アダムとイブ

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イブがかじったリンゴ。原子力って人類がかじった二つ目のリンゴみたいな気がしてきます。

原罪って宗派によって捉え方が違うわけですが、原子力を頭に入れた上で原罪論を読むとまたいろいろ見えてくるような気がします。

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新約聖書の中でパウロの言うこれって興味深いと思います。

「私には自分のしていることがわかりません。なぜなら私は自分がしたいと思うことはせず、したくないことをしてしまうからです。もし、私がしたくないことをするなら、律法を善いものであることを認めます。もはや、したくないことをするのは私ではなく、私の中にある罪なのです。私は自分の肉体の中には何も良いものがないことを知っています。 正しいことをしたいという気持ちはあっても、できないのです。私は自分のしたいことをするのではなく、したくないことをしています。もし私が自分の望まないことをするなら、それは私の中にある罪のしわざなのです。私は自分がしたいことをしようとするとき、すぐに悪がやってくるという法則を発見しました。私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマの信徒への手紙7:15-24)

私はキリスト教を良く理解していませんから適当な事を書きますが、どうしても自分は善人であるべきだと考え、人間が持つ矛盾や罪を全部キリストが背負ってくれたという考え方がどうにも心に響いてこないのです。責任転嫁とでも言えるような逃げ、無理やりそこにこじつけた感じさえします。

何を言うかバカやろーと思われる方は、これを読んでみろってのを教えてください。私も是非理解してみたいと思ってます。

反面ユダヤ教ではこう考えるらしい。

「ユダヤ教では、神は人間に常に選択の自由を与える方であるとみなされる。エデンの園でのアダムとイヴはロボットのようなもので、彼らは木の実を食べ、追放されることで初めて自由意志を行使した人間になった。神はこれを望んでいたのだ、というのが改革派とユダヤ教正統派による原罪理解である。」

この考え方って現代に繋がる論理性を感じるんですが、では「自由意志」を持つことが良いのか悪いのかそれがわかりません。自由意志を誰もが持って宜しい、そして自分のそれを認めることが他人のそれを認めることであり、それが民主主義に繋がっていくのでしょうが、際限の無い自由意志を認めるはずもなく、そこには神の意志が決める限界があるとするならば、それは自由意志ではなくなりますよね。それとも際限が無くてもOK?

でもこの基本的な考え方にユダヤ人がもつ傲慢さを感じなくもなくて、「自由意志を持つことを許されたユダヤ人」と考える事によってユダヤの特徴的な選民意識が育ったような気がします。つまり異教徒には自由意志を持つ権利がないと。この考え方がイルミナティを作り、世界を自分達が治めるのが当然という方向へ動いていくのだろうと思います。

その点、カソリックが言うのは心情的に私には理解しやすく、

「つまり(原罪とは)アダムが神に従うのでなく自分自身によって、本来神にしか判断できない問題である何が善で何が悪かを判断しようとしたことであると考えられている。」

まさにこれが人が神と並び、生命体の中で人間が頂点であると信じるようになってしまった切っ掛けの行動であり、それが罪ということなのでしょう。とはいうものの、その罪は

「カトリック神学においては、洗礼をとおして信仰者が第二のアダムであるキリストに属するようになる時、この原罪は取り除かれるとしている。」

というように、どうしても罪から逃れたい、逃れなくてはいけないという考えが原点にあるのが私には理解できず。

罪を逃れるために何をするのかではなくて、罪と共に生きるという考え方の欠如って私には理解が出来ません。神は絶対のものであるからして、その神に逆らった罪はどうしても償い、許してもらわなければならないという考え方に縛られる理由がわかりません。どうしてそこまで善人であろうとするのでしょうか。いやいや、それがあるから法治国家の考え方も生まれてくるのかもしれませんね。私みたいな考え方だと法治国家さえ否定する事にもなっちゃう。

イブがリンゴをかじってしまい、それを許したのもアダムであり同罪。でも罪を犯したのであるなら、その許しを乞うのではなくて、二度と罪を犯さないと考えるのが先であるはずで、キリストによって、あるいは上にあるような洗礼を通してその罪が許されたと考えるところに今度はキリスト教の傲慢さが出てくるような気がします。

原罪はもう無く、神に許されたと信じる者が考える事は間違いがなく、それは神の意思だという、どうにかして自分を正当化しようとする、上のユダヤ教に通じるものを感じます。

これが八百万の神を信じ、真実はどこにでもあると考える日本人が欧米人の発想に違和感を感じるところであり、欧米人が神の名の下に平気で殺戮を続けてきた歴史を理解できない理由のような気がします。

逆に、一度犯した罪は消えずそれと共に生きるべきだと考え、唯一の絶対神はおらず八百万の神がそれぞれ言うのを受け入れてきた日本人は、許すことが嫌いで悪いヤツははいつまでも悪いヤツとして非人・エタを作りだし、前科者は前科者として許すことなく一つの括りに入れ、そうかと思えば真実はいろいろあるわけだから物事には白黒をつけずに談合と言うか馴れ合いと言うか、自分の意見を言わず、また言わせない社会が出来たような感じもします。

ま、こんな簡単に論ずるような内容じゃありませんが、私は大雑把にこんな違いがあると思っていて、人間の進化として次なる価値観を人間が持つ必要があるんじゃないかと思うわけです。

その答えが仏教の中の「哲学」にあるような気がしないでもないです。って私は仏教の信者じゃありませんが。

ニーチェが言う「神は死んだ」。そしてその次にあるものは何か、これを「信じる」のではなくて「理解」してみたいというのが私の夢。でもそれは決してヒューマニズムというやっぱり人間を頂点とした傲慢さが残る考え方ではなく、そういう所詮人間が作った価値そのものから離れたいと思うのです。世の中のいかなるものにも「価値は無い」、というか「(人間が勝手に作った)価値」という概念そのものを乗り越えてみたいのです。ではその次にあるものは何か?

まぁ、とにかく、原子力とはイブがかじったリンゴであると思うし、賛成派も反対派も、そのイブがかじることを認めてしまったアダムと同じように同罪だと思うわけです。良いの悪いの言う前に、リンゴとは何か原子力とは何か、その辺を考えずに私の中でどうするべきかの結論は出ないと思ってます。危険とか安全とか、そういう判断基準ではない、それを超えた「何か」が必要な気がしています。

ということで毎度の話で結論は無し。(笑)

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