根っこの部分

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今回の大災害で感じ、考えたことがたくさんあります。ありすぎます。ありとあらゆること、また一方向からの見方ではなくて、考えられる様々な観点から、災害とは、援助とは、ボランティアとは、人間とは、日本人とは、外人とは、命とは、命の価値や尊厳とは、恐怖や不安とは、安心とは、政治家とは、リーダーとは、資質とは、選挙とは、選挙民とは、書いても書ききれないことを今回は日本の惨状を画像や映像で見ながら「どうするべきか」「どうあるべきか」「自分は何をするべきか」とずーっと考えていました。

そしていつもなら考えない事、そこまで至らないこともお国の一大事、多くの犠牲を目の前にして考えるチャンスでもありました。そして今まで全く気がつかなかったこと、考えもしなかったこともたくさんある事に気がつきました。それをここに書きたいのですが、この前、ちょっとそれらしき事を書いたものの、余りにも自分には自分の考えをまとめて書くという能力が欠如しているのかがわかるばかりで、書けば書くほど、違うんだよなぁ、私が書きたいのはこれじゃないと思うばかりでイライラしておりました。

そして自分の中には解決できない物事ばかりで、根本的な考え方が欠落しているのにも気がつきました。

一体何のことを言いたいのかさっぱりわからないでしょ?(笑)

何が言いたいのか書くのも私には難しいのです。ただあえて書くのであるならば、我々が、あるいは自分が今まで正しいと思っていたことが実はそうではないんじゃないか、単なる思い込みじゃないかと思う部分が多くあったことです。

またこういう国の一大事が起きると右翼的な考え方が国民を支配するのを目の当たりに見ました。私の基本は保守派ですから、こういう時に国民が右傾するのは当然といえば当然で、それを悪いというのではなく(良い事だと思う)、そういう傾向に気がついたというだけのこと。

当たり前じゃないかと言うかもしれませんが、全体主義、そしてそれがいつか軍国主義に繋がるのだと主張する左翼でさえもこういう時には右傾するという現象に興味を持ちました。これは私にとっては嬉しい事で、全体主義は駄目だ、国旗掲揚、国歌斉唱もだめだという連中が「国難に当たり」「一致団結し」「心を一つにし」「万難を排し」と、保守丸出しになったのが嬉しいくらいです。

ただそれは保守も左翼もそれは思想の違いだけであって、根本的な日本人としての根っこの部分は全く同じだとわかったということでもあるのです。これは良い意味で言っているのではなく、一大事が起きると「全体主義」になるのに誰も疑問を持たないという「危険」を感じたという意味です。中にはこの全体主義的な考えを当然のこととして、自分は自分の考え方で生きている他人にさえ、「こういう時にはこうするべきだ」と他人の領域に簡単に入り込む人もいたし、それを誰もが不思議に思わない現象もあちこちに見ました。また聞きたくない情報は無視するところも大いにあり、いかにこういう時には人間の本性が出てくるかといういのがわかりました。これは大変な目にあっている被災者ではなくて、それを助けようとするまだまだ余裕がある側の話です。

多くの人が否定する日本の戦前戦中の出来事。でも感情的には全くあれと同じで、憲兵がいてまたその憲兵のやることを当然と思う民間人があの頃は多かったのだろうことが簡単に想像がつきました。災害と戦争を一緒にするバカがいるかと言う人がいるでしょうが、そうじゃないと思います。一大事が起きると、何が正しいのか冷静に物事を判断できなくなることがあるというところが問題なのです。国がひとつにまとまって一つの方向に動くことの怖さを言うのであって、その方向が良いほうか悪い方向かは問題ではないと思います。悪い方向にはまとまるわけがないじゃないかというのは人間を甘く見ていると思いますし、そもそもあの戦争にしてもあの頃は良いことだと多くの人は信じていたのですから。

そもそも「善悪」とはなんなんでしょうか。それさえ明確な答えは無いのに、国の一大事に冷静になってそれを考えられるひとがいるのかどうか。今回は国民が一丸となって良い方向へ動いていると私は思うのですが、冷静さを失って、感情を高ぶらせて全国民が一つの方向へ動く事が良い事だと思う人が多くいるのは見て、違和感を感じました。良い感情もそれを無条件に解き放つと、その良さを通り過ぎて危険になるのを感じたということ。またその心の動きは政府やマスコミによって簡単に煽られてしまうという危うさ。そして一般的にはそれが間違っていないとみんなで信じてしまうことの怖さ。

また「助けたい」「役に立ちたい」という自然な気持ちが起きるわけですが一体それはどこからそういう気持ちが生まれてくるのか、「命の価値」ってなんなのか、そもそも「命は守るべき」なのかどうか。常日頃、何の理由も考えずに当たり前だと思っていることを今回随分考えさせられましたし、自分の中にある「おかしな理屈」、また世の中で常識といわれる「根拠の無い基準」にも気がつきました。

本当はそれを逐一書き出し、書きつつ自分の考えをまとめ、一体どうあるべきなのか考えてみたいと思うのですが、それは無理。ま、そんなことでこの日記には感じたこと考えた事の断片を書くしかないのですが、自分の中ではどうにも分からない事、納得できない事ばかりで、苛立ちに近いものがありました。

そんな迷いを解明し答えを出す方法として宗教がありますが、私の経験上では多くの宗教が独りよがりであり、また偽善であり、そして洗脳であると思っていて、今ではなかなか真剣に飛び込んでみようという気がしないのです。子供の頃から宗教には興味がありまして、また幸いな事に自分を縛る宗教が家にはありませんでしたので、自由にあちこちの宗教を研究する機会がありました。でも私が行き着いたところは、どの宗教も「価値観の押し付け」でしかなく、真理に導くための手段として余計なものを切り捨てる方法を取っていると思うようになったのです。いわゆる臭いものにふたをするという方法で、真の解決方法には出会えませんでした。

これはたまたま私が出会った宗教がそうであっただけかもしれませんが、私はそういう中に入ってそれに染まる事に救いなど無く、それに恐怖さえ感じるようになりました。その後は宗教から離れ、いわゆる精神世界の本を読み漁る様なこともしていましたが、ほとんどが「信じること」を強要しているのみで「理解」させてくれるまでには至りませんでした。

そんなことからそういう書物からも離れ、自分の生活の中で何がわかるのか探し続けて来た訳ですが、今回の大震災で今までの何十年分の事柄を一度にまとめて考えさせられたような気がします。そしてやっぱり歳なのでしょうか、今まで気がつかなかったものも見えたし、今までは想像もできなかった考え方に至るようになりました。でもそれは理解したという意味ではなく、ますます疑問が増えたと言っていいくらいです。

自分にこの答えは見つけられるのかと半分ヤケクソになりながらインターネットの中をサーフしていたのですが、面白いサイトを見つけました。そこには全く宗教臭さも無く、難しい理論や哲学でもなく、私の頭でも十分理解できるような易しく段階を追った考え方が示されており、最初のたった数ページを読んだだけで自分が長年持っていて疑問、堂々巡りのジレンマ、そんなものがすーーっと氷解していくような気持ちよさを感じました。

どういう内容がどうかというのを書き出したらいつでも長い文章がきっと100倍ぐらいになるので具体的なことを書くつもりはありませんが、そもそも「価値」とはなんなのかという、私が抱える問題の核心部分に関してはよく理解できる事が書いてありました。一般の市井の人で、これほど深いところを論理的に、しかし感情的にも違和感なく受け止める事ができるウンチクを書ける人って珍しいと思いました。

我々が日ごろの生活の中で正しいと信じている「価値観」の正体に疑問を感じることがあるような方には一読をお勧めします。

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これを書いている人は「院長」という名前を使っていますがどこの誰でどういう人なのか全く分かりませんでした。気になるので調べましたところ、動物病院の院長さんのようです。そのホームページを見ましたら、病院の写真や診療内容、近隣の地図等が出ていますが、何県の何市だか書き忘れているユニークな院長さんのようです。

こんな人と一杯飲みながら話をしてみたいもんです。

この人のコラムを読みながら、昔好きで読んでいた「半村良」のSF小説を思い出しました。私は彼のSFを通して見えてくる彼の世界観や価値観、問題の投げかけが非常に好きでした。

そんな中で題名は忘れましたが、あるSF小説のあるワンシーンが忘れられないのです。物語は江戸時代。そこへ宇宙船が飛来し、確か難破したのだろうと思います。乗組員だった宇宙人はその後知り合った地球人たちと旅に出るのですがその一シーン。

険しい山道を進んでいった先には、目の前に花が一面に咲き乱れる広大な息を呑むほど美しい野原があったのです。地球人たちはそれを見て、ほっとし、その美しさに酔いしれていたのですが、その宇宙人だけ泣いているのです。なんとまぁ恐ろしい世界だと。生き物が生き物を殺して食い合う修羅場の世界だと。地球人がびっくりして、じゃぁお前の星ではどうなんだ?と聞くと、どんな生き物も他の生き物を殺すことなく共存共栄できる星だと答えます。

私がこれを読んだときに受けたインパクトが忘れられません。私の琴線に触れたのかもしれません。我々が常識だと思っていることは我々にとっての常識でしかないってことなんですね。

これに似たことはいつも感じていまして、特に穴にはまった犬を皆で助けたり、あるいは浅瀬に乗り上げた鯨を助けたりの話。そういうストーリーの報道は昔にはありませんでした。犬畜生の命は昔は軽く、心配する人が勝手に助けるだけで、警察や消防まで動因してみんなで一致団結して助けると言う話は、昔は聞いたことがありません。でも時代と共に代わり、動物の命も人の命と同様、皆で助ける時代になってきた。ところがですね。その助けた仲間同士があとで祝杯を挙げるわけですよ。お疲れ様~~、良かったね~~って。BBQやりながら。これに全く疑問を感じない人たちっていくらでもいるわけで、じゃぁ、牛や豚の立場はどうなるの?と私はいつも思うのです。

これをいうと、やっぱり変人扱いされるのが常で、今日ぐらいは牛や豚も食べるのを止めようかと言う話にはならない。

それと同じで飼っているペットには犬猫だろうと金魚だろうと一生懸命可愛がるのに、居酒屋で出てくるまだピクピク動いているアジの生き造りを見て、女性さえも美味しそう~~~とニッコリするのに私は違和感を感じるのです。ヨメさんの友達がオーストラリアに来て、草をはむ牛を見て美味しそう~~~って言ったのにはびっくりしましたが。(笑)

ま、そんなこんなで、「命の重さ」は人間が勝手に作った「基準」に基づくもので、そこに真理も無ければ何もないってことですよね。ただ自分にとって大事なものは大事で、大事じゃないものはどうでも良いと言う事実だけがある。昔は人の命の価値さえも上下があるのが普通でした。

おかしなことを言うやつだねと思うでしょうが、今現在オーストラリアにおいてはピクピク動く活け造りは法律で禁止されていますし、料理で使う海産物も、一度殺してから使う、生きているまま包丁を入れたり、火に掛けないというのが常識化しています(偽善だとしか思いませんが)。また日本人が良くやるマグロの解体ショーですが、我々日本人は嬉しそうに興味津々見ていますが、それに招待されたオーストラリア人たちは、壇上で解体される牛や豚を見るのと同じ目で見てるんですね。彼らから見た日本人はデリカシーのかけらもない野蛮な民族ってことでしょう。また逆に、鯨の事はうるさいのに牛や豚はどうでも良い、ただ殺し方には気をつけましょうという考え方は日本人から言えばただの偽善。

これは場所が変われば、人が変われば常識や価値観も変わるのが当たり前でこれはこれで良いじゃないかと終わらすのではなくて、この両方の考え方を超える何か別の考え方があるんじゃないかと思うんですよ。で、それが存在するはずだという、なんと言いましょうか、手ごたえみたいなのがうっすらあるんです。でもそれが何なのかはっきりわからない。

またこんなオーストラリア人に会った事もあります。友人宅のパーティーの席でしたが、彼は珍しく菜食主義者で、東洋人である私を捕まえて「命を尊ぶ重要性」を説き始めたんですよ。彼の家ではゴキブリもねずみも殺さないそうです。

で、私は言ってやりました。「ベジタリアンですか。それは非常に良いことだけど、ニンジンは食べるの?」って。彼の答えは予想通り「イエス」でした。これがおかしいのは分かりますよね?命を尊ぶベジタリアンなら根菜類は食べないのが普通です。にんじんを食べるという事は土に埋まっているニンジンを掘り出して殺す事を意味しますから。宗教上の理由でベジタリアンである人たちの多くは根菜類は食べないのが普通でしょう。収穫してもその命が死ぬ事は無い木の葉や木の実を主食とする。

また、そのオーストラリア人は自分はこの数年小動物を殺した事も無いとゴキブリの話に添えて言うものですから、「それも凄いことですね。道を歩くときに蟻を踏まないように歩くのも大変でしょう」って言ってやりました。

彼はそれに答えることなく私たちのテーブルから去っていきました。まぁ、私は意地悪ですが、こういう偽善は好きではないのです。また自画自賛している人に、そこに間違いがあることも気がついて欲しいと思うのです。基本的な考え方は素晴らしいのですから。

こういう話をして、心底打ち解けて話が合うのはインド人の友人だけです。やっぱり彼らの歴史には重みがあると感じることが多いです。

ま、いろいろと書きましたが、普通はこういう話はまずしません。相手から言ってくれば乗りますが、自分から話し出すとやっぱりあいつは変人だ、噂通りだと思われるのがわかりきっていますから。(笑)

まぁ、ここは日記ですから好きに書かせてもらっています。

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