皆が【断捨離】を始めたら世界は終わる

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どうでも良い話をダラダラ書いているだけですので、注意。暇な人以外はパスした方が良いです。

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世の中では断捨離が流行っているし、それが良いことだと考える人は多い。「そのうち、自分もやろう」という予備軍はごっそりいるんじゃないですかね。

私はひねくれていますし世の中の逆を生きるタイプですから、【私は】断捨離は絶対にすべきではないと思っています。(他人がどう思うと関係ない)

いや、断捨離も良いと思うんですよ。経済も発展しない、収入は増えるどころか実質的に減っていく。そういう中でどう生きるかとなれば、「無駄なものは排除する」「必要がないものは買わない」ようにするしか【生きる道はない】のだから。

日本人の根底には「仏教の教え」が染み込んでいるし、「欲望を消す」ことに意味があると考える傾向が強いと思う。

私は出家しようと思ったことはないけれど、若い頃から「仏教にハマった時期は結構長かった」ですし、祖母も母も仏教の教えにどっぷり浸かっていて、祖母は私財を投じて「お経の意味を勉強する道場」まで開いていたぐらい。当然、私は祖母や母から「大事なことなにか」をイヤってほど聞かされて育ってきました。

仕事を始めてもそれも「学び」であって、「人に恩あり、商品に恩あり、売りに恩あり、買いに恩あり、この場は神聖なる道場なり」と仕事とはなにか、どうあるべきかをズラズラと書いてある大きな「書」を事務所に掛けて飾っていましたっけ。祖母が書いたものですが、それがdabo家の仕事の「社訓」みたいなものでした。

でもね、ずーっと思っていたことがあるんですよ。仏教って「自己中」だと。「自分の解脱が目標」であって、それを世の中の衆中に広めろと。それが自分を、皆を救うことになると。これって多くの宗教も似ていると私は思っていて、世界の幸せの前に「自分が幸せになりたい」というのがミエミエ。本来の教えは違うにしても、そこに集まる人達が何を考えているかと言えば、「世界ではなくて自分」なのが気になっていました。

私の友人に半端じゃない金持ちがいて(親は上場企業の創始者)、彼女はありあまるお金をボランティアに使っていました。東チモールや福島の時もキャッシュをごっそり持ち込んでボランティアをやっていた。当然、赤十字みたいな団体にも寄付をする。

凄いなぁと思っていたんですよ。そこで、ある時、聞いたわけです。「なんでそこまでやるのか?」って。そうしたら彼女は「こうやって【徳を積んで次のステージに行きたいから】」ですと。私はそれを聞いて驚いたなんてもんじゃない。自分の金と困っている人たちを利用して【自分の徳を積むのが目的】って、じゃぁ、その行動って人のためじゃなくて自分のためじゃないかと。もちろん何もしない人よりは良いかもしれないにしてもです。

たとえ自分は地獄に堕ちても世の中の衆中を救いたいという人に私は会ったことがない。

それと近年流行っている断捨離と繋がるものを感じるんですよ。

私は結局は仏教の教えの深さを理解していないのだろうと思うのだけれど、「欲望を消し去ったところに真の幸せがある」とは思えないのね。

そもそも人間だけじゃなくて、全ての生物は「欲望があるから生きている」と私は考えていて、【生殖活動】もそうで、野に咲く花も小さな虫やありとあらゆる動物も「生きる」「子孫を増やす」という【半端じゃなく強い願望が根底にある】から生命の存在が続くわけじゃないですか。

そして全ての生物は「他の生物の命の犠牲の上に生きている」わけで、【霞を食って生きられる生物は存在しない】と考えています。草木も同じで、他の仲間達、あるいはその死骸を栄養にしているし、自分が野に咲き誇るには「競争相手を駆逐しなければ自分の生きる場所も無い」のが事実。

人間も同じで、「他の生命を犠牲にせずに、迷惑をかけずに生きることは不可能」。でもそれは認めた上で「最小限の犠牲、迷惑に留める」という生き方が良いというのは良く分かる。

でもそれでは「発展はない」わけで、未来永劫、「裸のままで暮らす原始人みたいで良いのか?」って話。

人類が発展したのは「消費すること」「より良いもの、環境を手に入れる」「もっと楽をしたい」ことを望んだからじゃないんですかね。科学技術もそれが原点だし、医学も同じ。そして社会を形成し、町や村、国を作ってまとまることによって「生き延びること」を模索してきたら今がある。

私は断捨離とは、そういう「人類が発展してきた基本を否定する考え方」に思えて仕方がないんですよ。ま、私は自分が俗人だという自覚はあって、綺麗事はあまり好きじゃないんですよ。

「必要のないものを欲しがらない」のは正しいと思いますが、では「人間社会に不必要なもの」って何なんですかね。

私は「必要がないものはない」と思っていて、自分には要らないものでも必要だと考える人がいるから、それを作り、それの生産、流通、販売という経済活動の中で多くの人々が生きている。

断捨離とはそういう原点を否定する考え方に思えるんですよ。

でもそれが人間の本来あるべき姿なのかもしれない。

ところが世界はそう動いていない。

これって「悪いやつがいくらでもいる中で、自分や家族を防御しようとするのは当たり前」なのに、【性善説に則って武器も持たずに生きる】のと同じ。【明日の糧を準備せずに、今日だけを生きる】のと同じ。【便利なものを持たずに、開発もせずに、生まれたままの姿で生きる】のと同じ。

生命がどうあるべきかという理想はわかるけれど、「弱肉強食という現実」にどう対処するんですかね。(日本の憲法も同じ問題を持っている)

そして「自分は一人で生きているのではない」わけで、家族や愛する人たちを救うためには【自分に余裕がなければならない】はずで、余裕が無い場合は【常に助けてもらう立場】でしかないじゃないですか。

仏教に浸っていた祖母や母ですが、同時に「商人でもあった」し、当然、「お金儲けは善」なわけです。そして「金があるから、自分も他人も生きていける」ってことなのね。

私は母に言われた言葉が忘れられません。

【男の優しさとは力。力とは金。】

そういうふうに育てられました。それを思い出すと、母流の「仏教と商売の融合」みたいに思います。(笑)

自分が生きて、優雅に暮らすためじゃなくても「お金は絶対に必要」で、それがあるから家族や愛する人、縁がある人も一緒に生きていけるわけで、もし自分が「自分が生きるのに必要なものしか持っていない」としたら、環境の変化には耐えられないし、いつか共倒れで消えていく。

それでも欲を持たずに最低限の持ち物、力で生きていくにしても、やっぱり「スキあらば騙してやろう」という存在はいくらでもいるし、それは国家も同じじゃないですかね。常に世の中って「生存競争真っ只中の弱肉強食の世界」だと思っています。

自分を喰らおうとする相手がいれば、自分の命を差し出すのも善かもしれない。

でも、自分の子供を喰らおうとする存在が出てきた時に、自分の子供を差し出すのか?

だから私は断捨離は絶対にしない。

私は若い頃に友人に言われたことがあるんですよ。その彼は余計な欲望は持たずに生きることを実践していた「実家は金持ち」のボンボンの独り者だったのですが。いつもお金儲けばかり考えている私に諭すんですよ。

「足るを知れ」と。

私は逆に言いました。「お金は何百億、何千億でも欲しい」と。「私は自分一人で生きているわけじゃないし、金があれば世の中を変えられるし、お金はいくらあっても足りない」と。もちろんお金だけが全てではありませんが、私は商人の生まれ、育ちですし、「お金を稼ぐのが義務。責任である」と考えてきたのね。当然、それがベストとは思っていなくて、私の場合はそう考えてきたというだけの話。

でも欲望のままに欲しい物を全て手に入れたいとも思わない。高級店で良いものを食べたいなんてことも思わない。と同時に、世の中に不必要なものはなくて、それで生計を立てて命を繋いでいる人たちの邪魔もしたくない。ただ、他の生命を脅かしてでも大きくなろうとする存在はあってはならないし、その存在に対抗するための準備は絶対に必要。

経済を大きくするのも、それによって恩恵を受ける人たちが増えるから、そして死んでいく人たちを助けることが出来るのも「経済の力」だから、経済力を付けるのは重要。言葉だけで人を助けることは出来ないし、【物質】【技術】【サービス】を与えることなくして助けるのは無理。これには【経済力を持つ】のが絶対に必要であり、また武器を手に入れる経済力もなければ、自分も愛する人たちも助けることが出来ずに淘汰されるのがこの世の中の真理。

だから世の中には「経済戦争」が常にある。

でもその経済戦争に勝てないと思った時にはどうするか?

断捨離をするしか無い。これは「競争から離脱する」ことを意味すると思うわけです。でも競争から離脱して生き延びることって不可能。私はそういう考え方を持っています。「金のなる木」があるのなら話は別ですが。

そして次には「タコが自分の足を食べる」ように、食べるべきではないものさえも食うことになる。他人の物も奪うようになるのかもしれない。

皆さんは金魚を育てたことがあるだろうか。彼らは食べるものがなければ、子供や兄弟までも当たり前のように食べる。

これが世の中の摂理じゃないんですかね。自分が飼っている金魚のそんな生態を見た時には本当に驚いたし、人生観が変わったと言っても良いくらいでした。

そしてこれは「人生の縮図」を見せられたとも思った。

でももしそんな状況になったらば、【もはやこれまでと自らの命を絶つ】という選択肢もある。実はこの考え方はdabo家の共通した考え方として存在しています。他の存在を脅かしてでも生きるべきではないという考え方。

だからやっぱり「諦めたら駄目」なのであって、私には「断捨離」という行為、考え方は諦めそのものに思えるわけです。もちろん違う考え方もあるのはわかるけど・・。

私としては「断捨離」という概念は、昔、昔の大昔、「技術の発展」とか「経済の拡大」がほとんどなくて【存在するものを欲望のままに奪い合っていた時代】に出来た概念のような気がしています。

確かに無駄なものもあるかもしれない。でも「無駄とは余裕」でもあるわけで、それを否定してしまう生き方が本当に良いのかどうかは疑問。

私は「大量消費社会」が良いとは思わない。もちろん要らないものを手に入れる必要はないけれど、世の中に存在する商品、技術、サービスを手に入れて「経済を回すことに貢献する」のは、私は良いことだと思っています。それが回るから「次なるもの」も出てきて発展は続く。

もし必要なものだけが動く社会だとしても、石油や天然ガスなどのエネルギーや資源、電気の消費量も増えていくのがこの世界。当然、エコの技術も発展させなければならないのと同様に、人類はいつか「宇宙に出る」はず。そして星々が持つ資源や太陽エネルギーさえも使いこなす時代は必ず来る。

これが進化の「第2段階」と言われる。

そしていつか「銀河系」にまで進出して新たな、そして未知の資源をも使いこなす時代が来る。これが第3段階。

私が生きている間にどれほど発展するかわかりませんが、是非、「一家に一台、ヒューマノイド型の汎用ロボット」が出てくるのは是非この目で見たいと思っています。(笑)

こういうのね。(^_^)v

こういう時代は見たくないなぁ。でもこの手のロボットの出現が一番早そう。^^;

どちらにしても皆が断捨離を始めれば、そこで進化は止まる。そして進化がないということは「常に進行する環境の劣化にやられて終わる」ことを意味する。無駄なものは無い、最低必要なものだけしかない世界って、何が面白いんですかね。やっぱり無駄とは余裕であって、それがあるから人生は面白いんじゃないですかね。他人から見れば無駄な趣味や娯楽にこだわりを持てるから嫌な仕事でも頑張れる。私は無駄なことをやるから人生って楽しいと思うくらい。

人類がいつか銀河系を出るような時代になって、ある宇宙船が遭難し、未知の星に不時着し、新たな【アダムとイブ】の歴史が始まったりしてね。(笑)

ま、話が大げさになったけれど、人類の歴史も、個人や家族の歴史も、【規模が違うだけ】で中身は同じだと思っている私。

当然、人それぞれ違う考え方があるわけで、同じなわけもないし、何が正しいというわけでもない。

でもま、私はこんなふうに考えているってこと。

なぜこんなことを書いたか?

昨日頂いたコメントを読んでフト思いついただけのこと。

それだけ、このブログには書くネタが無いってこと。困ってます。(笑)

書くネタがなければ書かなければ良いだけとのことなんだけれど、「毎日書く」というのが強迫観念のようになっているのね。そして書くのを休むと、ずーっと書かなくなってしまいそうな気もするわけです。

どうでもよいことをズラズラ書くのは読者にとって迷惑以外の何物でもないのはわかっているんですが。

m(_ _)m

 

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