昔、私は自分が歳を取るというのがどうも理解できないと言うか、「他人事」みたいに思えて仕方がなかったんですよ。
歳を取れば身体も弱るし、頭もボケてくるのはわかるものの、それが自分の大きな問題として実感できなかったのね。
でも今、今年72歳になる私は、身体はもちろんのこと「頭の劣化」がよく分かる。
身体的な変化は「わかりやすい」けれど、「頭の劣化」って本来は分かりづらいのね。そりゃ「物覚えが悪い」とか「計算能力が落ちた」とかそういうのは簡単にわかりますが【思考力の低下】ってわかりずらい。これって、「定規が自分自身の長さを測る」ようなもんで、定規の長さが30センチから20センチに短くなっても、それで自分を測れば「前の30センチのまま、変化なし」と思うのと同じだと思う。
でも私の場合、頭の劣化がわかりやすい。
それはなぜかと言うと「ブログを書いているから」なのね。最近、自分が書いているブログを読み返すと「なんか変だなぁ」と感じるんですよ。話が長いのは昔からですが、内容がなんか変なのね。あまりにも話しにまとまりがないし、内容があちこちにどんどん飛んで変化してしまう。そして細かいことにこだわりすぎると思う。ま、歳を取ったから「書き残しておきたいと思うことが多い」のは間違いがないものの、なにかおかしいのを自分でも感じるし、それは「何年も前に書いた日記と比べる」と間違いなく自分が変わっているのがわかる。
自分の定規が30センチで、それで自分を測れば「同じ30センチで変化なし」と思うけれど、昔の自分(が書いた日記)と比べると、【定規の長さが明らかに違う】のがわかるみたいな。文章の長さの話じゃないですからね。(笑)
困りましたねぇ。身体の健康を維持するのも難しいし、「頭の劣化」はどうすればよいのか。
最近のニュースを見ると、相変わらず「詐欺で騙される老人が多い」のがわかるけれど、内容を見ると「嘘だろ?」みたいなことも多い。なんでそんな簡単にコロッと騙されるのかと思う。これは「ロマンス詐欺」も同じで、あまりにも「無防備過ぎる」と思うのだけれど、それもまた「頭の劣化」が原因じゃないかと。
思い出すのは、私の叔父の事。アメリカはシアトルで生まれ育った日系二世。戦後、日本に渡ってきて叔母と知り合い結婚し、日本に住み着いて事業を始め、そこそこ成功した人だけれど、80歳を過ぎた頃からか、「ちょっと言動がおかしくなった」のね。
私の両親はもちろん、どちらの血筋にも「ボケた」のはおらず、身近に「ボケ老人」っていなかったし、「ボケの進行」もどういうものか私は全く知らなかった。だからその叔父のボケが私にとって初めての「ボケ老人を観察できる機会」となった。
叔父は叔母と日本で一緒に生活していたのだけれど、日常生活にはまだ問題が起きたと言うほどではない頃に「大事件が起きた」んですよ。
身内の恥を晒すようですが、書いてしまいます。
叔父が何の用事もあるわけじゃないのに、外出して「何かおかしなことをしている様子」に叔母が気がついたのね。
ある日、叔母が叔父の後を追って様子を見ると、すぐに電話を始めたらしい。
これが何度が続いて、「何かある」と読んだ叔母は叔父を問い詰めたのね。そうしたら簡単に白状したらしい。
電話の相手は「ハワイ住まいの韓国人の女性」で、何をいつも話していたのかもそのうちわかった。
なんと叔父は「老後はその韓国人の女性に面倒を見てもらおうと思っていて、その条件として5百万ドルを渡す」という内容。( ̄口 ̄∥)
若い頃からこの叔父叔母夫婦って「おしどり夫婦とはこういう夫婦のことを言う」と思っていた私はそれを聞いてびっくり。もちろんもっと驚いたのは叔母。
でもこのことは大事に至らず、叔母は叔母で「至らぬところがあるならそれは直す」ということで一件落着。意外に簡単に収束してしまった。この「簡単に白状して収束した」ことも私は何かおかしいと思っていて、やっぱり「頭の劣化が関係している」んじゃなかろうか。じっくり考えて計画を練っていたようには見えないし「衝動的」なものかもしれない。
ただそのハワイの韓国人女性と叔父がいつどこでどうやって知り合ったのか、どういう経緯でそういう話になったのかは私は聞いていないものの、そもそも叔父は日系二世でやっぱりアメリカが故郷なのね。そして「ハワイに住みたい」というのは昔から言っていて、実際に夫婦でハワイに住んでいたこともあって、私もその当時、ヨメさんと一歳になったばかりの長男を連れてハワイに遊びに行ったことがある。
ちなみにその滞在中にワイキキビーチに遊びに行った時、「周りがざわついて新聞の号外が配られていた」のを思い出します。一体、何があったのかと私もその号外を手に入れたのですが、そこには「日本のエンペラーが死去した」というニュース。つまり「昭和天皇の崩御」でした。なぜそれがハワイで号外が出るほどのニュースになるのかと理解に苦しむところもあったのだけれど、やっぱり彼らは「太平洋戦争。真珠湾攻撃」を忘れられないのね。そしてそれを起こした張本人は昭和天皇だと思っているわけで、「一つの歴史が終わった」ということだったのでしょう。
ま、それはさておき、叔父叔母夫婦はその後もハワイに住んでいて、でもあるとき、日本に帰ってきた。これは生粋の日本人である叔母が望んだことらしい。そして日本で住みながらまた月日が流れて、上に書いたようなことが起きた。
ハワイに住んでいる頃の叔父叔母の友人は皆、同じ年代の「日系人ばかり」で、私も叔父が開いたパーティで会ったことがあるけれど、ほとんどの日系人男性は「アメリカ兵として日本と戦った」か、あるいは叔父みたいに、戦後、軍に入って進駐軍として日本に行ったことがあるような人たち。いわゆる「日本人に見えるけれど、日本語は話さないアメリカ人」だった。そして日系人社会は「韓国人社会とも近い」らしく、韓国人の友人もそこそこいた様子。そんなことで、叔父と韓国人女性と繋がりがあったのかもしれない。
結局、大金をその女性に渡して「一生面倒を見てもらう」という話はなくなったのだけれど、叔父はやっぱりハワイに住みたかったのかもしれない。またハワイには「パンチボール」と呼ばれるとてつもなく大きな「墓地」があって、そこはアメリカ軍の兵隊、あるいは軍属が埋葬される墓で観光地にもなっている。叔父もそこに埋葬される権利があるそうで、「死んだらパンチボールに埋葬して欲しい」ということは生前、何度も言っていたのは私も覚えている。
そして数年が経ち、叔父の「ボケ具合」も悪くなり、また身体も弱ってきて、日本の自宅に近い「老人ホーム」に入ることになった。
私はその当時のことは知らないのだけれど、看護師に多くのフィリピン女性がいて、叔父は彼女たちとは叔父の母国語である英語で話せるので機嫌が非常に良かったらしい。そして叔父は「自分はハワイにいると錯覚していた」ようで、叔母が叔父に会いに行くと、叔母のことがわからなくはなっていないけれど、「叔母がハワイに会いに来てくれている」と思っていたらしい。だから叔母が帰る時にはフィリピン看護師に囲まれてニコニコしながら、叔母に「また遊びにおいでね~~」と手を降っていたと。
そしてその後、叔父は亡くなり、日本での葬儀にはオーストラリア在住だった私も参列したけれど、叔父の人生には考えさせられるものがありました。アメリカ生まれの日系二世である叔父は、戦時中はアメリカの日本人強制収容所に入れられたし、その頃、日系人の財産が没収されることはなかったものの「二束三文で叩き売られた」し、また叔父は幼い頃から差別される経験は非常に多かった。当然、「ジャップ」として扱われて育った。
でも叔父は日本語もわからないし、日本に行ったこともないし、国籍はアメリカ人で「俺って一体何者?」という疑問を一生涯持っていたのね。だから日本に来て、叔母と結婚し、日本に住み着いても、日本語は叔母から習った「女言葉」を話すし、ややこしい話は英語じゃないと通じないし、私達親族も叔父のことは「変な外国人」という認識で、同じ日本人とは誰も考えていなかったのを思い出します。
叔父にしてみれば、アメリカでは差別され、日本に来ても仲間とは思われない、本当に寂しい人生だったろうと思うわけです。だからアメリカと日本の中間で、同じような境遇の日系人が多いハワイを好きだったのかもしれない。ちなみに彼が生まれ育ったのはシアトル。
そんな彼の「心の隙間」に入り込んだのが一人の韓国人女性ということなんでしょう。そして叔父はその女性と一緒にハワイに住み、彼女に一生面倒を見てもらうことを選んだ。
だから私としては、これがよくある「ロマンス詐欺」なのかどうかはわからないんですよ。
でも韓国女性に500万ドルという大金を渡して一生面倒を見てもらうなんて話を聞けば、叔母はもちろん皆が「とうとう狂ったか」と思うわけで、「騙されている」とも思ったものの、それでも叔父はそれを選んだという「彼の寂しさ、心の葛藤」までは考えが至りませんでした。ただ皆が確信したことは「彼のボケが進行している」ということ。
いまだにその真相はわからないわけで、周りの人間としては「ロマンス詐欺に騙された」と思いたいけれど、そこには根深い問題があったのかもしれない。
どちらにしても、「人生が終わりに近づくといろいろと考えることがある」のは間違いがなくて、それは世の中の老人は皆、同じかもしれなくて、だからこそ「詐欺にも引っかかる」のだろうと思うのね。単に「金を楽して儲けようと思ったから詐欺に引っかかった」なんて簡単な話じゃないかもしれない。また歳を取るからこそ「真に愛する人と出会いたい、愛されたい」と願う人も増えるのかもしれない。
もしそうだとしても、単なる金亡者だとしても、詐欺に引っかかる人は減るどころか、老人が増えれば「詐欺はもっと増える」のだろうし、その原因として「頭の劣化」は間違いなくあると思うのね。
冷静に考えればわかることでも、「それが出来なくなるのが老化現象」かもしれないというのは、私自身がこのブログを書くことで気がついたことでもあるわけです。
でも、気がついたからまだ良いのかもしれないのね。きっと私もそのうちどんどん頭が劣化していけば、「この歳になって初めて気がついた真実だ」なんてバカな考え方に固執する可能性は大いにある。
それも「ちょっと言動がおかしい」ぐらいなら、周りの家族も「しょうがねぇなぁ」で終わるかもしれないけれど、「財産を赤の他人に渡してしまう」とか「周辺の地域社会に迷惑をかける」なんてことも「問題ない」と考えてしまう老人が増える。そして自分もそんなふうになってしまうかもしれない。
そして怖いのは、「そういう老人でも選挙権を持っている」ということでもあるかもしれない。老人が大多数となる社会が「どういう価値判断で動くか」を想像すると恐ろしいものがある。
私自身がどうなるかは、今の私には全く想像が出来ない。
でもブログを書き続けている限り、その変化は「ブログの内容でわかる」はずで、多くの読者には迷惑かもしれないけれど、おかしなブログは読まなければよいだけの話で、私は私の記録としてブログを書き続けたいと思っています。
また私自身が叔父のように「とんでもない金額のお金を勝手に動かしてしまう」と大変なことになるのは簡単にわかるので、もう数年前からそれが出来ないようにしていて、日頃の生活費は別にして、大きな買い物やお金の移動に関しては「必ず息子たちの同意が必要」というふうにしています。と同時に、私とヨメさんの名義の銀行口座に大きなお金は入れておらず、息子たちとの共有口座、あるいは少なくとも私がお金を動かせば息子たちがすぐにわかるようにしています。
「ちゃんとしたプライベートバンクを使う」のはその点でも意味があって、担当者とは常に情報交換はしているし、年に一度は家族を含めて会うのが決まりだし、当然、彼は我が家の内情、家族全員のことを把握していて【銀行に関して誰かがおかしな動きをしたら彼から連絡が来る】様になっています。お金の移動もあえて簡単にオンラインでは出来ないようになっていて、お金を動かす場合は「一々、指示書をFAXで送る」のね。すると向こうから折り返し「確認の電話」があって(録音されている)、担当者がOKを出さないとその指示も実行されないようにしてある。だからもし彼が「不審な動き」を感知したら、「daboさんからこういう指示書が来ていますが把握していますか?」と「息子に電話も入る」様なシステム。当然、息子たちも勝手に動かせない。ただし「必要なサインは一つで良い」ようにしています。でもいつか、「複数のサインが必要」とするときが来るかもね。
ヨメさんも同様で、ヨメさんに大金は動かせないようになっている。でもそれはヨメさんも同意の上で、今は全く問題がない。ヨメさんはお金に無頓着な人で、お金が多くあっても喜ばないし、少なくても文句一つ言わない人。「どうにかなるわよ」というのが口癖の人。ちなみに彼女の血液型はO型、私はA型。(笑)
そもそも私達が結婚した時、私は無職で無収入だったし、今、思えば良くそんな男と結婚したと思う。
そう言えば、生活費も足りなくて私がサラ金からお金を借りた時でも、文句一つ言わなかったっけ。不思議な人だわ。
なんだかんだ言っても、我が家は幸せだったと本当に思うし、そんなダボ家を私のボケで壊すことがないことを願っていますが、どうなることやら。
せめてMCTオイルとレシチンぐらいはしっかり摂ろうと思う。(笑)
もしチャンスがあったら、「日系人の苦悩」に関してこのブログに書きたいと思っています。
一番身近な叔父もそうですが、彼の親族の多くもやっぱり日系人で「日本在住の人たち」も多くいた。私も幼い頃からそんな遠い親戚と付き合いがあっていろいろな話を聞いてきました。特に、彼らが育った「戦前のアメリカで日系人がどう扱われたか」はまさに「差別との共存」であったし、戦後の苦労の話もよく聞きました。
そんな話もいつかブログに書いてみたいです。
また私がアメリカに初めて遊びに行った大学生の頃、アメリカに住むその親族の家にも泊まらせてもらって転々としたのですが、その中で「他の日系人とは全く違う日系人」がいたんですよ。彼は戦前のアメリカ生まれでアメリカ育ちなのに、「なぜか英語が不得手な日系人」で、家族とも難しい話を英語では出来なくて苦労するとその子どもたちが笑っていたのを思い出します。
だから彼は、私とは日本語で思う存分話が出来るし、それが嬉しいらしくて、良く「シャケ釣り」にも連れて行ってもらったし、彼の視点からの「日系人」の話も聞きました。
またアメリカに渡った日系人の多くは「農民だった」わけですが、それとは別に「高い教育を受けていた人で農場で働くために渡ったのではない人たちの子孫」もいて、彼らはプライドが高くて、「自分の親たちは農民でなかった」ことをことさら強調する人たちもいた。また日本ではもう一般的ではなくなった「部落差別」のようなものも残っていて、「穢多(エタ)非人(ヒニン)」のような死語が使われていて、日系人の中で、「あの人は穢多、非人だ」というのを聞いて驚いたこともある。同じ日系人の中にも差別があった。
また当時はハワイでもアメリカ本土でも「日本食レストラン」は多くありましたが、現代のそれとは随分違っていて、「移民で渡った人たちが経営する店」が多く、それらは大げさに言うと「戦前の地方の大衆食堂みたい」で【素人の田舎料理】みたいでもあったし、私は「この和食を日本の伝統ある和食だとアメリカ人に思われたくない」と思いましたっけ。
アメリカの一般的なレストランで食べるアメリカ人の料理も、いわゆる「アメリカの肉は固くて不味くて食べられない」みたいなのが多かった時代。そして私が行くところどころで「陰湿な差別」も受けた時代。
話は戻って「他の日系人と違う日系人」の話ですが、なぜ彼が他の日系人と違うのかですが、彼は日系人は日系人でも「帰米二世」と呼ばれる日系人だったのね。
どこが違うかと言えば、アメリカで生まれ育っても戦争が起きる前に【やっぱり自分は日本人だ。日本が好きだ】という日系人たちがいて(差別に我慢ができなかったのかもしれない)、彼らは「日本に帰った」のね。そして日本で教育を受けた人も多い。そして戦争が始まり、後に戦後を迎えるわけですが、「生きるのが難しい焼け野原ばかりで貧しい日本ではなくて、アメリカに戻ろうと戻った人たち」で、だから「帰米二世」と言われる。
こういう「日本バンザイ」の日系人もいるのがアメリカの日系人社会で、また日本に帰るどころか「俺達はアメリカ人だ」と差別が横行するアメリカ社会で、「あえてアメリカ軍人としてアメリカに命を捧げることよって、認めてもらうことを決めた日系人」も多かったわけです。
彼らは入隊後ハワイでは100大隊という「日系人だけの部隊」に配属され、彼らの働きを認めたアメリカ政府は後に442連隊というアメリカ全土から日系人を集めた部隊を作った。
彼らは「日系人がバカにされないように」と頑張ったわけで、主にヨーロッパ戦線に送られたけれど、それはそれは悲惨な目にあった。これは実は「黒人は冷遇される」という習慣が戦後にもアメリカ軍にあったようで、極論を言えば「弾除けに使われた」ようなこともあったという。
そういえば戦後、アメリカの日本駐留軍として渡ってきた叔父ですが、「自分の名前さえ書けない教育レベルが低い黒人もいた」と言っていた。
日系人の兵隊たちは頑張って、ヨーロッパ戦線で敵陣地の中で包囲されたアメリカ軍を決死の思いで救い出したり(救うべきアメリカ兵の数以上の死傷者が出たらしい)、かなり危険なことでも次々にやってのけた。だから当然、日系人部隊の戦死者もとんでもなく多く出たのだけれど、彼らの働きがあったから「日系人が同じアメリカ人として認められた」という事実がある。(でも当然、一般社会での差別は続く)
ちなみに100大隊も442連隊も、彼らが受勲した勲章の数は「いまだにアメリカの軍史上、最多の記録を持っている」という。彼らがどんな思いでどう戦ったのかはそれからも想像ができる。
だから私がハワイで会った日系人にもその部隊の生き残りがいたわけで、面白いのは彼らは「自分はアメリカ人だ」という思いが非常に強くて「日本語を知っていても話すことはない」様な人が多いのね。態度も日本人ぽくなくてアメリカ人ぽいから、他の一般的な日系人と違うのはすぐにわかった。
私から見ると「いわゆるアメリカで生まれ育った日本人だ」と思いがちだけれど、それは大間違いで「見た目が日本人なだけのアメリカ人」。
でも上に書いたように、「俺は日本人だという思いが強い日系人」もいたわけです。
そんな人達の昔話を聞くと、それぞれが大きく違った生き方をして、全く違う問題を抱え、それを乗り越えてきたのね。
そして叔父のように、戦後、自分の居場所がないアメリカから日本に渡ってきて、自分は日本人の中に溶け込もうとしたけれど、それも出来ず、叔父は「俺って誰?」という疑問を持ち続けていたものの、その答えを見つけることが出来なかった日系人もいる。
結局ですね、彼らの苦悩は「アイデンティティの問題」と言えると思うのね。
自分が日本人だろうとアメリカ人だろうと、「そういう自分であることを確信できる」って非常に重要で、叔父の苦悩が私には理解できるし、アメリカに住み続けている「帰米二世」の苦悩もわかる。
私がこのブログで、「海外に住み続けるなら永住権を取るべき」とか、「親はどうでも良い。子供のことを考えるべき」と書き続けるのはこういう「アイデンティティーの問題を軽視するべきではない」ってことでもあるのね。
日本人って「昔から海外に対する劣等感や憧れが強い」し、「国際人なんて言葉に酔いしれてしまう傾向がある」と私は思うのだけれど、そもそも「国際人」なんて世界のどこにもそんなカテゴリーはなくて、自分はそう信じたとしても「海外でそれは受け入れられない」のが普通じゃないですかね。多くの外国人はやっぱり「自分の出自、素性や母国に愛情とプライドを持っている」ケースが多いと思う。だから「奴隷として渡ってきた先祖も自分たちの出自もわからない黒人の苦悩も大きいし、簡単にアメリカを祖国、母国と考えられないのはすぐにわかる」んじゃなかろうか。またそれは「難民」も同じかもしれない。でも難民は難民で心のなかでは「自分はどこの誰であるのか」という強い自覚を持っているかもしれない。
だから日本人が海外に出て転々とするのは良いにしても、子どもたちには「自分は何人で、どこの誰であるのか」という強い認識をもたせることは重要だと私は考えます。
中には「全ての人が国際人だという認識を持つことが世界平和への道」だと信じる人もいるかもしれないけれど、親がそう思っても、子どもはどう思うかわからない。あるいは親が「日本人として育てる」ことをしても、子どもはそうは思わないかもしれない。
私は「心のなかに愛する故郷や祖国をしっかり持つ」ことは重要だと思っていて、当然、そこへ帰っても「問題なく生活できるという安心感」が何よりも重要だと思うのね。私の叔父のように「日本人になりきろう」と思っているのに、「日本人社会では外国人として扱われる」ってどれだけ精神的に打ちのめされたかは簡単に想像できる。アメリカでは「ジャップ」として蔑まわれ、厄介者の外国人と扱われていたわけですし。
海外在住で、もし子どもたちを日本人として育てるなら、「日本語の習得」「日本の文化伝統、習慣」にもそれなりの理解がないと「日本に帰っても外国人ツーリストと同じ」になってしまう。
要は、子どもは「その地の環境に染まる」のが普通で、例えばマレーシアに長く育てば、そこが子どもにとって故郷となるかもしれないし(私の息子達はゴールドコーストが故郷だという)、マレーシアを愛し、その地に住み続け、もしかしたら骨を埋めたいと思うかもしれない。
ところがその子どもにマレーシアの永住権がなかったらどうなるのか、それを親は真剣に考えるべきだと思うわけです。
子どもが住み続けたいと思うなら、必要なビザを自分で取れば良い、なんてのは親の責任放棄だと思う。もし学業ビザなり、就労ビザ、MM2Hを子どもが取ろうと、「好きなだけ住んでも良い」というビザではないし、生きていくための就労も自由にできない。何かあったときの社会保障もない。
これってとんでもないことなのは、もし私達日本人が「日本国籍を剥奪されたらどうなるか」を考えてみればすぐにわかることで、永住権がない子どもはそういう状態になるということでしかない。【帰る家がない】のと同じ。
また、フィリピンの永住権や他国の比較的簡単に取れる永住権を取ろうという話をたまに耳にしますが、私はそういう親って「何を考えているの?」と思うわけです。そりゃフィリピンや他の国に「住み続けたいという強い願望がある」のなら問題はないにしろ、「永住権が取れるのはそこだけだから、何かあったらそこで住めば?」みたいな考え方は、私には異常に思えます。
私も家族も難民生活みたいな生活をしていますが、「いつか帰りたいと思ったら帰れる国とその状態」を維持するし、息子たちが「オーストラリアで一生住みたい」と思えばそれが出来るようにするのは、親の思いつきで海外に一緒に連れ出された子どもたちに対する親の責任だと思います。そして日本が良ければ日本にも帰るように、日本国籍も維持するし、「日本人として日本で生活する」のに全く支障がない様に育てるべきだと思う。つまり叔父のように育ってしまうと、日本に帰っても同化できない。
海外に出ていちばん重要なのは実は「ビザ」で、長く住むなら「永住権が必須」であるという認識が必要だと私は考えてやってきました。そしてそれが重要だと思ったのは、やっぱり上に書いた叔父の苦悩を知っていたからであり、もし彼が「アメリカにも日本にも住み続ける権利がなかったらどうなるのか」を想像するだけで恐ろしいと思う。
また多くの帰国子女の辛さも何十年も前から見聞きしました。昔(50年以上前の話ね)は日本に帰ってきてからチヤホヤされる帰国子女が多かった時代でもあるけれど(洋行帰りという今は死後の言葉も普通に使われていた時代)、「自分の居場所がない」と感じていた帰国子女も多かった。でも「第二の故郷と思う国で住み続けるのにはビザの問題があって簡単には行かない」という現実があった。また学業ビザや就労ビザを取っても、その地で長く、そして自由に仕事を選び生活することは不可能なのだし、「社会保障を受ける権利がない」というのも大きな問題で、国籍や永住権がある国民やそれに準ずる人たちの為の「優遇策」もなく、「一生、外国からの訪問者扱い」となる。
そんなことは昔から皆がわかっていたことで、だからどの国へ行っても【今でも永住権を取ろうとする人たちがごっそりいる】ということ。「そのうち帰る」のなら永住権なんか必要ない。だから私達も【オーストラリアへ渡る前に永住権を確保して確実なものとした】わけです。永住権が事前に取れなかったら私達のオーストラリア行きはなかった。実際に永住権も取らずにオーストラリアに渡り、「結局、永住権は取れませんでした」と泣く泣く帰国する人たちの数はハンパじゃなくてそれが現実。
また海外在住者の中で「子どもは3ヶ国語話せる」と喜ぶ人もいますが、子どもが話すレベルの言葉の習得で良いのかはしっかり考えるべきで、「ツアーガイドになるのが人生目標」ならいざ知らず、大学での勉強や研究にも差し支えないレベルの言語が複数あるのか、また、日本での就職に有利だとしても、報告書や稟議書をちゃんと日本語で書けるのか、重要な会議や他社との交渉時に日本語で問題なくできるのかも重要。それは他国でも同じこと。
多言語を話す人が多いマレーシアで、「家でも学校でも英語に特化している」という中華系マレーシア人家族と何度か会ったことはあるし、また、まさかと思いましたが、私がスーパーに買い物に行った時、母子で黒装束でヒジャブを付けたマレー人が「母子の会話を流暢な日本語で話している」のに気が付き、「どうして日本語で話すのですか?どうしてそんなに日本語がうまいのですか?」と聞いたところ、「我が家は日本が大好きで、家でも日本語で生活しています。そしていつか日本で生活したい」、というのに驚いたことがあります。
私は言語とは「多くの言語を話すのが重要」とは全く思っていなくて、まずは「少なくとも1つの言語には読み書きを含めてほぼ完璧であることを最優先する必要性がある」、そして「言語とは文化そのもの」だからそれを深く知ることも重要と考えるタイプです。でも「多言語同時でそれを進めるのは不可能に近い」と思うし、でも「共通語としての英語」の習得ももちろん重要で、でもAIがとんでもなく進化している現代、そして近未来ではもしかしたら「多言語を扱えるアドバンテージ」は減ってくる可能性もある。
もちろん多言語を専門的な話も含めて流暢に扱えるスキルは素晴らしいと思うし、私は「雅子皇后陛下」は凄いと思っていますが、あそこまで凡人が出来るとは思えないし、まずは一つの言語だとしても「深い理解」が必要だし、その言語を使った様々な分野の深い知識を持つのがやっぱり大事じゃないかと。
そのことは昔から「帰国子女」を見ていて感じていたことでしたから、私達家族がオーストラリアに移住した時、子どもは3歳と1歳でしたが、いつか彼らにとって「日本語は外国語になる」のはわかっていましたし、「日本語が疎かになることが何よりも重大な問題」だと、家での英語使用は禁止しましたし、テレビも日本語の番組のみにしました。でも学校は現地校で、幼稚園から中学生まで息子たちは英語で苦労するという「留学生」みたいなものでしたが、それは時間が解決するのね。
ちなみに帰国子女もいろいろで、もちろん出来る人も多い中、英語が喋れるだけというのも多く、中には英語さえも問題ありという人もいるのね。私の友人の娘でオーストラリアで生まれ育ったのに「英語が下手でオーストラリア嫌い」なのもいたし(結局その子の為にその家族は日本に帰った)、また日本国籍を持っているのに「カタコトの日本語しか話せない」子も多かった。だから海外育ちが凄いわけでもないし、留学組も同じ。一般的には「憧れ」とか「勘違い」があると思っています。そして日本に帰ってきてからそれに気がついて頑張りだした若者もいた。これはこれで「下地は出来ている」から良いと思う。
私の友人の娘で非常に優秀な子がいて、日本語も英語も全く問題がなく、学業成績もトップクラス。その子は「通訳の勉強をしていて、通訳になる夢を持っていた」のだけれど、オーストラリアのトップクラスの大学を素晴らしい成績で卒業した後に日本で通訳の仕事を得ようとした時に「英語が駄目。日本語も駄目」とバッサリ切られたのね。やっぱり「プロの世界のレベルの高さを甘く見ていた」ということなんでしょう。彼女がその後どうなったのかは知らない。
海外育ちの一般的な問題点として、日本語は彼らにとって「外国語と同じになる」と考える必要があって、後で気がついてから日本語を学ぶのは決して簡単ではないし、その点、我が家はどうにかうまく行って、彼らが外国育ちであると気がつく日本人は皆無。もちろん、日本人、日本企業との仕事でも問題がない状態をうまくつくれました。これは偶然ではなくて「二十年計画を親がしっかり作ってそれに沿って育てないとかなり難しい」ことだと思います。
そして何よりも私が嬉しいのは、息子たちは「日本大好き」で「日本人としてのアイデンティティもプライドも持っている」こと(でもゴールドコーストが故郷だという)。だからこそ、彼らを世界に出しても私は安心なのね。「糸が切れた凧」の様にはならないと思うから。
そして「糸が切れるとどうなるか」というのが、上に書いた「日系人の苦悩」なわけです。また帰国子女の中にもそういう人は多いかもしれない。
自分のアイデンティティをどう持つのか、どう保つかと苦悩した日系人たちの人生を知るのも良いと思っています。中には「命さえも賭けてアメリカ人として生きる」ことを選んだ日系人も多い。これは「自分がアメリカ人としてのアイデンティティをしっかり持ち、それをアメリカ人に知らしめる必要がある」と望んだからでしょう。
アイデンティティを持つのって意外に難しいのかもしれませんね。「アメリカ兵として命を賭けた」のも「思いが揺れる自分の中のアイデンティをはっきりさせたかったのが理由」かもしれない。そのために「命さえも賭けた」というところは特筆すべきことだと思います。差別されるのも諦めて、あるいはそういう場から逃げながらどうにか生きることも可能だったんですから。
この辺も同じ海外住まいの日本人家庭でも考え方はいろいろで、我が家みたいに「差別には絶対に屈するな、立ち向かえ」と育てる家があるのと同じ様に、「うまく逃げろ、相手にするな」と教える家もあった。(1990年代のオーストラリアではまだ日本人差別は多かった)
実際に、かつては息子たちの学校でも差別はあって、それは前にブログにも書きましたが、私もそれを見つけると学校の教師に改善を求めたり(効果なし)、弁護士を通して学長に要望書を送ったり(効果なし)、息子たちが「オヤジ、そこまでやる?」と言っていたほど。でも中等部の盛大な修了式の真っ最中にもイジメに会い(それに参加した私達夫婦は全く気が付かなかった)、パーティー後に「死にたい」と涙を流していた長男にもそういう親の背中を見せることで彼らを勇気づけることも出来たし、今、親子間で強い絆と信頼関係があるのもそういうのを通して築かれたのだろうと思っています。
ちなみにそんな時代の息子たちのことをかなり前にブログに書いています。
1 オーストラリアの日本男児 (長男のケース) (ここをクリック)
2 オーストラリアの日本男児(その2)「次男坊が学校で問題を起こした・・・・」(ここをクリック)
子どもが差別されイジメにあって泣いている時に、「我慢しろ、相手にするな、逃げろ」という親を子どもはどう思うかを真剣に考えるべきだと思います。これは「危険回避」と考えたら絶対にうまくないと思う。
息子たちが青年になってからは差別のあしらい方もうまくなったし、酷い時にはきっちりそれに立ち向かう。その強さは彼らの流した涙の量と日本人としてのプライドの大きさに比例すると思っています。そして同時に「差別をしてはならない」という大事なことを学んだのだろうと思っています。これは私達が日本に住み続けていたらわからなかったことかもしれない。差別はしても差別されないのが日本ですから。また「差別は無知が原因」であることが多く、「差別がなければ良い」ということではないのね。差別がなくても「分断」があったら意味がなく、「理解し合うこと」が何よりも重要なのも彼らは理解したはず。
私は日本に生まれ日本で育ち、しっかりしたアイデンティティを持つに関しては何の問題を感じたこともありませんが、それは「実は簡単ではない」ことに若い頃に気がついてよかったと思っています。
また日本には日本で生まれ育ち、日本語しかわからない朝鮮半島系の人も多いわけで、彼らも同じ問題を抱えているはず。「日本人になることを選び切れず、しかし韓国に行けばバカにされる事もある」と聞く。そしてまた世界中に存在する「奴隷の子孫たち」も同じかもしれない。あるいは特にヨーロッパで問題になっている「難民や移民、その子どもたち」も同じかもしれなくて、「郷に入っては郷に従え」と考えがちだけれど、問題はそんな単純ではないかもしれないし、そしてその問題は「日本でも起こりつつある」んですよね。
叔父の事件もやっぱり「彼のアイデンティティに深く関係している」と私は思っていて、アメリカにいても日本にいても「自分の居場所がない」と感じ、【自分と同じ様な日系人が多かったハワイに住む】ことで彼は安らぎを感じることが出来たのかもしれないし、自分の最後が見えてきた時に「馴染めきれない日本で人生を終わらせることに抵抗したかった」のかもしれない。「歳を取ると故郷に帰りたいと思う気持ちが強くなる」のと似たような心境だったのだと思う。そして「その思いを抑えつけられない」のは【頭の劣化】と深い関係があるんじゃないかと。
そういえば私の友人でロサンジェルスに50年以上住んでいる女性がいるのだけれど、彼女の日本人の友人(女性)がボケて老人ホームに入ったそう。そして今では「その友人は日本語しかしゃべらなくなった」そう。その友人もアメリカに50年以上住んでいてご主人はアメリカ人。やっぱりそこにはボケだけじゃなくて「アイデンティティの問題」が潜んでいるような気がするわけです。
読者の方々がどう考えるか、どうするかは皆さんの勝手で、それに関してどうこう言うつもりはありません。
私は「こう思う」ということを書いているだけのこと。