人も中にはいるんですね。これは日本では常識だ、なんて言っても全く通じないし、聞く耳さえ持たない。それは単なる貴方のローカルルールでしょ?としか言わない。そういう人の多くは日本人が苦手だと言って、それなりの距離感を持って付き合う人もいる。

海外に出て、そこで我々の様な異質な日本人を受け入れてくれる人々がたくさんいることに気がついて、そこに喜びを感じる。でも、では自分はその人たちと同じように異質な物を受け入れることが出来ているかどうかを考えると疑問。単に諦めているだけかも知れない。所詮、日本人には異質な物を愛するということができないのか、なんて思うこともしばしば。

日本人的な村社会の常識を自分の中から捨てることができたら、それこそが海外に出て得ることができる一番の収穫かもしれないなんて思います。100人人が集まれば、100通りの正義と常識があって、そこには日本人もオーストラリア人もそしてマレーシア人も関係ないんですね。みんながそれぞれ個性を持っている人間で、皆平等。それぞれがそれぞれを愛を持って受け入れることが出来たら良いのにと思います。

私は自分の息子が殺人者だろうと、世界でたった一人の理解者になろうと思います。自分に食べるものが無くても子供達には食べさせたい。でも私は世界の裏側で死んでいく見知らぬ子供達には涙も流さない。穴に落ちた犬をみんなで助けることはするけれど、毎日死んでいく牛や豚ニワトリに涙を流したこともない。そんな自分から一つ殻を破って出てみたいと思っています。

マレーシアにはどんな愛があるのか楽しみです。

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