さぁて、これからは「どの国」で生きようか

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「長文注意」

このブログは読者の皆様に何かを伝えたいという以上に、自分自身の変化の記録、備忘録、マレーシアでの生活記録の意味合いが強くあります。また私自身、書くことによって考えがまとまったり、おかしなところに気がつくことも多々あって、そのために書いている部分もあります。

ですので、今回の記事も、読者の方々があえて読む必要は無いと思っています。

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私は「自由に生きたい」と子供の頃から考えていました。

でも現実はそう簡単ではなくて「親の庇護のもとで生きる」限り、親の考え方や影響の下で全てが決まるわけで、自由とはその範疇の中での自由でしかありませんでした。だから早く独立、自立したいと思ってはいましたが、「自立して生きるノウハウ」なんてないわけで、また自立しても次は「サラリーマン社会」の中で縛られてしまうのであれば意味はなくて、サラリーマンになるという選択肢も私にはありませんでした。

初めての仕事らしい仕事と言えば、(アルバイトは除き)それは大学時代に偶然出会った「マルチ」でした。ネットワークビジネスですね。今から50年以上前のことですが、マルチの黎明期と言っても良くて規制も無く、まさに「ネズミ講」と同じでメチャクチャな時代でした。

でも「やれば出来る」という大事なことを知ることが出来た。まさに「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という江戸時代の米沢藩主上杉鷹山の言葉は事実であるというのを10代の終わりに実感できたのはラッキーだったと思います。

でも同時に「人間の欲望の深さ、汚さ」もしっかり見えて、これほどまで社会は恐ろしいのかとも思ったし、人間関係を含めて「マルチで失うものも多かった」のは事実。上辺ではニコニコして良いことを羅列しても、「自分のことしか考えていない金亡者の多さ」には本当に辟易しました。

ただし、「他人を喜ばすことが出来なければ、自分が儲けることは出来ない」のもマルチの社会でも真理であって、詐欺まがいのことをする人たち、口だけの人たちはすぐに消えていく社会でした。そんな中で私はどんどんとマルチの世界にハマって行き、数種類のマルチを渡り歩いたり、最終的には自分でマルチを立ち上げるようにもなりましたが、やっぱり「マルチに集まる人達」の多くは欲望の塊であり、ある時、「あああ、これを修羅の世界と仏教では呼ぶのだろう」と思ったし、自分は地獄の餓鬼の世界で生きている様に感じるようになりました。

それからはマルチとはキッパリ縁を切り、それどころか正反対の「アンチマルチ」になり、マルチで流通している商品はどんなに素晴らしい商品(こういうのは結構ある)は一切買わないし、マルチに携わる人間からも距離を置くようになりました。

マルチだけが異常なわけではなくて、一般の事業でも「メーカー=総卸元=二次問屋=販売店」のような段階があるのは普通のことで、ただマルチは「一般人がそれに関与する」ところが大きな特徴だと思っています。また「仲間を増やす」のが大事な要素なのが根底にあるのが大きな問題につながる。

ま、良い経験が出来たと思います。

私に残ったものは「システム販売」という考え方で、通常の販売形式、これは個人でも商店でも企業でも行っている常識とは違う「大きな組織として販売をする」というちょっと変わった販売ノウハウを開発し、実践するようになり、それが私の基盤となって後々の仕事に役立ったのは「マルチを経験したから」と言っても良くて、良い経験だったとは思っています。

それがどういうものかピンと来ない人がほとんどだと思いますが、たまに百貨店やスーパーがやる「年に一度の宝石販売キャンペーン」がまさにそれです。これって「見た目」は「通常の安売りのイベント」に見えますが、実は「全ての従業員、パートやアルバイトにも見込み客の紹介ノルマが掛かる通常とは別の販売形態」でした。

それまでは宝石にしても呉服にしても「一般的な展示会方式」の販売が主流で、一週間で売上も数百万とか1千万も売れれば上出来みたいだった世界が、1ヶ月間のキャンペーンで数億円を売り上げる新たな販売システムに変わったわけです。

内容はキャンペーンの数ヶ月前から、従業員の中からプロジェクトチームを編成して海外研修を含める教育、全社員・パートを集めた営業時間中の全体教育、キャンペーン前には芸能人も呼んで皆でハチマキを巻いて、太鼓も叩いて決起大会を開いたり、社員食堂の壁には全社員の名前を張り出し、ノルマを達成した社員には「花のマーク」を付けたり、キャンペーン後には優秀社員を海外旅行に連れて行ったりと、「客から見えない部分」ではかなり手の込んだ販売システムでした。

そしてこの販売方法って、百貨店やスーパーである必要はなくて、どうにか売上や利益が欲しい一般の企業でも「そこそこの数の従業員・パート」がいれば出来るわけで、仕掛ける私側から見る顧客は広がっていきました。

今はそういうケースは無い、少ないのだろうとは思っていますが、そんなことがあちこちで行われている時代もあったのね。当然、従業員もパートも「本来の仕事とは違うこと」を押し付けられるわけでから「組合」の強いところでは結構問題にもなりました。でも決して「強制」ではなくて「協力のお願い」ということでどこでも乗り切っていた感じでした。

そしてその背景には「非常に厳しい会社の状況」があったから可能だったのね。どの企業でも前年比103%とかの売上目標があるわけですが、そんなのは絶対に無理な状況があったからそんな本来ならやる必要もないキャンペーンに多くの百貨店やスーパーが飛びついてきた。

状況は深刻で「リストラ」や「閉店」の不安があるなかで、【皆で頑張ろう】という意識があるところは多かったし、そういう「全社一丸となって不況に立ち向かう」という【教育の一環としてのキャンペーン】でもあったわけです。そして「他店舗では1ヶ月で3億売った」なんて情報が入れば、他店もやらざるを得ないのね。

中には凄いスーパーもあって、思い出すのは今はなきスーパー長崎屋の小さな店舗で、従業員・パートが30数名しかないような店でも一ヶ月で5千万も売り上げた店も出てきた。当然、その店舗では通常、宝石なんか売っていないし、「アクセサリーショップ」がある程度の店で宝石をそれだけ売ってしまうようなことが起きていた。

このキャンペーンの裏側では「上下の対立」「職場放棄」「退社」があったり、そうかと思えばパートさん同士で助け合ったり、抱き合って涙を流したり、突如やる気や才能を出して出世につながった若手社員がいたり、人生の縮図みたいな感じもありました。

なんでこんな事を書くかというと、この仕事が私の原点であって、これはマルチをどっぷり経験したから行き着いた販売手法で、そしてそもそも10代の私がなぜマルチにのめり込む必要があったのかは「グアム」も大いに関係しています。当時、19歳の普通の大学生だった私は「ある一人の貧しい日本人老女をどうしてもグアムに連れて行く必要があった」からなのね。何が何でもお金が必要でした。

それはブログにも【グアムウルルン物語(ここをクリック)】として書いていますが、戦前、ある兄妹が日本で二人だけで生きていた中で、兄は船員となり、船旅の途中のグアムで現地人の女性と知り合い、恋に落ちて、船を降りてしまった。そしてその後、11人の子供も生まれ、幸せに生きていたところで第二次世界大戦。兄は赤十字の交換船で日本に強制送還。そして数年後、戦争も終わったのに、彼はグアムに帰ることはできなかった。そういう時代だったんですね。そして20数年が経ち、日本も自由に海外旅行が出来るようになったときに、その兄はグアムへ渡り家族と涙の再会を果たすことが出来た。そして日本に残った妹に「いつか呼び寄せる」と言っていたのに、兄は翌年、ガンで他界。妹はそれを知らずに日本で何十年も待ち続けたわけです。

そんな時に、一人の18歳の日本人青年がグアムにグアム大学での短期留学で渡り、大学のカフェテリアで一人のグアム人の女性スタッフと知り合った。その青年が私なわけですが、それからのグアムでの経験が私には衝撃的で、後々グアムにのめり込んでしまうことになります。

そしてその知り合ったグアム人の女性の名前は「なぜかFujikawaという日本名」で、彼女の夫がFujikawa、そしてその夫が、上に書いた船乗りだったのがグアムに残り家族を作った「一人の日本人男性」の【長男】だったわけです。

その話を聞いた時、私は「ふ~~ん、そんなこともあるんだ」程度でしたが、なんとグアム人のそのファミリー(Fujikawaの血筋は80人以上に増えていた)が、私のそのFujikawaシニアのたった一人の妹が日本に住んでいるはずだから「探し出してくれ」と頼んできたのね。戦争も終わり30年近く経っているのに、その妹を探せと。驚いたなんてもんじゃありませんでした。

冗談じゃないと思いましたが、グアムに何度も行き来し、彼らの家に寝泊まりしたり関係が深まる間に、そのFujikawaシニアの妻であるかなり年老いたナナ(おばーちゃんの意味)と呼ばれる女性と「Fujikawaシニアの墓参り」は何度か行ったことがあります。彼女はそれを非常に喜んだから。

でも私には全く関係のないFujikawaの事情なわけですが、Fujikawaシニアの墓前に立った時に、私は「彼の妹をここに連れてくる義務がある」ように感じたんですよ。そもそも私がグアムに行ったのも、Fujikawaの一族の一人とグアム大学のカフェテリアで知り合ったのも、その後、私を家族のように大事にしてくれたそのFujikawa大ファミリーの人たちとの出会い。そしてそんなグアムにのめり込んでグアムに入り浸るようになる私も、これもFujikawaシニアの望んだストーリーであったのかもしれないと思うようになりました。

一人のFujikawaシニアの生き様、そして数十年ぶりに会えた家族との幸せの日々も1年も続かずガンで他界。そして彼が呼び寄せてくれるのを日本で待ち続けている一人の妹。墓に眠る彼はどれほどその妹の事を思っているかを想像するのは簡単だし、その一連の話を聞かされ、彼の墓前の前に立つ私に「何もしない」という選択肢はないと思ったのね。

同じ日本男児として、これを見逃すわけにはいかない。

ということで、日本に帰ってから「妹探し」が始まるわけですが、これにも成功。そしてそれを聞いたグアムのファミリーは大挙して日本に会いに来た。あの時の大イベントの光景は一生忘れることはできません。

でもそれも終わったある日、Fujikawaの妹である老婆に、私は思わず「グアムに行ってみたい?」と聞いたわけです。最愛の兄はもういないわけですが、「墓参りはしたい」のは絶対に間違いはないはずですから。そしてグアムには「血筋のファミリーはどんどん増えている」状態で、彼らにも会いたいはず。

でも「妹をグアムにつれていきたい」とグアム側に連絡をしたら、皆がそれを避けるような雰囲気なのね。「旅費だけ出してくれれば、私が連れて行くから」と言っても返事がおかしい。これの理由は今でも良く理解できないのだけれど、これでは私が納得できないのね。

私に「怒り」に近いようなものも芽生えて、よし、それなら私が旅費も出して連れて行くと心に誓ったのが19歳の大学生の私。でもどうにもならない。お金もない。お金を稼ぐ方法も知らない。ちょろっとバイトをしたところでどうにかなる話じゃない。

だからこそ、当時流行りだしていた「マルチ」に飛び込んだわけです。そして結果的に、その老女をグアムにつれていくことが出来て、彼女も最愛の兄の墓前に立つことも出来た。そして私だけ日本に帰り、また数カ月後に、今度はその老女を迎えに行くことになったり。

その時も、私もそのFujikawaシニアに呼ばれた、こうなるように彼が仕組んだ、みたいな気がしたものです。あまりにも多くの偶然の重なり合いがなければ、こうなることはなかったわけですから。

そしてそれがその後の私の人生にも大きく関係しているということ。それは仕事もそうだし、またその何十年後かにオーストラリアへ渡る事を決心したのも同じで、今、マレーシアにいるのもそうで、あのグアムの出来事がなければ、今の私はなかったような気がしてならないのです。

50年以上前にグアムのFujikawaシニアの墓前に立ったことから、私の人生の方向性が決まったような気がしてなりません。でもそれは私がFujikawaシニアに感謝すべきであると思っていて、今の私の幸せを考えたら、私がFujikawaファミリーにしたことなんてほんの小さなことでしか無いと思う。

今、改めてFujikawaシニアを思い、手を合わせて感謝したいと思う。

とまぁ、毎度の長い話なわけですが、私達がマレーシアに渡ってきたのは2016年。ゴールドコーストに渡った1991年の25年後のことなわけですが、今は二人共他界した私の両親ですが、ゴールドコーストに住んでいた私達、そしてアメリカに長く住んでいた姉も「偶然」マレーシアに移住することを知った日本在住の両親は、彼らも「マレーシアに渡れば長年離ればなれで住んでいた親子が結集できる」と思ったのね。

だから私の両親は慌てるように自宅も売却しMM2Hを取得してマレーシアに渡ってきたわけです。ただ私のグループは「リーマンショックで大打撃」を喰らい、MM2Hビザは取ったものの、マレーシア行きは7年も遅れてしまいました。

私達がマレーシアに上陸して、父や母が待つコンドミニアムへ行った時のことが忘れられません。2016年のことね。

母は一人でコンドミニアムの玄関で私達を待っていて、母が「やっと来てくれたわね。どうも有難う。これで貴方に看取られて死ぬことが出来る」と私の手を強く握りしめたのを思い出します。父も母も私の家族や姉とともにマレーシアに住み続け、マレーシアで死ぬつもりでいたわけです。

残念ながら2019年に母が他界した時には、私達3人(私、嫁、長男)はオーストラリアに住む次男坊の結婚式が日本で行われるので、それに行っていたときで、次男坊の結婚式の真夜中に姉から訃報を受け取り、その瞬間に立ち会うことは出来ませんでしたが、もうその頃は「実体以上に心が結ばれている」のを実感していましたし、「永遠の別れ」だとは全く感じませんでした。

これは今回、父がなくなっても同じで、「死とは決して別れではない」と思っていて、「常に心の中で生きている。いつでも会える。いつも一緒にいる」という感覚があります。不思議なことにそういう感覚を持つようになったのは近年で、私自身が「死を身近に感じるようになった」からかもしれません。そして「精霊」とか「魂」の存在を非常に強く感じるようになっていて、一般的な「生と死」の感覚も変わってきて、「どちらも常に同じ空間に存在するもの」、あるいは「接点は常にある」という感覚を持っています。不思議です。

きっと近代的な考え方では「別れを受け入れたくないから」脳がそういう新たな定義を作り出したのだということなんでしょうが、今の私は、そんな単純ではない奥深い「未知の世界」がちゃんと存在している。それを証明することは出来ないけれど、感じることは十分にできる、みたいに思うようになりました。

ま、理屈はどうでも良くて、間違いがないのは私の心の中で両親も親族も、そして会ったことも無い、名前も知らない遠い先祖も「私の中では常に存在している」のね。と同時に時間の流れを超越した私のまだ見ぬ子孫たちも「同じ場に存在している」という感覚があります。そしてそこには川の流れの様な「大きな愛が流れている」、そして「反対方向に感謝が流れている」という感覚があります。

幼い頃、「親孝行をしなさい」なんて当たり前に言われていましたが、自分が結婚をして子供が出来た時、その良く言われる言葉は大嘘だと思いましたっけ。こんな自分のところに生まれでてくれる子供にこそ親は感謝すべきで、「子供は生まれた瞬間に親に対する親孝行は完了する」と思うようになりました。

親が子供を愛し大事にするのは当たり前のことで、「それに感謝し親孝行をしなさい」というのはちょっとズレていると思います。もし親に感謝したいと思うなら、「その気持を子供への愛としてつなぐべき」であって、そうじゃなければ「流れは続かない」じゃないですか。子供が上(親)を大事にして、下(子供)には感謝しろ、親孝行しろって世界が良いわけがない。

そして自分が子供を大事にすることによって、「自分が受け続けていた愛にも気がつく」のだろうと思います。これが世の中で言う「子を持って知る親の恩」だと思うし、自然に親に対する感謝の念も湧いてくる。そしてある時、先祖=自分=子孫の流れの中で「愛の流れ」は遠い昔から続いてきたことも気がつくし、「先祖を敬え」というのはこういうことなのだと思う。敬えなんて言われなくても、愛の流れに気がつけば自然に感謝の念は出てくるし、これは言われてどうなることも出ないのにね~。

実際には先祖の中にも親殺し、子殺し、兄弟殺しなんてことも起きたとは思うけれど、こういうことも突き詰めて考えると「愛が原因」と言えると思っていて、それは「紙の裏表」と同じようなことでしか無くて、あってはならないとは思うものの、起こり得ることは否定できない。

また子供がいない人もいるわけで、そこで愛の流れが途切れるとも私は思わない。世の中の出来事で不思議だと思うのは、まず父親は自分の子供が本当に自分の子供なのかはわからない。また母親が自分で子供を生んだ確信はあっても「病院で子供を間違える」なんてこともいくらでも起きた。

でも自分の子供だと信じていると、それの真偽は関係なくて、子供を一生懸命愛するのが普通。そして「子供を間違えたことが発覚した時」に、【今までの愛がそこで消えるか】というと消えない。

また自分の子供ではないのがはっきりしている子供に愛を一切感じないかというとそういうこともない。だから結局「血筋」というのは関係ないのかもしれない。これは男女間の愛も同じで、「自分のこと以上に愛する対象が出てくる」のは自然なんだろうと思う。

ただ私は人間として成長していないから、自分の子供は気になるけれど、地球の裏側で死んでいく他人の子供に涙を流すことはない。でもそういう子どもたちに我が子のように涙する人たちも存在しているのだろうと思う。

人とはいわゆる他の生命体と同じだとすれば、「他とは敵を意味する」し「利用すべきもの」でしかないのかもしれないけれど、人間はまだ進化の途中だとすれば、遠い将来には大きく変わるのだろうとは思うけれど、私には想像すらできない。またどうあるべきかを考える必要もないと思っていて、私は「今」を大事にしたいと思う。「今の自分の心に素直であるべき」とでもいうか。

そんなことを考えるようになった近年だけれど、自由に対する渇望の念は変わらない。でもマレーシアに両親が住み、彼らはマレーシアで人生を終わらせるつもりであることを考えると、今までのように、オーストラリアで住むとか「そういう自由だけは無い」わけで、両親の希望が叶うまでは私達はマレーシアに縛られる。

でもマレーシアに縛られることが嫌だと思ったことはないし、いつまでこういう状態が続くのかを考えることはあったにしろ、この状態から逃げたいどころか、今、私達がマレーシアに住んでいることは大正解だと思うし、もし今、他の国に住んでいたと仮定しても「マレーシアに渡って住むべき」と思うわけです。

今、父も他界して、私達がマレーシアに住み続けなければならない縛りは消えた。

でも今、日本に帰ろう、いや、やっぱりオーストラリアだとも思わない。

日本やオーストラリアに未練がないということではなくて、「行きたくなれば行けば良い」という自由が確保できているだけで私は十分だし、そもそも「行ってみたい場所」と「住み続けたい場所」とは全く違うわけで、日本でもオーストラリアでも数週間、数ヶ月でも行っていれば、「早くマレーシアに帰りたい」なんて思うんじゃないかと思う。

そしてその自由は、若い頃から今までも確保できているわけで、どこに住もうがどんな仕事をしようが、遊び呆けようが、その自由があるということを重視したい。で、今はマレーシアで満足しています。

それだけ「マレーシアに住むのは快適」であるということ。でも【文句もある】のは当たり前のことで、それは世界中どこに住んでも同じで「完璧な国」があるわけがない。

これは世界中を若い頃から飛び回っていた姉も同じで、以前は「両親が死んだら私はマレーシアから出る」と言っていたのだけれど、先日、「将来的にどうするつもり?」と聞いたら「マレーシアに住み続けると思う」と。

ただ今回の父の件での経験の中からも、「マレーシアで一人で歳を取って死ぬのは無理」だと姉(現在73歳)は思っていて、姉はアメリカの永住権は返納してしまったし、そもそもアメリカで住むのはもう我慢できないとマレーシアに渡ってきたことからも、もしマレーシアを出るとなると「国籍のある日本」しかない。

これは私も同じで、でもオーストラリアで住むことは可能。シドニー在住の次男坊はもちろんのこと、今マレーシアで一緒に住む長男も「ゴールドコーストが故郷」だというし、「日本に住むという選択肢はない」とまではっきり言う。

私も「シドニーに住む」という選択肢はあるような気がするけれど、ヨメさんのことを考えると「日本が良いだろう」と思うわけで、ほぼ間違いなく先に逝くであろう私が「後のことは好きにしろ」なんて言えないし、今どき、子どもたちに面倒を見てもらえとも言えないし、やっぱりまだ私がどうにか動けるうちに「日本で最後の場所」を決めたいとは思っています。時が来れば介護をしてくれる「シニア用の住宅」ね。

ヨメさんはどう思っているかと言うと、「自分ひとりで生きていく想定をしたくない」のがはっきりわかるわけで、【絶対に私より先に死なないで】と昔から、いつも言う。そういう旦那が多いのはわかるけれど、ヨメさんがそれを言うのが我が家。(笑)

私とて、あのワガママおばさんが一人で生きていく、あるいは子どもたちに任せるなんてことは無責任なのと同じで、私が先に死んだら面倒なことになるんだろうとは思っています。でも私はヨメさんより6歳年上だし、身体には時限爆弾を抱えている状態。

だから【絶対に私より先に死なないで】と言われた時には、【大丈夫。任せろ。俺が死にそうになったら必ずお前が先に死ぬようにするから】と笑って応えるようにしています。(^_^)v

な~~んてね。

でも実際に、そろそろきっちり計画を建てなくてはならないのだけれど、I have no idea at all みたいな感じ。

こんな事を考えると、去年のクレディ・スイスの大失敗がなければ、それだけで我が夫婦の将来はどうにでもなると思うのだけれど、悔やんでもしょうがない。

だから今は、俄然やる気を出してきた子どもたちとともに、ダボ家の将来を作っていくことに邁進するしか無い。

まずは大きなことより、息子たちが「デイトレ・短期売買で生活できるレベル」まで育てるのが何よりも重要で、それが出来ればそれから先は大きな問題はないわけで、何が何でもそれを優先したい。でもこれは背水の陣と同じで、時間に余裕はない。

でも先の心配は適当なところでやめておいて、親子二代のトレーダー軍団をどうにかしたい。デイトレ・短期売買さえ出来れば、第三次世界大戦が起きようが、日本が沈没しようが、世界大恐慌が起きようが生きていける。

これから私達がどこに住むか、最終的にどうするかはあまり考えずに、今、やるべきことだけに集中したいと思っています。

男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山

男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんば死すとも還らず
骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや
人間到る処に青山(墓)有り

 

 

 

 

 

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