捕鯨はどうあるべきなんでしょうねぇ

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日本がIWC(国際捕鯨委員会)を脱退する表明をしてからあちこちで賛否両論が巻き上がっていますが、私としてはこれほど馬鹿げた話はないと思っています。

感情論のぶつかり合いで、そこに論理性なんか全く無く、IWCも本来の目的である「鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る」から完全に逸脱して、「捕鯨は許さない」という立場と「枠を決めて管理すれば捕鯨も良いじゃないか」という二派がぶつかりあうだけ。

私としては今回の日本のIWC脱退は支持します。

その理由は「捕鯨は良いじゃないか」ということではなくて、「機能不全になっている団体にいつまでも参加しても無駄」だと思うから。出来ることならIWCを脱退した後、「別の組織を作る」のも良いと思うくらい。そしてそこで本来の目的である「鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る」を推進する。

我々に伝わってくる情報だと、「世界は反捕鯨」みたいに見えるけれど、実は違う。

古い資料(WIKI。2012年)だけれど、こんな感じ。

「捕鯨支持35、中間派3、反捕鯨50、不明1」

アジア:10 (捕鯨支持6、中間派2、反捕鯨2)
アフリカ:18 (捕鯨支持16、反捕鯨2)
オセアニア:8 (捕鯨支持5、反捕鯨3)
ヨーロッパ:31 (捕鯨支持2、中間派1、反捕鯨28)
北アメリカ:1 (反捕鯨1)
カリブ諸国:6 (捕鯨支持5、不明1)
中央・南アメリカ:15 (捕鯨支持1、反捕鯨14)

ここで何が起きているかと言うと、捕鯨なんか歴史的にも全く関係のない国、海に面していない国にアプローチして賛成しろ、反対しろと勢力拡大をしていること。

そして何が問題かと言うと、捕鯨賛成派とて自由にやっていいとは言っていないのに反対派は何がなんでもだめだと。つまり「データを重視する」という概念が皆無で話し合いには全くなっていないということ。

結局ですね、「捕鯨は駄目」という論者の根拠は「クジラを殺したら可愛そう」ってことでしかないんじゃないですかね。我々が「犬や猫」を食べる人たちに感じることと同じ。

でもこういう問題は好き嫌いで判断するべきことじゃないと思うんですよ。また捕鯨の伝統があるから良いでしょ?というのも私は根拠にならないと思う。

とにかく反対派は駄目の一点張りだけれど、では日本が何をしてきたかというとこれもバカみたいで、「捕鯨の伝統があり、それを守る権利がある」とか、「調査捕鯨」という名で捕鯨を行うインチキを続けてきた。そして、「南氷洋で捕鯨もしてきた」ってこと。私には日本が反対派に対して歩み寄る、ちゃんと説明するようなことを十分にしてきたとは思えないんですわ。

特に南氷洋での捕鯨って、「鳥獣保護区で猟をするのに似てる」わけで、これをやめろと言われて反論できる方が私には異常に思えるわけです。

ま、どっちもどっちという感じ。

ただし、多くの一般人が言うように

○ クジラを食べなくても一向にかまわない
○ クジラは可愛いし、殺して欲しくない
○ クジラは知能も高く、殺すべきではない

この手の話は、個人の感情論に立脚しているわけで、私はそれを重視する必要はないと思っています。

かつてオーストラリア時代に、オーストラリア人も多く来るパーティーに行ったときのこと。

私達が日本人だとわかると、あるオーストラリア人が近寄ってきて「捕鯨はするべきではない」と言ったんですよ。いちいちパーティでそういうことをいうか?と思ったのだけれど、日本人をやっつける良いチャンスだと思ったんでしょう。でもね、私はこれに反撃するすべを持っているので、逆にこれは「飛んで火に入る夏の虫」なんですわ。

ダボ 「どうしてクジラを殺してはならないんですか?」

男 「クジラは非常に知能が高く、殺すべきではないんですよ」

こういうことをいう欧米人ってかなり多いのがわかっていましたから、私の答えも決まっています。

ダボ 「実は私の子供は精神的にハンディキャップを持っているんですが、貴方の論法だと【死んでも構わない】、【生きる権利はない】ということなんですね?」

これで終了です。バツの悪そうな顔をしてその場を立ち去るのが普通。

でももしある人が「私はイルカを含む鯨類を愛しています。だから殺さないで欲しい」というのなら、その意見を尊重したいと思います。でもはいそうですかと捕鯨を辞める理由にはならない。

やっぱり欧米人の理屈の一番の欠点は「牛や豚、鶏は殺しても構わない」という点。どうして牛や豚や鳥は殺してもよいのかとなると「生産管理されているから」と答える人も多い。でもそれを言えば「ではイルカやクジラの生息数を調べきっちり管理すればよいということですね」でこれの話も終わる。

IWCを中心に世界で行われている捕鯨論って「とにかくクジラを殺すな!」でしかないのね。こういう団体に参加を続けても意味がない。

だから私としては「日本を中心にまともな団体を立ち上げる」に一票を入れたいと思うわけです。

クジラに関してはそう思うわけですが、では犬や猫を食べる習慣がある国にはどう対処するべきか。

私としては犬や猫を食べることを想像しただけで気分が悪くなるのですが、それは「クジラを愛する人達」と同じなんでしょう。でも私は犬や猫を食べるな!と言おうとは思わない。それはそれを食べる人たちの自由だと思うから。でも正直な話、「犬って美味しいよ~~」という友人がいたらちょっと距離を置きたいとは思う。(笑)

世界では犬や猫が穴にハマって出られないのを消防のレスキュー隊まで参加して助ける話がありますよね。これは感動するし非常に素晴らしいことだと思う。海岸に打ち上げられたクジラを助けるのも同じ。

でもね、「みんな、よくやった」と一仕事終わった後で「皆でバーベキュを食べる」としたら、それって何かおかしいんじゃないかと思うんですよ。牛や豚や鳥が泣いている姿が私の目に浮かんできます。

当然、牛や豚が穴にハマってもそれを助けるわけですが、でも日頃、牛や豚を食べることはやめない。

でも私としては誰が何を食べようと構わないと思っているわけで、自分の好き嫌いを「他人にもそれを押し付ける」のが気に入らないんですよ。

上でオーストラリア人の話しをしましたが、もう一つ面白い話があります。それは実は我が家と親交がある友人なんですが、そのオーストラリア人の旦那が自信過剰な人で、他人にああせいこうせいいうのが好きな人。

彼はあるときから「殺生は駄目だ」と気がついたんですね。だからネズミもゴキブリも殺さなくなった。

それはそれで良いと思うんですよ。でも、「誰しもそうするべきだ」みたいな言い方をするわけですよ。だから私は彼に言いました。

ダボ 「生き物を殺さないのは良いことだけれど、それだと毎日、外を歩くのも大変だよね。アリや小さな虫を踏み潰さないように注意しながら歩いているんでしょ?」

これもこれでその話は終了。

綺麗事を言う人は多くいるけれど、夜寝ている時に「プ~~~~ン」と蚊の飛ぶ音を聞いた多くの人は「絶対に殺してやる」と思う。この殺意って半端じゃない強さで、人間ってそういう殺意を持っているのが本性だということを忘れるべきじゃないと思うんですよ。「殺してやる!」と誓った自分と、「ゴキブリは殺すのはやめよう」と思う自分も同じ自分。

で、この彼ですが、食べるものも変わってきて、「ベジタリアンになった」とのこと。

ダボ 「へーーー、ベジタリアンになったんだ」

男 「生物を殺すのは嫌だからね」

ダボ 「どんな野菜を食べるの?」

男 「野菜ならなんでもOK」

ダボ 「へーー、じゃぁ人参とかラディッシュも?」

男 「全く問題ない」

ダボ 「そういう根菜類って引き抜くと死んじゃうんだよ。それでも構わないの?」

男 「・・・・・・・・・・・」

こんなもんなんですね。偉そうなことを言う割には思慮深さがない。

この話を親しいインド人に話したんですよ。そうしたら彼は笑っていました。

「欧米人の理屈はそんな程度だ」と。

結局、自己満足の世界でしか無いのね。本当に命とどう向き合うべきかなんて考えていない人が多い。

当然、健康のためではないベジタリアンは「種」だとか、それを収穫し食べても「死なないもの」しか食べないのね。根菜類は食べない。抜けば死んでしまうから。

でもねぇ、突き詰めれば種だって生きているわけで、それに関してはどう考えているのかを彼に聞くチャンスはありませんでしたわ。

我々は「他の生命の犠牲の上に生きている」のは間違いがなくて、残念ながら他の生命を殺さずに生きることは出来ない。

じゃぁ、どうするべきか?

これの答えは「日本人の伝統と文化の中に存在する」んですよね。

全く関係ないですが、あるSF小説を思い出しました。半村良という作家が大好きでほぼ全ての作品を読みましたが、なんていう題名か忘れましたが、「時は江戸時代。宇宙から地球に来た宇宙人と、江戸の庶民が友だちになり、一緒に諸国行脚をする」んですよ。

ある時、一つの丘を超えたらそこに広い草原が広がって、花が一面に咲いていたんですね。それを見た地球人は「美しい・・・・」と言葉を失ったわけです。ところが同行している宇宙人は涙を溜めている。一体どうしたの?と地球人が宇宙人に聞いたんですよ。すると・・・

「恐ろしい、悲しい、なんてひどい世界なんだ。他の生命を殺し貪る地獄のようだ」(ダボ注:言葉は全く違うけれどそんな感じ)

地球人 「え?では貴方の星では命はどうやって生きているの?」

宇宙人 「私の星では、どの命も他の命を奪うことなく生きている」

ですとさ。こういうちょっぴり哲学的なところがあるから半村良の作品が好きなんですが、我々が当たり前だと思っている世界、そして常識も、ちょっと角度を変えてみるとまるで違うものが見えてくる。(だから私はSMAPの「世界に一つだけの花」という歌が嫌い。あれは弱者を踏み倒して生き残った強者を賛美する歌。花屋に並んでいる花たちは皆全て「勝者」で、ボーッと生きていたら花屋には並ぶこともなく殺され死んでいく)

私にしてみると、鯨類を殺すのも牛や豚、鶏や犬、猫を殺すのも全く同じことで、「これは良いけれどあれは駄目」と断じるのは不可能だと思うんですよ。特に牛や豚、鶏は殺しても構わないと思っている人たちは逆に一歩立ち止まって考える必要があると私は思うんですよ。

あ、そうそう。このことって皆さん知っていたかなぁ。

オーストラリアでは「魚の活き造り」が法律で禁止されているんですよ。

かなり前ですが、ゴールドコーストの和食店の前にデモ隊が来て大騒ぎになったことがあるんですわ。何のデモかと言うと「動物愛護」なんですわ。彼らいわく、この店は「生きているロブスターを切り刻み、生きたまま、そしてその姿をそのまま客に出している」と。

へーーと思いましたわ。

私なんか、活き造りで魚がまだ口をパクパクさせていると「新鮮だ~~~~」なんて喜ぶタイプですから。口の動きが止まると、そこに日本酒をちょっと垂らすとまた動き出すのね。そんなのを見て喜んでいる下衆な人間。

でもそれを恐ろしいと感じる人達は多くいるんですね。「殺し方」に拘る人たちは多くいて、宗教的にもそれを規定している宗教は複数存在しますよね。モスレムもそうだし、ユダヤ教もそう。こういうことを無視して「俺達には俺達のやり方がある」と無視すれば海外から叩かれるのは当たり前なのは、今の国際化した時代、日本人は考えるべきでしょう(日本式の惨殺と言っても良いイルカ漁)。

これは「マグロの解体ショー」も同じで、人間の子供より大きなマグロを解体する場面を舌なめずりしながら見てしまう人は多いけれど、これがもし「豚や牛の解体ショー」だったらどう思うか。

マグロの解体ショーは豚の解体ショーと同じに感じる人もいるってこと。また豚の解体をなんとも思わない生活の一部だと思う人達も世の中にはたくさんいて、私もグアム時代にはよく見ました。ガレージの天井に逆さ吊りにしてお腹を裂くのね。内臓や胎児が下のバケツの中にドバっと落ちるのだけれど、それを誰も気持ち悪いなんて思わない。女性や子供もそれを見ていて、その後、細かく解体して分別する作業は皆が参加して分担する。でもこれを見たら気を失うような人も世の中にはいるんでしょう。

じゃぁマグロの解体ショーはやめるべきか?というと私はそんなことは全く思わないわけで、でも「注意書き」は必要だと思っています。TV番組やユーチューブの動画でも「過激なコンテンツが含まれています」なんてのがありますよね。あるいは18禁があったり、子供は親と一緒に見ろとか、親のガイダンスが必要だとか、15禁だとか結構細かいのがありますが、日本国内ではそういうのは不要だとしても、世界に日本の文化を広げる時には「外国人が何を感じるか」「彼らの常識はどうか」という配慮は必要だと思う。でもこちらにはこちらの理屈があり、相手の理屈を無条件に受け入れる必要はない。それでは生きていけないとしたら、無条件で彼らのことを聞く?

私は捕鯨には反対しませんが、今の日本の団体は「日本の立場で言いたいことを言っているだけ」に思えるんです。でも反対派も同じで「感情論で押し通そうとする」のは間違いがない。

だからIWCを日本が脱退するのは私は良いと思う。でも「次に何をするか」が何よりも大事で、「日本の考え方も一理ある」と世界にアピールできなければ意味がないじゃないですか。ただ、IWCを脱退しても、漁場のデータは取り続けてIWCには加盟していなくてもオブザーバーみたいな形で会議には出るらしい。「来るな!」と言われればそれも良しで、他にまともな団体を立ち上げる最高のチャンスとなるんじゃないですかね。

命あるものを殺すという行動をせずに生きることは出来ないし、どれは殺してもOKで、どれは駄目と決めることも不可能だと思う。人間は誰しも平等であるというのなら、その考え方は動物にも当てはめなければただの偽善でしかないと私は思う。だったら全ての動物を殺すのはやめよう。食べることだけじゃなくて動物由来の製品(皮革など)を使うのもよそうという信条を持つベーガンは私はまだ筋が通っていると思うわけです。でも彼らは植物の命は下に見ていて、植物は殺してもよいと考えている。これも私に言わせれば偽善。ましてや戦争で人を殺すのはよくて捕鯨は駄目だなんて冗談言うなの世界。

だから大事なのは「我々は罪深い」というのを前提にして、どうあるべきかという観点から捕鯨も牛や豚を殺すことも同列に考える必要があると私は思うわけです。植物も同じく。私はそれら生き物を同列に扱う文化が日本にはあると思う。そしてそれを大事にしたい。「殺してはならない」「殺さなければ生きていけない」「ではどうするべきか」というのは禅問答みたいですが、欧米人は短絡的に答えを出そうとする傾向があるからおかしな方向へ行くんじゃないかと思うんですよ。これって未来永劫、答えは出ないと思うのですが、それを常に考えながら捕鯨や動物を殺して食べること、植物も含めて考え話し合いならどうするべきか決めるべきだと思う。ここで宗教が出てくるはずですが、聖書には「クジラを食べてはいけない」と書いてあるのね(旧約聖書 レビ記 第11章9~11)(補足1)。ここは盲点だけれどこれを無視しては話が先に進まない。

そういえば捕鯨では全く名前が出てこない韓国ですが、日本の二倍ほどの水揚げ量があるんですってね。でもそれが問題になったことはない。彼らは「捕鯨はしていない。魚の漁をしているときに偶然網に入ってしまう」という理屈らしい(要確認)。

ただし、日本は「世界に影響力を持つ大国のうちの一つ」という意識を持つのは必要で、駐車禁止の反則切符を切られた時に「あいつらもやってるじゃないか」という理屈は通らない。なぜ「俺だけ?」と思うことはあるけれど、世界は日本を最も影響力がある国の一つと見ているからこそ、日本には厳しいわけで、そこも忘れてはならないんでしょう。

(補足1)

旧約聖書 レビ記

第11章9 水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。

第11章10 すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。

第11章11 これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。またその死体は忌むべきものとしなければならない。

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