ロット10の伊勢丹で私が腹を立てた件にメールを頂いた

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私がロット10の伊勢丹の地下で「海鮮丼」を頼み、食べている最中にその店の板前が、印刷物やラミネートされたメニューを私のお盆、丼の上に落としました。それに対してその板前は「何も言わない(何も対処しない)」ので私が腹を立てて文句を言った話。

これ。

ロット10の伊勢丹:半端じゃなく腹が立った~~ | dabo_gc

読者の方からこの件に関してメールを頂戴しました。(お初だと思う)

その方は、「その一従業員に腹を立てて文句を言っても何も良いことはない。私ならその店のあるいはフロアーの責任者を呼び、何があったかを説明し新しく作り直してもらいます。」とのこと。

うーーむ、これって非常に現代的な、論理的な、スジが通っている考え方だと思います。

でも私は違う考えを持っているんですよ。

問題は2点。

○ 食べているものが汚くなった。
○ 彼は謝ろうともしなかった。作り直そうともしない。

ですから、汚くなったものを取り替えてもらえればそれで解決という考え方もあるとは思います。

でも私は、もし彼が「どうもすいません。すぐに作り直します」と言ったとすれば、「いやいや、大丈夫。有難う」って言ったはず。

確かに印刷物や多くの人が触ったラミネートされたメニューが自分の食べ物の上に落ちてくればそりゃ頭に来るし、汚いとは思いますが、でも作り変えてもらいたいってほどでもない。(笑)

だから私が考えた「あるべき結末」は取り替えてもらうことじゃないんですよ。彼が伊勢丹という信用、信頼には非常に神経質な店に働くという縁をもったのだから、その良さを彼に知ってもらいたいし、「何か考え、感じてほしかった」ってのが私の本音。

間違い、ミスは誰でも犯すわけで、それそのものにギャーギャー言うつもりはないんですよ。でもそれにどう対応するか、処理するかが重要じゃないですか。

もし私が責任者なりなんなり呼んでクレームを付けると、彼のミスが決定しちゃいますよね。そしてレコードとして残るかもしれない。これって良いこととは思えないんですよ。

私としては彼が反省し、どうあるべきか考えてくれればそれでOK。

作り直すことに関しては、そりゃ私としてはそうしてもらいたいですが、こういう場合は、客からそれを言い出すと「クレーマー」と同じになるような気がします。ですからこういう場合は「店側が言うべき」だと私は考えています。

でもそれがなかったらどうするのか。ここが問題ですが、私にはどうあるべきかわかりません。

ま、私は本当に怒って彼に怒鳴るように言ってしまいましたから偉そうなことは言えないのですが・・・。

店と客の信頼関係ってなんなのか、そんなことを無駄かもしれないけれど、彼が考えるチャンスを私は作るべきだと思うんです。またそれが客の仕事でもあって、文句があれば「責任者呼んでこい」ってのが良いとは思わない。

私もサービス業、営業職に長くいましたが、やっぱり客に怒られ、怒鳴られ、そして褒められて育ってきたわけで、何もマニュアル通りに行動し、会社の方針にただ従っていたわけじゃない。

でも確かに無駄だと思います。私の真意が伝わる可能性なんて1%も無いでしょう。でも1%あれば十分かもしれません。

それとですね、このブログは私の遺言書みたいな部分もあるといつも書いていますし、このブログを私の息子たちもたまに読んでいるんですよ。

今回みたいなことは彼らには理解し得ないことで、「またオヤジが・・・」って思っているはず。だから子どもたちがこれを読むという前提で彼らに伝えたい事も今ここに書いておこうと思います。

店と客、これは企業同士もそうですが、信用とか信頼ってどうやって培われていくものなのか、それがどうして重要なのかこんなことも通してわかってもらいたいと思うんです。

老舗ってなんなのか。

私は子どもたちに伝えたい事がたくさんあるのですが、残念ながら仕事を通して、あるいは背中を見せてそれを伝えることができません。オーストラリア、マレーシアでプラプラと遊んでいるんだか仕事をしているんだかわからないようなオヤジですから。

でもダボ家は商人として長年やってきた家系だし、商人が何を大事にして生きてきたのかってのは子どもたちにもわかってもらいたいんです。そしてそれは商人じゃなくても大事なことだと思うから。

私の言っていることは古いことかもしれない。でもこれは基本であって、現代、未来はその形が変化していくだけのはず。

日本って素晴らしい国で、日本人の関係は、たとえお店と客でも

「至らないところがあったと思います。どうもすいませんでした」

「いえいえ、とんでもない。十分楽しませていただきました」

こういう関係を大事にして、店も客も勉強してきた国だと思うんですよ。

私が若い頃に、ある商品を売ろうと思っても、どこへ行っても「お前、誰?どこの馬の骨?」という扱いを受けました。日本って本当に面倒くさい国だと思った。

でも年月が経つとわかるんですよ。良い商品が安けりゃ良いってもんじゃないってのが。そこに信頼関係ってのが無いとダメだってことなんですね。当たり前ですが。

これって古臭い考え方でもなんでもなくて、日本が新幹線をインドネシアに売り込もうとした時に、中国に上手くやられちゃったじゃないですか。あれに関して、多くの日本人は「馬鹿だよねー、日本の新幹線にすれば良いのに」って思ったはず。

なぜ?

合理的に考えれば、「必要以上の品質、性能のものに高い金を出す必要はない」ってことじゃないですかね。だから私はインドネシアが中国を選んだのは当然だと思いました。

でも日本人はそうは考えない。そこには「信用、信頼」という大事なものがあると考える民族だからじゃないですかね。

合理性とか論理性とか経済性とか、そういうものを離れて大事なものを大切にする日本人の良さを海外育ちの子どもたちにはわかってほしいと思っています。

私の友人に「百貨店から買い物をするときには、外商を家に呼んで買う」のが当たり前だと思っている幸せな人がいます。(知る人ぞ知る)兵庫県のHさんですが。(笑)

時代は変わりましたが、そういう考え方を持っている人って結構いるんですよね。私は百貨店と取引をして日本中回ってそれを知りました。合理性とか経済性とかそういうものとは違う価値基準がある。

「君がそこまで勧めるのならそれを買おう、話に乗ろう」っていう客は少なくない。

そういう関係っていたるところにあるわけですが、それを作るには一体何が大事なのか。

これは自動車も同じで、不具合がいろいろ明るみに出てきたからリコールするのではなくて、自動車会社自らが「これはまずい」と判断しリコールをすることがある。これってバレてから大騒ぎになってはまずいという読みもあるけれど(笑)、不良であることを自らが言い、対処するって行動が、信頼を勝ち取るんじゃないですかね。

だから伊勢丹の寿司だって同じで、五月蝿い客が五月蝿く言うからどうこうするってことじゃなくて、伊勢丹はどうあるべきかってのを一従業員も理解してこそ、伊勢丹の将来があるはずなんですね。

これは地方の百貨店はもちろん、三越だって伊勢丹だってそうやって信用を作ってきたわけで、ただ単に高価なものを並べて、「凄いでしょ~~」なんてことで名声ができたわけじゃない。

あのアホな板前も、伊勢丹という老舗で働く縁があったんだから、何かを掴んで欲しいと願うわけです。なんちゃって和食店にいたら何年いてもわからないことかもしれないし、もし彼が「あること」に気がついただけで、彼の和食職人としての将来はガラッと変わるはず。

ま、そんなことを考えていました。私の本音は海鮮どんぶりを作り直してくれようがくれまいがどっちでも構わない。(笑)

 
 
 

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