嬉しかったこと

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超長文につき注意! (笑)

まぁ、本当にこのブログって変なブログで、マレーシア情報なのかゴールドコースト情報なのか、ロングステイ、早期退職に関するブログなのか、そうかと思えば金のことばかり書いているし、カメラじゃ料理じゃ音楽じゃと普段のなんてことのない趣味の内容が突然出てくる。

でもブログとは情報発信のツールではなくて、単なる日記だからこれでいいのだという言い訳を書くたびに自分にする毎日。

でもこんなブログでも興味を持ってくれる人がいるのは本当に有難いし、面白いと思うんです。一体このブログのあるいは私の何に興味があるのか、面白いのか。

このブログにはアクセス解析機能がついていまして、どこの誰がアクセスしたのかはわかりませんが、良く来てくれる人は何人いてどのくらいの頻度で来ているのかとか、そういうのもわかるようになっています。で、コメントの数を見ますと、せいぜい数人しか来ていないだろうと思うものの、そのアクセス解析からわかることはなんと200人を超す方々が定期的に読んでくれているのがわかります。

その頻度ですが、私が見たり書いたりする以上の頻度で来ている人もいるんですね。4時間前に来たとか(笑)。それは極端ですが、12時間前に来た、24時間前に来た。こういう方々の数ってちょっと信じられないくらいの多さで、私としては本当に有難いと思っています。感謝もしています。

でもそういう方々がいらっしゃると思うと、このブログはこういうわけのわからん内容でも良いのだと私としては思うわけで、それどころかもっとわけのわからんことを書いた方が読者の方々は喜ぶのではないか、なんてことも思うんです。

ということで、ご期待に沿ってぶっ飛んだ内容を書きます。(笑)

先ほど嬉しいと思うことがありました。このブログはコメントを頂くとそれが←の欄に表示されまして、かなり古い日記でもそれがわかります。

で、今日見つけたコメントですが、なんと去年の3月、震災直後に書いた日記にコメントがついていました。こういうのは凄く嬉しいです。当然、検索で偶然ヒットして訪問なされたのでしょうが、中には「全部読みました」なんていう方もたまに出てきまして、このブログをやっていて良かったどころか、生きていて良かった。そんな風に思います。

皆さん、いつも有難うございます。

そういう古い日記にコメントが着くことは嬉しいのですが、その日記の内容が問題。三島由紀夫に関して書いた日記だったのです。

これ  ←  クリック

その日記に書いた内容は、私の根源とでも言いましょうか、いつも考えていること、悩んでいることそのものズバリの内容なんです。でも書いた時点ではコメントはつきませんでした。まぁ、三島由紀夫に感動したなんて内容ですから、時代錯誤も甚だしい、またこいつは危ない右翼だ、あるいはホモか?なんて思ったのでしょうか。(笑)

今改めて自分が書いたその日記を読みましても、これが私だ!というのがこの日記ほどはっきりわかるものは他に無いように思うくらいです。

これってロングステイや老後の生き方に関する考え方にも当然繋がっていて、どこで何をするのかという前に、いかに生きるのか、何を大事にするのかという根源の私の考え方を書きました。ただ、自分の中にはこれが絶対だという確証みたいなものもなく、相変わらずフラフラしながら優柔不断な性格の常でしょう、目標も定まらずグダグダと考え悩み続けているだけなのですが、でも私に取って一番重要な事柄です。

私の老後は恩返し、あるいは懺悔の老後だと思うのはいつも書いていること。ご褒美人生という言葉がロングステイヤーの中では流行っていますが、私には全く縁のないことです。というか、どうして自分が自分に褒美を与えることができるのか、どうしたらそこまで自分の過去を認めることが出来るのか、私にはそこが全くわからないのです。別に私は極悪非道の生き方をしてきたわけではありませんが、単に流されて生きてきただけのろくでもない人生でしたし、私としては褒美?まさか、としか思えません。(だからといって、自分に褒美を上げたい人は変だというつもりも毛頭無いのは一応書いておきます。)

つまり、ご褒美人生を送れることそのものが素晴らしいんじゃなくて、「自分に褒美をあげても良いと思える考え方」に幸せがあるんだろうと思うわけです。自分で自分を見下しながら生きてきた私にはそれはあり得ないことですが、もし私に褒美を与えても良いと思うとしたらそれは決して自分自身じゃなくて、いつか三途の川を渡ったときにそこで誰が私を迎えてくれるかわかりませんが、その誰かの一言が重要だと思っています。

「お前は全くろくでもない人生を送ってきたな」と言われるのか、それとも「ご苦労さん」と言われるのか。私としては「まぁ、お前の人生に満点なんか当然やれないけれど、及第点はやるよ」と言われたら嬉しい。それが私に取って最高の、究極のご褒美だと思っています。

でも一つ間違いがないのは、今まで通りの生き方を今後も続けていったとしたら、そのご褒美は絶対にもらえないという確信があるってこと。

これが困るんですねぇ。

三島由紀夫に関する日記にも書きましたが、私は自由を求めて生きてきました。これって外部から抑圧は受けない、強制されるものなく、自分の意思で自分の人生を生きるということは当然のことながら、自分自身からの卒業というか開放というか本当はそこが大事だったんですね。でも私が見つけたもの、自由を追い求めた先にあったのは、何のことはない、自分が自分を縛っているだけだという事実だったんです。

束縛とは外部から受けるものではなくて、自分の中に存在するもので外部は関係がないこともわかりました。「敵は本能寺にあり」なんて言葉がありますが、自分の最大の敵は自分自身の中に存在する。最大のライバルも自分自身。そんなことを感じながらではどうしたらいいのかがわからずに来てしまったのが私の人生。

これをどうにかしたいわけです。

そしてそれがいつも私が書いている「自立」ということで、私の人生最大の目標です。

自立と書くと「自分で稼いで自分で生きていくこと」を私が意味していると勘違いする方が多いのがわかっています。でも私がいう自立はそういう自立ではないのです。もし「自分で稼いで自分で生きて行くこと」が自立だとすれば、またどの親も子に望むものはそれですが、私としてはそれ自体は難しくないと思っています。犬でも猫でも、あるとあらゆる生命はそうやって生きているし、過去から現在もそうであったし未来もそうでしょう。当然、そこで自然淘汰が起きるわけですがそれは自然界の摂理で仕方が無いこと。

私の言う自立は「本来あるべき姿を自覚し、それに沿って生きること」を意味しています。

ただこれは言うのは簡単ですが、実行は難しい。そもそも本来あるべき姿って何?という難題を超えるだけでも不可能かもしれない。でもそれをどうにかするのが人間が人間である証拠で犬猫との違いだと思っています。またそれの答えはきっと出ない、あるいは人それぞれ違うのでしょう。でもその探求を止めてはならないと思っています。

そんな時に、あの大震災が起こりいろいろ考えさせられました。特に原発事故では今の日本社会の汚点がはっきり見えましたし、政治家も企業家もマスコミも保身しか考えていないんじゃないかと思うくらいの体たらく。でもこれって他人事じゃなくて自分も含めた今の社会の姿なんだと思いました。

そんな時に、偶然三島由紀夫の動画と出会いました。

私はあの事件そのものの当時は学生でしたが、全くわけがわかりませんでした。なんだか世の中は狂っているという曖昧な感触を持っていましたが、自分が、日本が、世の中がどうあるべきかなんてことは全くわからず、またそんなことも考えずに、「いかに食うか」「いかに生きるか」そして「いかに楽しむか」しか考えてませんでした。だから同世代の若者が学生運動に走った時代ですが、「バーーカ、まずは自分の頭の周りのハエをどうにかするのが先だろうが」と冷ややかな目で見ていただけ。ただ三島由紀夫が変というより、変な日本を変えようとしたという感触は持っていました。

で、こんな歳になって三島の言うことが心に響くんです。

まず、彼の言う「人間が自分の為にだけに生きるのに卑しいものを感じるのは当然」 はまさに当然で、でも最低限の衣食住が備わってこそ自分以外のことを考えられるのも当然で、そうじゃなければ畜生レベルから出られるはずも無い。私は綺麗ごとを言うつもりは全く無くて、「もし子供たちに食わすものが無ければ盗みでもなんでもする」と大勢の前でしゃべって顰蹙を買ったことさえあります(笑)。でも人間の欲望は際限がなくて先進国のトップグループの日本に暮らしているのに「寄付?ボランティア?冗談じゃない、こっちがして欲しいぐらいだ。」と言う人が多いのも不思議なもんです。世界の人口の半分は毎日2ドル以下で生活しているのに。

そういう意味で、究極の自立を目指すには諸悪の根源でもある金をどうにかするのが重要だと私は考えています。金で左右される人間は最悪だと思いますが、金が無くてもどうにかなる、どうにかすべきだという聖人君子みたいな考えは私は一切持っておらず、諸悪の根源である金だからこそそれを制するべきだと思っています。だから、まずは稼ぎましょうとこのブログでも言い続けているし、私も金と戦い続けています。私はこのブログでお金のことばかり書きますから、よっぽどの金亡者なんだろうと思う人もいるようですが、私としてはこの世の中で一番悪いもの、一番嫌いなものが金だと思っています。だからこそそれに負けたくないし、それを制しなければ何も始まらないと思っています。だから自立の話をしたときに、まず金の話になるわけですが、それは自立に近づくための一つの方法、あるいは最短距離、本来そうあるべきじゃないとは思うのですが、これなくしては単なる理想論になってしまうと思っています。

そして三島の言葉で私が本当に驚いたのは、

「自分の為だけに生きて自分の為にだけに死ぬほど人間は強くない」

「自分の為だけに生きていることにはすぐに飽きてしまう」

という言葉でした。

人間って弱いから自分のことばかり考えるのだろうと私は全く疑っていませんでした。でも三島は逆のことを言うんですね。というか、観点が全く別次元とでも言うべきなのでしょう。でもこの言葉は本当にインパクトがあって、この考え方で私の中の矛盾が氷解するような思いをしました。

「自分の為だけに生きていることにはすぐに飽きてしまう」というのも同じで、私は自分の自由を追い求めてきましたが、行き着いたところは虚無感だけだったという実感があります。また、自分のことだけを考えてずるく生きるのが(弱い)人間の本性かと思いきや、そうじゃなくて、そもそもそんなことが出来るように出来ていないってことなのでしょう。だからこそ「人間が自分の為にだけに生きるのに卑しいものを感じるのは当然」という気持ちを誰しもが持つわけで、でも同じくそこに人間の二面性、矛盾があるのを感じますが、人間が本来持つ優しさこそ本物であると断言する三島はやっぱり凄いと思いました。

で、いかに生きるかというのはいかに死ぬかと同意語だと私は思うのですが、「死ぬのも何かのためと言うことが必ず出てくる。これが大義」という考え方に通じる。そして「今の世の中には大儀が無い」と彼は言い、それは現代を予見していたと多くの人が言うのも全くその通りに思えるわけです。あの原発事故もそこに通じていると思ってます。

世の中がどうと言う前に、では自分には何の大儀があるのか。ここが一番の問題点。私は天職なるものに合ってみたいと青年時代から願い続けてきましたがとうとうそれはならず。というか、天職は自分で作るものだということにやっと気がついたわけです。でも、時すでに遅し。(笑)

でもま、これから最後の仕上げの人生になるわけで、今までのような目が内向きの生き方は止めたいと思っています。ただ「大儀」と「自分の都合」は違うわけで、それを混同してしまう大きな落とし穴があり、大儀と大儀のぶつかり合いが宗教戦争であり、また戦争そのものなわけですから簡単にはいかないだろうとは思っています。

気になるのが子供たちの生き方。次男坊はやっと就職が決まりましたが、まさか無理だろうと思ってた超優良会社からのお誘いがありました。これはこれで嬉しいのは間違いがないのですが、でも彼は大きな組織のパーツとして生きていくわけで、そこに私が望む彼の自立はありません。それどころかやる気満々の彼は、それこそ一人の戦士として何でもやろうと意気揚々としています。親として、本来こういう子供の心境を喜ぶべきなのかもしれませんが、私としては、今の時期はそれを体験することが大事だけれど、いつか早く気がついて辞めて欲しいと願っています。

こういう考え方も変だと思われるようですが、言葉を変えれば、彼は軍隊に入隊するのと同じことなんですね。で、戦うことが誰の為になるのかもわからず組織の命ずる通りに動き、命を賭け、職務を全うしようとする。これって当たり前だと思うと非常にうまくないと思っていまして、例えば広島長崎に原爆を落とした将兵が勲章をもらうわけですが、それで良いのですか?って話と一緒。

悪いことばかりじゃないのはわかりますが、私の人生経験での優しさや助け合いというのは「仲間内」の出来事でしかないんですね。決して「敵に塩を送る」発想なんて無し。同じ業界内での助け合いはありますが、それは全体vs業界という枠で考えるから助け合うだけのことで、業界内で一騎打ちの事態になれば、それは相手が再起不能になるまで叩きのめすなんてのは当たり前のことで、社会に出るとそういうことも平気でやるようになってしまう。社内ライバルの足を引っ張るなんてのも同じ事で全く普通のこと。どこを向いてもこんな感じで、あまりにも世の中には戦いが多すぎると私は感じています。まさか私の人生だけがそういう人生だったなんて思いませんし、多くの人はなんら疑問も感じないで戦っているようで、まさにそれは戦争と同じで、相手をやっつけたときの快感たるや凄いし、それは評価されるし、あの腕に止まった蚊を叩き潰したときの喜びと同じなんですね。でもそこに疑問を感じる人は決して多くない。

私としては、自分がそういう中で生きてきたのはそういう時代だからしょうがないと思っていて、でも未来を作る子供たちは同じ歩み方をして欲しいとは思わないのです。自分の利権を守り、組織を守り、その中でしか生きる術がないなんて悲しいじゃないですか。多くの人がそう考えた結果が今の日本であり世界であると思うんです。

そんな生き方をしながら、生き物を慈しみましょうとか、助け合いとかボランティアとか私には偽善にしか見えません。あるいは自分が普段していることに後ろめたさがあるから善行をしたいと思うのではないかと思うくらい。で、まさに自分自身はその偽善者だと思うし、私としては老後は違う生き方を模索したいと思います。でも懺悔と恩返しは絶対に必要で、まさか自分にご褒美だなんてことはあり得ないと考えるのも理解いただけるだろうと思います。

そんな理想論を・・・と言われるのは重々承知。でも私はそっちの方向へ行きたいし、そっちの方向へ行かなければ私が幼い頃から抱いていた疑問が晴れることはないし、人間がこの程度の進化で終わりだなんて絶対に受け入れたくないと思います。

そして今、なんでこんな心の内を書いているかということですが、私のような考え方をする人たちが多く居るのを知ったからです。でも全体から言えば多分少数派でしょう。でも間違いなく輪が広がっているし、あちこちで改革、進化を目指すグループが立ち上がっているのがわかります。

クリシュナムルティーってご存知ですか?インド生まれの哲学者っていうべきなのかな。元々は宗教家だったのだけれど自らその宗教団体を解散し、宗教批判を始めた異色の哲学者なんですが、昔から彼の著書を良く読んでいました。あの中に自分が探している答えがあるような気がしていましたが、難解で結局理解できず。いや、頭で理解しても心、身体が追いついてこない感じを常に持っていました。それから長い月日が経ちましたが、今になるとクリシュナのいう意味がわかるような気がするのです。クリシュナというと「開放」という言葉がすぐ浮かぶのですが、まさにこれが私の言う自立の根源であって、衣食住足りて楽しく人生過ごせればそれでOKだなんてことは絶対にないってことだと思います。そこに幸せを見出すのはまさに飼われた羊であり、ピラミッドの底辺を構成する経済システムの末端のカモであり、ささやかな報酬を手に入れるために自分を殺してあくせく働く、そして命令とあれば同胞でも痛めつけることを平気でする奴隷であり、そして自らその生き方を良しとし、シープドックが居ないのに誰が作ったかもわからない規律を自分たちでしっかり守ろうとする村社会システムを作っている羊が我々。

私が言う自立とはこういう状態からの開放であり、このままで終わらないよ、という平民の逆襲でもあります。(笑)

で、こういう動きが世界で大きくなっているのがわかります。私としてはその方向性は正しいと思っていますし、一人でも多くの「時代への反逆者」を増やしたい。

三島由紀夫の言うことも、あれは決して古いわけでもないし、単なる右翼だと思ったら大間違いで、彼の言う中にハッと気がつくことは多くあると思いますし、今この時代に必要なのは彼の思想のような気がしてならないのです。

ただ、残念なのは、三島由紀夫のことを書いたときに紹介した(埋め込んだ)動画がもう存在しないって事。本当に残念です。これもどんどん厳しくなる著作権がらみが原因。守るべき権利は守られてしかるべきですが、ああいう素晴らしいもの、誰かが出してくれなければそういうのがあるということさえわからないし、そしてそれを見ることによってわかる素晴らしい思想があるわけで、そういう切っ掛けが「権利」という一つの物差しだけで消えていくのは非常に残念です。

また三島とは全く関係ありませんが、一体今の世の中ってどうなってるんだ?なんか変だと感じる人は多くいるはずで、私が前からここに書いている誰でもが当たり前だと思っている貨幣制度でさえ裏がある事。また近年、湾岸戦争に始まって911の同時多発テロ、そしてイラク侵攻、あの流れを見ていてこれって絶対に変だと思った人は少なくないはずで、でっち上げの集大成のような気がします。

これを言い出すと例はいくらでもあって、第一次世界大戦も自らの国民を乗せた船をあえてドイツのU_ボートに沈めさせたり、第二次世界大戦ではあのハルノートの内容なら日本が必ず仕掛けてくると想定してあえてそうした事実。ベトナム戦争では切っ掛けになったトンキン湾事件が捏造だったのは後年関係者が暴露しているし、この世界で起こっていることってあまりにもいい加減とでも言いますか、中学生でももうちょっとツジツマがあったストーリーにするんじゃないかと思うほどで、権力者の横暴はどんどん酷くなっているように思います。ここには我々が気をつけなくてはならない洗脳が間違いなくあるはずで、テロリストあるいは独裁者という言葉が独り歩きして権力者のやりたい放題になっている事実を見逃してはならないと思っています。

最近、あれれ?と思ったのがリビアのカダフィ大佐の殺害。本当に彼は独裁者だったのか。国の英雄ではなかったのか?その辺を私は疑問に感じています。世界にはIMFという組織がありますが、彼はアフリカ独自のアフリカ銀行の創設を考えていたと聞きます。これじゃ消されて当然だと思いました。アメリカというか西側諸国は世界中で同じパターンを使い都合の悪い政権を潰してきているのはちょっとトロい人でも気がつくはずで、こんな茶番が世界でまかり通っているのが本当に不思議です。

でもその結果として今の平和と反映があるのだから仕方が無いのか?

こういう思考パターンこそが自らの意思を捨てた奴隷的発想であって、私としては何よりも嫌いな考え方です。

しかしまぁ、こういうのを書き始めると終わりがなくなりますので、しかしこういう話に興味がある人には是非見ていただきたい動画がありますのでそれを紹介します。

これはツァイトガイスト運動といわれる運動の一環で、世の中の矛盾、諸悪の根源、それを明らかにし、我々に変化をもたらそうという考えの下に製作されたものです。ただ反社会的といえば反社会的で、権力者にとっては非常におもしろくない内容だと思います。でも平民の逆襲をしたい人には必見。(笑)

貨幣制度とはある特定の人たちを守るために作られたという貨幣制度の歴史。またアメリカが持つ潜在的な特徴である帝国主義をいかに世界に広げようと画策しているか、そんなことが見えてくる動画です。このツァイトガイストって面白くて、そもそもキリスト教とはどう作られたのかとか、今までの我々の常識とは全く違う観点、しかし、なるほどと納得させられるだけの根拠、見方があるので見て損はないと思う動画がいろいろあります。

さて、今日の日記をここまで読んだ人はいますか?手をあげてくださーーい。なーんてね。

ダボって本当に変なやつだと思うでしょうが、本人は結構まじめにこういうことを常日頃考えています。また出きることならば、同じようなことを考える人たちと一緒に自立したいと思うし、自分が世界を変えるなんてことは出来ないけれど、変革の種の一粒ぐらいは植えたいと思っています。

ツァイトガイスト アデンダム

動画の左下で「Japanese」を選ぶのを忘れないでください。そうすると日本語字幕になります。

ツァイトガイスト運動 日本語HP  ← クリック

その他、三島由紀夫の動画ですが、私が見て欲しいかったのはすでに削除してありました。ただ、その一部を発見したのでそれを紹介します。

三島由紀夫 「葉隠れ」「武士」に関して

三島由紀夫に関する石原都知事、猪瀬副知事の談話

西部邁ゼミナール 三島が残したもの

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