マレーシアに上陸して8ヶ月。今、思うこと

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本当に月日が経つの早くて感覚的にはまだ3-4ヶ月なんですが、もう8ヶ月。

【マレーシアに来るまで】

これを書くと「マレーシア大好き~♪」の方々から反発を食らうと思いますが、私たちはマレーシアが好きで来たわけじゃなくて、「生き延びるための選択」でしかありません。社命でマレーシアに赴任した駐在組と同じです。ただ命令を出したのが自分自身であるというだけ。

マレーシア行きにずーっとヨメさんは反対していたのはここに書いてきた通りで、それをあの手この手で説得して無理やり連れてきたわけです。詳しいことは書きませんでしたが、実は「離婚も視野に入れる」ところまで行きました。また「別居」という選択肢はお互いに無く、私がヨメさんをねじ伏せた感じ。

ヨメさんが「乾癬」という病気になったのもマレーシア行きが決まってからで、乾癬は「ストレスから来る病気」であると言われています。この時点ではヨメさんは「マレーシア行きを受け入れる」と決めていたわけですが、まさにその「理性と感情の狭間、葛藤」が乾癬という形で出てきたのだと思っています。

そんな時に、長男が大学に通っていたメルボルンからゴールドコーストに帰って来まして、同居している間に「なぜマレーシアにいくのか」「なぜもっと稼ぎたいのか」などの話しをしつつ、私としては「我が家には家業が無いけれど、私の技術を伝承したい」というところに長男が興味を示しました。その時点で長男には「日本での就職」が決まっていましたが、話合いの結果、それを蹴ってマレーシアに一緒にいくことになった。

長男の将来を私が変えてしまうことに後ろめたさもあったし、それが彼のためになるのか疑問でしたが、「ダボ家の将来の計画」「私の夢」に彼が乗ってきたのは喜ぶべきだと思うし、彼がその気になったからこそ、私の夢も生きるし大きくもなるわけです。そうじゃなければ心身ともに駄目になってきて、先行き短いジジーに何ができるわけでもありませんから。

家業はないものの「これも家業の内」という考え方で「トレーダーとして育てる責任」が私にはあります。でもそれが簡単に出来るとは思えず。やってみるしかない。

ということで2016年9月にマレーシアに上陸。

【最初の2ヶ月間】

これはこのブログに書いてきたように、マレーシアにはそれまで何度か短期旅行で行き来していたものの「住むマレーシア」に関しては全く知識がなく、最初の内は「住むところの確保」ばかり考えていました。「とりあえずどこか適当なところに住む」という考え方は私達家族は一切持っておらず、「最初にヘマをすると後が続かない」と考えていました。

ヨメさんだけでなく「ああ、やっぱりここで生活するのは無理だ」なんて思ったら全てが水の泡になりますので、「生活の拠点」としての「家」、つまりコンドで妥協する気は全く無く、予算も無しで「ヨメさんが気に入るところならどこでもOK」としていたのもブログに書いてきた通り。一番危ない時限爆弾はヨメさんですから(笑)、「ヨメさんが選ぶ」というところを重視しました。

ですからAirbnbを使い、住む候補である「地域」「個別のコンド」を選び、それらを二ヶ月間、転々として今のコンドを選びました。二ヶ月間時間を掛けただけあって、私たちにピッタリのコンドを見つけられたのは本当に良かったと思います。ヨメさんは広すぎると文句を言っていますが、我ら家族は3人で、コンドを拠点として仕事をするわけですから、それなりの広さ、部屋数がないとどうにもならず。

【コンドが決まってからの3ヶ月間】

11月に入居し、11月12月1月の3ヶ月はかなり慌ただしい感じで過ぎていきました。

コンドを決めた時と同じで、私たちはマレーシア生活を楽しもうと思って来たわけではなく、「今までと変わらない生活を確保できるか」そればかり考えていました。「今までの生活」とは「オーストラリアで25年間生活した生き方」であって「日本人としての日本での生活」とはかなり違います。

当然、「日本での生活と同じ」にするほうが難しいわけで、私たちはゴールドコーストでいかに「日本人の文化、食事を維持しサバイバルするか」をやり続けて来ましたし、「海外から海外へ移る」のはそんなに難しいことではありませんでした。

ただマレーシアの習慣には驚くことばかりで、多くは「マレーシア人気質」に関係することです。「なぜこんな簡単なことができないのか」と思う場面ばかりで、オーストラリアも日本に比べるとかなり大雑把な国なんですが、それでも唖然とする場面はかなりありました。

でも「マレーシアのオーストラリアに似ている部分」も多くあるわけで、マレーシア流に慣れるのはたいして時間が掛かりませんでした。でも最初の内は、正直なところ、毎日、驚き、怒り、愚痴を言うばかりでした。

【その後の3ヶ月】

コンドに住んで3ヶ月もすれば、その地の環境はかなりわかってくるわけで、問題らしい問題もないし、イライラすることもなくなりました。

「住むこと」を考えた時に、一番重要なのは「食生活」だと思うのですが、これも最初は「あれもない、これもない(オーストラリアに比べて)」と思っていたものの、必要なものの大部分はどうにか調達出来るようになりましたし、また我が家の「海外生活」は「日本からの通販に助けられている」というのが20年以上続いていますし、それはマレーシアに渡っても同じで、「冷蔵、冷凍もの」は無理にしても、日本からの通販をかなり頻繁に利用しています。

逆にマレーシアの方が優れていると思ったのは、こちらには「日本食材の卸商」が何社もあって、そこから「ありとあらゆるもの」「生鮮品」も手に入るということ。これはオーストラリアには無かったことで、オーストラリアではローカルの食材をどうにか使うしかありませんでした。生鮮品の話ね。

でもマレーシアでは「思いつくものはなんでも手に入る」わけで、大型のボタンエビ、生の穴子、生の水タコ、生のナマコなどを手に入れてワクワクしました。イクラや明太子もそうですが、卸業者から買うと「日本で買うのと大差ない価格」で手に入るのが面白いと思いました。

つまり、望めば「完璧な和食の生活」が送れるんですね。ただ我が家は和食に飢えて今まで生きて来たものの、ろくな和食材がないのも慣れていますし、韓国モノ、中華モノの代用品の使い方も知っていますし、一般的な日本人が拘る和食ほどの拘りは我が家にはありません。ですから、マレーシアのこの状態は「ほぼ完璧」と言って良いくらいです。

逆にゴールドコーストでは洋食、あるいは他国の料理を食べる機会が多く、家食でもそれは同じで、それがマレーシアでは逆に難しいことに驚きました。何度か書きましたが、マレーシアには中華系の人がごっそりいるのに「中華食材が限られている」んですね。オーストラリアの方が様々な中華食材があるし、大型の中華食材スーパーが何軒もあるのに、それらがここには無いのは未だに不思議だと思っています。

でもま、それにも慣れてきて、この3ヶ月で「マレーシアでの食生活」のノウハウはかなり溜まって来ました。

ただこれは上にも書いたように、「今までと変わらない生活」に重点があるのであって、マレーシア独自のものを取り入れるまでには至っていません。それはまず我々の基本が出来上がってからの話。当然、外食も同じで、マレーシアに来たからいろいろ食べてみたいという気はほとんどない状態。それより、我らが欲しい外食を確保できるのかどうか、それが中心です。

それに関してはまだまだ進んでいませんが、基本的にはマレーシアの食はゴールドコーストのそれより上を行っていますし多彩ですので、今の時点では何も問題がなし。

ま、そんなこんなであっという間の8ヶ月でしたが、今の時点でストレスらしいストレスも問題らしい問題もありません。

ここでの生活の基盤がしっかりしてきましたので、後は計画通り進んでいくだけ。

ああああ、問題がないというのは間違い。

私はどうもこの気候が気に入りません。糞暑い。湿度が高すぎ。

昔から南洋が好きでグアムにも定住しようとしていた私ですが、遊び半分で住むならそういう気候も良いものの(グアムのほうが暑く湿度も高い)、仕事をするなり、あるいは年寄りが住むには暑すぎると思っています。多くの方がマレーシアの気候を絶賛していますが、私にはそこが全くわかりません。

それとKLは都会だから仕方がありませんが、車の渋滞が凄すぎる。時間帯とか方向を考えればかなり逃げられますが、車の移動で「多くの時間が取られる」という経験を私はこの30年近くしていませんので、「なんて効率が悪い場所だ」と感じています。

そして街づくりですが、「年寄りや障害者のことを考えていない」のははっきりしていて、弱者(とは言いたくないけれど)には住めない場所だと思っています。

これって実はかなり深刻な問題で、もっと歳を取った時の具体的な計画がない我が家に取っては大問題です。動けなくなったら当然のこと、車の運転が怪しくなったり車椅子や杖が必要になったらもう住んでいられない。私の両親は二人共90を超えて健在でサウジャナに住んでいますが、それは姉が面倒を見ているからであって、年寄りだけでは「絶対に住めない」と思っています。

これは大病に罹っても同様。

そんな時に思い出すのはゴールドコーストで、元はと言えば「退職者の街」として発展してきたこともあるのでしょうし、オーストラリアは「弱者に優しい国」ですから、年寄りが年寄りだけで生活できる場所。

そんな時期は「必ず来る」わけで、その時には移動しなくてはならないと「決まっている」のは嬉しくありませんが、その時には日本かオーストラリアへ帰るしかないと思っています。また確率的には私のほうが先に逝くわけで、ヨメさん一人でマレーシアに住めるはずもなく、私がまだ元気な内に、「ヨメさんが一人で生きていける環境作り」をしないとならないと考えています。つまり、日本へ帰るしかないかと。介護施設が併設されている老人用コンドみたいなところに入るぐらいしか頭に浮かびませんが、70歳を超えるころには真剣に考えようかと。

あと6年しかない。早足で頑張って、やるべきことをやらないとお迎えが来ちゃいます。(笑)

私が死にそうになる前には、ヨメさんの将来も安泰な環境を作り、息子たちの顔が朝日に照らされて邁進する逞しい姿を見たい。それだけが私の願いで、そしてそういう状態を作るのは私の責任で、それ以外の願望は何もなし。孫の顔を見たいけれど、どうなりますか・・・。

 
 
 

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