頑張ってもどうにもならない事

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段々と自分が歳をとってきて、気がついたら随分あの世に近くなってきたもんだと感じる今日この頃なんだけれど、自分の息子達に何が残せるか考えることが非常に多い。

こんな時代だから何が起こっても命は繋げるような資産を残すのは当然だと思うのだけれど、でも所詮金なんか紙っぴれでしかなくて、大して当てには出来ない。やっぱり教育ってのは大事で、どんな世になっても生きていける基礎になると思う。では教育って何か。ここが問題なんですね。

技術だとか専門性だとか、そういうのはもちろん大切だけれど、私が考える一番大事な能力は「問題解決能力」だと思ってます。これってこちらでは教育の場面で、かなり小さい頃から重視されている「Problem solving」のこと。

まず、問題点がどこにあるか見つける能力。そしてその問題を解決するのに必要なものを見つける能力。それを使いこなす能力。オーストラリアの教育ってここに重点があるようで、子供達のやっていたことを見ると日本と随分違うことにすぐ気がつきました。一つの問題に対する掘り下げ方が半端じゃないのね。その代わり、日本の子女みたいにいろいろなことを教えない。こいつら馬鹿か?と思うくらい知らない。

前にも書いたけれど、例えば世界史では、いつどこで何があったかをズラズラ覚えるなんて事はせずに、私が印象的だったのは、ヨーロッパ中世の時代の城攻め。それにはどんな武器があって、どういう変遷を得て能力が上がって行ったとか、弾はどんなものがあったかとか(石とか腐った死体)、利点欠点とかそんなことを延々と突き詰めるんですよ。その課題はそれぞれ興味があるものを選ぶのだけれど、こんな話もあった。「貴方がジョンソン大統領だったら、ベトナム戦争をどうするか?」という問い。

これって面白くて、子供はベトナム戦争も知らなければ、ジョンソン大統領って誰?というところから始まる。当然、この正解なんてないわけだけれど、子供達が何をどういう順序で調べて、どういう結果に導くかその論理構成を採点するのね。

こんな勉強ばかりやっているから、知識という点では全くお話にならないくらい、笑っちゃうほど何も知らない。

でも、興味を持ったら、あるいは問題があったら次に何をすべきかはわかるのね。これは非常に大事で、まさにこれが生きる能力の一番大事な能力だと思うわけです。仕事も同じ。刻々と状況は変わるし、未知の世界に飛び込まなくてはならない時に過去の知識は一切役に立たない。でも目の前の問題点を整理し、何をどうすればその問題を解決できるのかは「問題解決能力」があると道筋は見えてくる。習っていませんとか、知りません、なんて言わない。

日本の教育に足りないのはまさにここなのかもしれない。

でもそんなことは実社会で泣かされ、鍛えられていくうちに自然に覚えるし、でもピントがずれている人はいつまで経っても一番下の使われる駒から脱却はできない。だから、子供の内から、そういう訓練をするのは非常に大事だと思うんです。日本の格差はまだまだ広がるというのは、私はこの能力の差によるんじゃないかと思っています。

で、この辺がまるでわかっていない人って少なくなくて、私がブログで書いているところもその点のみだと言っても良いのね。でも「問題解決能力」が欠如している人にはそれが届かないのを何度も感じてきました。

たとえば、社長から「新しい分野に進出することにした。各自アイデアを出せ」という指示が出たとする。

そんな中でこういう社員もいる。「今、世の中ではラーメンブームですからラーメン屋を展開しましょう」と。

ではそのプロジェクトが良いという資料を出せと言われたときに、「問題解決能力」の差が出てしまう。現状分析と、素人が進出するに当たっての問題点、必要な技術、知識、人材、投下資本、将来の見通しなど、それぞれを分析して答えを出さないとならないのは当たり前のこと。

でも中にはそれをせずに、自分の山勘を大事にしてしまう人が出てくるのね。これは単なる思い付きじゃなくて「出来る」という感触があるからそれを大事にしたいと。でもそんな理屈は世界のどこに行っても通用しないし、説得力も何もない。まぁ、そんな馬鹿は少ないにしても、自分には「出来る」という信念が先にあるから分析も情報収集も中途半端になる危険がある。こんなことは私自身そうだったし、何度も何度も同じ様なことを繰り返すのね。自分に「問題解決能力」が欠如しているのにはなかなか気がつかなくて、「信念が足りなかった」、「努力が足りなかった」、「タイミングが悪かった」という言い訳を後ですることが多い。酷いのは世の中のせいにしたり。私にもそういう時代がありました。(笑)

こういうタイプはうまく行くほうが不思議で、自分が望んだこと、あるいは指示されたことだとしても、やり遂げる可能性はかなり低いし、目の前の低いハードルさえ飛び越えることができない。

こういう人たちに「問題解決能力」がないと失敗するし、逆にそれを身に着ければかなり遠いところまでいける可能性があると言っても駄目なのね。

なんていうと思います?

「もっと頑張れるような声援が欲しい」というんです。上の例で言えば、そもそもラーメン屋を選んだのに問題がないのか、とは思わないのね。またラーメン屋をやるのに何が必要か徹底的に吟味もしてなくて、とにかく頑張ればどうにかなるかの如く言う。

こういう子供はたくさんいますよね。叱るばかりじゃなくてなぜ応援してくれないのかと。会社でも同じ。文句を言うばかりでどうしてやる気が出るようなことを言ってくれないのかと。自分が子を持つ親になってもこういう発想から出られない人が世の中には多くいるのがわかります。これが問題解決には全く結びつかないことに気がつかないのね。

確かにものは言いようってのにも一理あると思っています。でもどんな言い方をしようと、本人が「問題解決能力」を身に着けない限り、どうにもならない。なぜ、ここを直視できないのか。

これと全く同じ事を最近の「早期退職」や「子連れ移住」を考える人たちに感じることがあるわけです。もちろん全てにではないし、でもそういう傾向を感じると言うこと。

問題解決能力って広い能力で現状分析も情報収集も中途半端じゃまったく意味をなさないわけで、誰でもやっていることだと思っても実はそうじゃないのね。普通は自分の「思いつき」を正当化するためにそれを使って終わり。

これじゃうまくいかないのは当たり前。流れに乗って臨機応変も大事だけれど、その能力だけでどうにかなるほど世の中甘くないと思うわけです。あるいは臨機応変で対処できるレベル以上のことは狙わないことも大事だし、世の中にどういう変化が起きると自分はどうなるのかの想定、それに耐えうるにはどうするかが私は何よりも大事だと思っています。将来のことなんかわかるわけはないのですが、それを理由に、そこで思考停止する言い訳に使うべきではない。

ここに気がつくかどうか、能力といって良いレベルの「問題解決能力」を持てるのかどうか。ここが大事だと思うし、私が自分の子供達にどうしても、何が何でも身につけて欲しいのはその能力。これとチャレンジ精神があれば世の中に怖いものなし。

でも人間には凄い能力があって、どんな失敗をしても「良い経験をした」「これで良かったんだ」と受け止めることができるんですね。これは本当に救いで、神様は良く作ってくれたと思うけれど、責任ある立場でそれを言って済むのかどうか。問題はここ。

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