年寄りだからこそ「AI」を活用しようと思う

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世の中ではAIがどんどん広まっていますが、皆さん、きっちり活用していますか?

私はと言うと「興味があるだけ」で、実際にどう使うかというのがピンと来ないのね。仕事をしているわけじゃないし、必要性も感じないと言うか、ちょっといじった限りでは「知らないことは教えてくれる」けれど「私が知っている分野に関しては馬鹿じゃないかと思うくらいAIは何も知らない」と思うのね。

でも歳を取って「頭脳的に問題が出てきている」のは間違いがなくて、それは「記憶」であり、「柔軟性」であり、「努力」とか「継続性」にも問題が出てきているのを自覚します。

だからそれをAIで補うのがやっぱり必要なんじゃないかと。

私は古い人間で、「自分自身が育つことが重要」で、それが基本だと思っているわけですが、もうそういう時代も終わったのだと受け入れる必要があると思うんですよ。でも「それに反発したい」という気持ちも強いのね。【自分の中に知識や経験を蓄積することが重要】だと思ってる。

ところが今、漢字なんか書けなくて「自動変換」を使うし、計算も「計算機を使う」のが当たり前で、そういう「自分以外のデバイスを使う」のを受け入れても良いんじゃないかと思うのね。今はもう、エクセルやワード、パワーポイントにもAIが搭載されているし、それを使わない手はない。

だから本来あるべきじゃないけれど、もう意地を張るのはやめて、AIに任せられることは任せれば良いじゃないかと思うようになってきたのね。「記憶」もそうで、自分が覚えなくても良いことは無理して覚える必要もないんじゃないかと。

本心としては、AIを使えば使うほど「人は馬鹿になる」と思うけれど、「もう馬鹿になっているなら使えば良い」と思うわけです。

少なくとも「自分の中に存在していたものが溶けて消えていく」のを感じるし、それを補うだけでも良いと思う。

そしてそうしないと、どんどん変化して情報も増える現代を生きているわけもないのを感じます。

そういう意味で、たまに「ホリエモン」の話を聞くと、面白そうだって思うのね。

自分がやらなくても良いことはAIにやらせれば良いじゃないかと彼は言う。これって「何でも自分でやることが重要」と信じて、そうやって生きてきた年寄りには簡単ではないのだけれど、もう自分がポンコツになっているのは間違いがないのだからそれでよいかじゃないかと思う。

ホリエモンはこういう言い方をする。

「AIは知能指数で言えば100はある」と(決して優れているわけじゃないという意味)。つまり知能指数が(ちょっと危ない)80の人でもAIを使うことによって知能指数100の事ができると。

これって人を馬鹿にした言い方だと思うのだけれど、心身ともに「どんどん落ちていく自分」を考えれば、どうにかしてそれを補うべきだと思うわけで、そういう「AIの使い方をすれば良い」と思うようになりました。

つまり「AIで新たなものを得る」というより、「足りないものを補う」という考え方で十分なんだろうと思う。

前に「落合陽一氏」の話を聞いて驚いたのは、彼は「多くの文章を書いたり、メールの返事をAIにまかせている」と言うのね。これはホリエモンも同じようなことを言っていて、実際に自分が作ったものじゃなくても、「自分が作ったのとほぼ同じものをAIが作れる」という。

それってどんなAI?と思うわけですが、彼らは「落合AI」「ホリエモンAI」を持っているのね。だからそのAIが作り出したものは「本人が作ったものをほぼ同じ」になるという。

私も昔から、「自分が複数いたら良いなぁ」なんて馬鹿なことを考えることが多くて、真面目に頑張る自分と1日中ボケ~とする自分と、遊びに没頭する自分と、一生懸命お金儲けをする自分とがいたら良いなぁと思ってきました。自分が4人いたら人生楽しいだろうなと。(笑)

でもそれに近い状態をAIで作れるんじゃないかということ。

例えば「ブログを書く」にしても、私の考え方とか趣味とか、私の反応さえもわかっているAIがあれば、「こういうところに焦点を当てたブログを書いて」とAIに指示を出せば作れるはずなのね。それも箇条書きで要点をまとめて、論理的にわかりやすく書いてくれるはず。そして文字数の増減もできるし、ある部分を膨らませて深堀りすることも「指示通り」で出来るはず。そもそも私のブログなんて、「過去に何度も書いたことを再び書く」ことが多いくらいだから。

AIが作ったものを自分でチェックして手直しをすればOKなんてことは難しくないんじゃないですかね。そしてそれをメールで出すなり、ブログに投稿するなり、HTMLでWEBに載せるのも自動で行うのは難しくない。

もう落合陽一氏やホリエモンはそういうことをやっているわけで、その「程度」こそいろいろだけれど、多くの人がやっているんじゃないかなぁ。

実はですね、我が家は「跡取りである長男にいろいろやらせる」ことが多いのですが、先日、日本の税理士とのやり取りをして決めなければならないことがあったのですが、それを全て長男に任せたんですよ。メールで遣り取りをするのですが、当然、「内容はそれでよいかのチェック」は私は必ずするわけです。で、ここは直せとか、あれを足せとかいうわけですが、長男は3歳からオーストラリア育ちですし、「日本語に問題がないわけじゃない」のね。ましてや「日本語のビジネス文書」なんてまともにやりとりをしたこともないんですよ。

ところが先日、「オヤジ、これで良い?」と私に見せたその税理士に送るべきメールですが、ちゃんと挨拶文から始まって、内容は十分で、そして箇条書きでわかりやすいし、「お前、これ100%完璧だよ」という出来だったのね。

「お前、いつこんなことを覚えたんだ?」と聞いたら、ニヤっと笑って「Chat GPTに書かせた」という。( ̄口 ̄∥)

まさにこういうことからAIを使えるわけで、私がその文章を書いても「そこまで完璧には書けない」と思ったんですよ。

でもま、定型文に必要なところを足して、「重要なことをAIに教え」、書き方はAIが考えただけといえばそのとおりなのですが、これだけでどれほどの時間短縮が出来るのかって恐ろしいくらいだと思ったわけです。

AIを育てて、我が家の問題点ややらなければならないこともAIがデータとして持っていれば、「AIに手伝わせる」だけではなくて「AIからサジェスチョンさえももらえる」はずなのね。どういう問題点、矛盾点があるかとか、それをどう解決すべきだとか、では具体的に誰に連絡を取ってどうすべきかもAIが出してくるようにするのはむずかしくないかもしれない。ましてやスケジュール管理なんて簡単にできるんじゃないかなぁ。

要はダボAI、長男AI、そしてそれを統合した「ダボ家AI」を作ることが出来るはずで、ま、それは「将来のこと」としても、まずは「自分がやらずともAIに任せられることは任せる」のをはじめの一歩としてやろうかと。

ちょっと昔の爆発的に流行った映画で「2001年宇宙の旅」ってありましたよね。あのHAL9000というコンピューターが忘れられないのですが、将来的に「一家に一台、あの手のAIを持つ時代は来る」んじゃないですかね。

そして当然、いつの日かそのコンピューターは「ヒューマノイド型のロボット」になっているはずで、そんな時代に自分が生きているとは思えないけれど、「必ずその日は来る」と思っています。

「老人介護はロボットの仕事」という時代も必ず来る。

できることなら私の介護もこんなロボットにお願いしたい。(笑)

今のAIは「原始人が石斧を持っていた時代」みたいなレベルかもしれず、それはそれでやっぱり使いこなして次のレベルに進化したいと思う。

ましてや身体も頭もどんどん駄目になるジジーにしてみれば、「AIとロボットを使わないほうがおかしい」時代になると思う。

いつの日か、もう私がいなくなった時代でも、もし子どもたちが「オヤジだったらどうするかな」と思った時、ダボ家AIにそれを質問すれば「ダボさんなら87%の確率でこうするはず」なんて答えるかもね。「でも今の時代はそれでは危険があるから、XXXXのようにするのが良い」なんてね。(笑)

AIって「何が出来るのか」と考えてしまうから、年寄には関係ないような気がするけれど、【自分のアシストをさせる】という明確な目標があれば「おのずと使い方はわかる」ような気がしています。

有料でも良いから、ちょっくらきっちりしたカリキュラムがあるところで勉強してみようと思う。

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