キリスト教の洗足式と韓国の国民性

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洗足式(せんぞくしき)とは、最後の晩餐のとき、イエス・キリストが弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネによる福音書13:1-17、新共同訳聖書)と命じた聖句により、足を洗うキリスト教の儀式。

出展:Wiki 洗足式

今のフランシスコローマ教皇は2013年にこの洗足式をローマの少年院で行ったのは有名な話。その時の画像。

そのローマ教皇が去年韓国(大田ワールドカップ)を訪れた。そしてそれを記念した銅像が立てられ、7月1日に除幕式があった。これがその写真。

どう思います?

私としては、もし教皇が韓国でこのような洗足式を行ったとしてもこういう銅像を建てることに違和感があるし、この除幕式に参列している人たちの「笑顔」を恐ろしいと思いました。また銅像の姿に威厳や優しさはなく、「肩を落とし、跪いて許しを請う姿」にしか私には見えません。

つまり本来の「洗足式」の意味合いとは全く違うものを感じるんです。

日本の隣人はこういう価値観(そして恐ろしいほどのコンプレックス)を持っているということを横に置いといて、過去がどうの歴史がどうのって話をすること自体、そもそも無理なんだろうと確信しました。

リーダーたるものの心構えとしてキリストの教えがあるはずで、そういうリーダーだから敬うという相互関係があると私は思うのだけれど、韓国のこの銅像、除幕式から私はそれを「全く」感じません。これと韓国の安倍さんに言う「日本はリーダーの資格がない」というのと全く同じものを感じます。「天皇は跪いて謝罪しろ」というのとこの銅像は同じものが根底にあるのを感じます。

これはお互いが持っている価値観がまるで違うことを意味していているし、この像、そしてそれを取り囲む出席者の顔を見て激怒するキリスト教徒って世界中に多いんじゃないですかね。

でもま、こういう価値観を持っていると、自ら世界に発信しているから良いのだと思うしか無いのかなぁ。

去年、このフランシスコ教皇が「旅客船「セウォル号」の犠牲者を哀悼した」ことに対して謝意を示すために、天主教大田教区長のユ・フンシク主教が謁見した時、ファンシスコ教皇はこういった。

「韓国民がこの事件をきっかけに倫理的・霊的に生まれ変わることを望む」

ローマ法王「韓国民、倫理的に生まれ変わることを望む」 | Joongang Ilbo | 中央日報
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教皇は何を言いたかったんでしょうか。

 
 
 

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