【日本の問題点】:「まあ大丈夫だろう」が戦争を招く

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北朝鮮危機ですが、何も起こらないのが一番嬉しいわけですが、本当にそれで良いのかは疑問。今までの「問題先送り」が今の事態を招いたわけですから。

私達日本人が北朝鮮に核開発をやめろと言っても、北朝鮮にしてみればそれが「唯一つの国防策」だと信じているわけでそれを変えるのは簡単にはいかない。アメリカに戦争はやめてくれと言っても「アメリカの国防上、北を看過できない」と言われればそれも変えられない。

では日本はどうあるべきなのか。

「話し合いで解決しろ」という声は日本では異常なほどに強い。

でも話し合いの結果は「正当性」で決まるのではなくて、バックにある「力関係」なのは我々の日常でも同じ。でも理想主義者はそれを無視する。

幼稚園の園児同士が喧嘩をするなら「すぐやめろ」とか「どちらに正当性があるか」とそれを抑えることは可能でも、中学生が自分の肉体的優位を見せつけて幼稚園児を好きなようにコントロールしようとしたらどうすればよいのか(チベット、ウイグル、南モンゴル、あるいはイラク、リビアなど)。

逆に小学生が家から包丁を持ち出して、のんびりしている中学生を襲おうとしたらどうすればよいのか。

どちらにしても話し合いだけで解決が着くわけもなく、あえて話し合いで解決するとするならば「調停役」や「警察」が中にはいらないと話し合いもできない。

でも世界には調停役も警察もいない。世界共通の法律もなければ、その法律を守らせる行政もない。国連もその中心国が好き勝手なことをしているのだから争いを止められない。

やっぱり「生きる」ってことは「現実」であって、国もリアリズムから離れた議論は時間の無駄だと思うわけです。いや、目指す国家がどうあるべきかの方向性を論じるのは良いにしても、それで目の前の問題を解決することは出来ない。

日本は他国から侵略されて暴行、略奪、殺戮される恐怖を知らない。唯一つの「元寇の役」も神風が吹いて収まってしまった(と言われる)。

平和は「望み、祈れば手に入る」と思う傾向はどうしても強くなる。

でも近代になって他国から侵略を受けたことがないかと言えばそれは嘘で、ある日ある時、「竹島」が取られてしまった。でも日本は何もせず、それを放置した。また小笠原に「(海洋資源奪取を目的とした)大窃盗団」が出現してもそれを止められない。

これで本当に日本の将来は大丈夫なのか。

侵略はされないにしろ、いちゃもんをつける外国勢は常に存在するし、自分が何も出来ずにアメリカに依存するからアメリカから圧力があれば屈服しなくてはならない。日米構造協議や年次改革要望書がそれで、私が鮮明に覚えている中でも異常だと思ったのは「自動車が貿易摩擦の焦点になったとき」、なんと日本は自ら「輸出規制」をした。これほど気前のいい国はないと思う。ああ、それと「湾岸戦争」の時にはアメリカが要求してくる前に(小沢氏が)一兆円をポンとだした。

それが日本。

いやそれでも今までは相手が良かったのかもしれなくて、でも近年は露骨に日本に侵略を始めた中国がある。実力行使という点では「まだ取られていない」けれど、力関係は大きく変わってきているのは尖閣情勢をウォッチングしていればわかるし(今では日本漁民、マスコミも近づけない)、非武力的侵略はかなり浸透しているであろうことは沖縄を見てもわかる。

話し合いが大好きな理想主義者たちも、中国漁船が海保に体当たりした事件でも、当時の民主党は「話し合い」の解決も試みず、船長を釈放。また近年ソフト路線で目眩ましをしている共産党は、「話し合い」どころか「血の粛清」をしてきた歴史があって、基本は「闘争」「開放」「革命」であって、話し合いを基本とする政党ではない。邪魔者は消さないとそもそも共産主義は成り立たない。

でも私が若い頃は「そんなことはどうでも良い」って思っていたんですよ。自分がまず力をつけ、生き延びることが最優先で「日本がどうなろうと、共産主義の世界になって自分は生き延びる」と本当に信じていましたから。

でももうそろそろ自分の「終わり」が見えてくると、やっぱり違うんじゃないかと思うわけです。国民が自由で笑って暮らせる国を作るのは「国民」であって、誰かが作ってくれるわけでもないし、放置しておいて良くなるわけでもない。と同時に、「話し合いで解決できる世界」は人類が誕生してから民衆の願いであるのは間違いがないものの、そんなように世界は出来ていない。

「リアリズム」

これを無視することはできない。

これが私がいつも感じていることなのですが、興味ある「日本への警告」をアメリカはワシントンにある大手シンクタンク、米戦略国際問題研究所(CSIS)の上級顧問。戦略家、歴史家、経済学者、国防アドバイザーである「エドワード・ルトワック(Edward N. Luttwak)博士」が発した。

「まあ大丈夫だろう」が戦争を招く

と。

日本国民も、一九四五年以来、他国や他民族が戦争の悲劇に見舞われてきたことを目撃してきたはずだ。街が燃やされ、多くの人間が殺され、子供も殺されたのだ。それらすべてのケースがなぜ発生したかと言えば、当事者たちが、「まあ大丈夫だろう」(it will be all right)と思ってしまったからだ。

人間というのは、平時にあると、その状態がいつまでも続くと勘違いをする。これは無理もないことだが、だからこそ、戦争が発生する。なぜなら、彼らは、降伏もせず、敵を買収もせず、友好国への援助もせず、先制攻撃で敵の攻撃力を奪うこともしなかったからである。つまり、何もしなかったから戦争が起きたのだ。

私はこれが真理だと思うわけです。

この提言と言うか警告は私にしてみると「その通り」としか思えないのです。

ルトワック博士の緊急警告! 先制攻撃か降伏か 日本が北朝鮮にとるべき選択肢(ここをクリック)

でも私は「日本が変わることはない」とも思っているんです。この日本の「お人好し」「和を尊ぶ気持ち」は日本の国民性の一番根っこの部分にあると思っていて、「戦うこと」どころか「論争さえも嫌う」のが日本人。ましてや大東亜戦争で負けて「国民の意識改革」はアメリカが望むように大成功して、「未来永劫犯罪者、前科者として生きる」のを当然だと思っているんですから。

もし、今の政府が進めているように「移民」が多く入ってきて、いつか100年も経ってオーストラリアやアメリカみたいに「海外にルーツを持つ国民」が増えてくると国民性も大きく変わってくるはずで、そして彼らが日本に愛国心を持てば持つほど日本は「好戦的」になるかもしれないと思ったり。

私は「保険」というのが嫌いなわけじゃないんですが、どう計算しても「割に合わない」と思ってしまう。年金も同じ(オーストラリアの年金は別。掛け金が無い)。それでも今まで問題が起きたことがなくて、というか「想定外」が起きなかっただけですが、想定外が起きても「自分でそのリスクを取る」方が良いと思うようになってきました。

ただこれは私自身の考え方であって、保険に入ろうとしない息子には「入れ入れ」と煩く言うし、「想定外のことが起きた場合、自分でリスクは取れない」となれば保険に入るしか無い。だから一般的には保険に入るのが当たり前だと思うわけです。

これは国家も同じで、保険は掛けなければならず、「軍備」も保険の一つであろうと。でも当然、それは一つの方法でしか無くて、力を背景にするだけで何が解決するわけもなく、当然、冷戦構造が終わったように、多額の保険金を支払えなくなることも起きる。

さて、日本は保険を掛けているんでしょうか。十分なのか。

もちろんお金はあればあったでそれを回したい箇所っていくらでもあるわけで、必要な額をトータルしたら収入より多くなるのは個人の家庭とて同じ。だから保険をかけない、削るという国家で良いのか。

私がこの世を去るまでに日本が変わるとは思えないけれど、せめて「やるべきことはやっておけばよかった」と思わざるをえない事象も起きないといいなと思ったり。

ま、自分が出来ないことは、出来るであろう立場の人たちや世論を変えようと頑張る人たちを支援することぐらい。

 
 
 

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