日本刀が欲しい・・・ 私の包丁好きの原点は「刀」にある

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刀が欲しいです。

な~~んてまた馬鹿なことを言い出したと思うでしょうが、昔からやっぱり「男の子」として刀剣には興味がありました。でも大人になってからはその「興味を封印したきた」のね。刀剣なんて「ヤクザが持つもの」みたいな感覚があるし、私の時代は長らく「左派的な価値観に日本は支配されていた」から、「人殺しの道具に興味を持つのか」何て言われる時代。自衛隊員でさえも「人殺し」と言われることもあった時代。

でも刀剣って、そもそも製作から半端じゃない手間がかかっていて、平安時代から鎌倉、そして江戸時代になっても「国家最大の関心事」と言っても良いくらいで、世界史的にも「石器時代」の繁栄を覆したのが「青銅器を扱う人たち」であり、その栄華も「鉄器の出現」によって終わりを告げた。「強い武器を持つものが世界を牛耳る」のは歴史の根源で、古い武器を持つ者たちは征服され淘汰され、それは「鋼」へと続き、「鉄砲」「大砲」の時代から「ミサイル」「原子爆弾」と続いてきた。

殺傷能力云々というより、戦いに明け暮れる歴史の中で、どんな思いを当時の人達が「刀剣」に持っていたかというのは私にはひしひしと伝わってくるのね。

「国家の威信」なんて言う前に、たった一人の武士がどれほどの思いを自分の「刀」に持って、大事にしてきたのか。まさに「武士の命」であり、自分がなぜ生まれ、生きて、そして死んでいくのか、何が自分にとって、一族にとって、国家にとって大事なのかの「全て」の思いが刀剣に詰まっていると思うんです。

刀というより「短刀、懐剣(かいけん)」を女性は持っていて、「嫁ぐときに持たせる」なんて風習も過去にはあった。それは「身を守る武器」であったのと同時に、「ある瞬間」には「自らの命を断つ道具」でもあったはずで、刀剣は決して男のものだけではなくて、女性の生き様の中でも重要なものであったのは歴史を見るとすぐに分かる。でもそれは「潔さ」「覚悟」だけではなくて「悲しみの象徴」でもあったはずで、様々なものが「一つの刀剣の中に詰まっている」し、そして現存で、市場に出回っているそれぞれの小さな刀にも数百年の存在を続けた歴史があるのが凄いと思う。

かつては砂の中から「砂鉄」を集め、そこから「たたら」という日本の伝統技術を使い「玉鋼(タマハガネ)」を作り、それを精錬して刀剣を作り、それを研ぐ人、鞘や装飾品をつくる人、それぞれが分業で、刀剣の販売から手入れのプロ、そして「持ち主」だけでなくて何百年もそれを大事に保管して後世に残してきた人たち。たった一本の刀剣にどれだけの人たちが関わり、とんでもない時間を費やして製作し、それを大事に保持し、後世に伝えてきたかを考えると気が遠くなるほどの苦労、涙、笑い、そしてプライドがそこにあるのか。その一本の刀がどれほどの「歴史の多くを見てきたのか」を考えると、まさに「歴史の証人」みたいな感じもする。

ま、「ロマンの固まり」と言われるけれど、まさにその通りだと思う。

私自身は現代の片隅の凡人として生きてきただけだけど、それだけに「歴史を生き抜いて、多くの人の思いを込めたまま存在する一振りの刀」に畏敬の念さえ感じます。

また私はやっぱり「昔の武士の生き様」が好きで、自分もそうでありたいという願望があるから刀に興味があるのだろうと思う。

そして多くの刀は消えていってしまったけれど、それでもとんでもない数の刀剣が現存していて、平安時代から鎌倉時代のものも数多くあるのね。そんなとんでもない年数を生きてきた刀剣を、私は一本で良いから持ちたいと思う。ただ生きてきただけの自分とは違う古い日本人の思いが詰まった刀を所持し、私も同じ日本人なんだという思いを共有したい。

また刀剣と言うと「武器」と考えがちだけれど、残存する多くの刀剣は「生き様の象徴」「家宝」として大事に保管されていたものが多く、戦闘に使ったような刀剣は美術的価値も低く、意外に残っていないのね。

そして一本一本に「特徴がある」のが普通で、製作の時点からどれほどの「思い」が注ぎ込まれてきたのかがわかるのが凄い。まさに「日本の職人の集大成」みたいなもので、今の時代の「大量生産、大量消費の物品」とはまるで違う。

そういう意味では「茶器」も一つ一つに歴史が詰まっていて面白いとは思うものの、やっぱり「刀剣」にはその時代に命を賭けてきた日本人の本気度と魂を私は感じるんですよ。

工芸品としての価値も素晴らしいものがたくさんあって、なんで今回、こんなことを書こうかと思ったのかと言うと、「ある一振りの刀」にとんでもない興味を持ったから。

それはきっと2百年も前のある日本人が「旅行好き」だったのでしょう。あの300年以上前の「松尾芭蕉の奥の細道」に関係した「刀」を注文製作させたのね。そして彼自身もきっと松尾芭蕉と同じルートを周り、行く先々で得た「感動」をその刀剣の中に埋め込んだ。

そもそも松尾芭蕉の奥の細道に興味がなければ、その刀剣にも興味がわかないわけだけれど、私は「松尾芭蕉がどんな思いで各地を回ったのか」「行く先々で何を感じ、感動したのか」が面白いと思っていて、奥の細道は単なる「旅行記ではない」し、松尾芭蕉は「歴史を知っていた」からこそ、行く先々で感動を覚えたのだろうし、それを「俳句」という形で残した。

どこへ行って何を見て、何をしたのかのが旅行記だとは私は思っていなくて、「何に感動したのか」の【共有】をするのが旅行記だと思うんですよ。そして松尾芭蕉が何に感動したのかを現代でも同じ様に感じ、共有できるのは凄いし、今回は「松尾芭蕉のあとの時代の人」がまさに今の私達が松尾芭蕉に興味を持つように感動したのを知れることに、なんとも言えない面白みを感じたのね。

そして松尾芭蕉、その足跡をたどり自らも感動し、その思いを「一つの刀剣の中に埋め込んだ人」がいて、それを現代の私達が「感動を共有できる」って、凄いことだと思ったんですよ。松尾芭蕉から現代まで一本の道がつながっていて、「時空を超えた日本人としての共感」がそこにあると思ったのね。

そんな昔の人が、「感動を一振りの刀の中に埋め込む」なんて【粋なこと】をして、それの工芸品としての価値も凄いけれど、それを作ろうと思ったその人の思い、そして実際にそれを刀という形にした技術者集団、そしてその一振りの刀を現代までも大事に守り続けてきた人たちって凄いと思う。

それだけでも私は感動してしまうわけで、今の「大量生産、大量消費時代」にはありえないこと。

私が松尾芭蕉が好きなことをブログに書いたこともないし、私は俳句に興味があるわけでもなく、でも一人のジジーが日本を歩き、行く先々で感動し、それを残していることに興味があるのね。

そしてその松尾芭蕉に興味を持ち、自らも同じルートで歩いたであろう昔の日本人が、その感動を「刀に残そうとした」ことにも感動を覚える。

この刀は芸術品どころじゃないと思った。こんな刀が実在するのかと驚いた。

現存する刀には「それぞれ歴史がある」わけで、私はそういう「古刀」が欲しいと思う。だから明治以降に作られた刀には興味がない。そういう刀を持ちたいのは「武器を持つ」のでもないし、「所有欲」でもなくて、「歴史が刻まれた大事なものを守ることに参加したい」という感じでしょうか。そしてその「歴史がその刀のなかで生きている」と私は思うし、その刀を手に持ち、眺めることで、自分もその歴史の中に入っていく様な感覚がなんとも言えないと思う。

当時の刀の持ち主としては「名も無い武士」だったり、製作者もわからない「無銘」のものも多いけれど、「誰が作って、誰が持っていたのか」がはっきりしている刀も多く、それが現存していることに驚きを感じます。

そしてそういう「素性」がわかる刀って何千万円もしそうな気がするけれど、私は非常に安いと思うのね。ブームじゃないからかもしれないけれど、500~800年前の素性のわかっている刀剣でも、今の自動車より安く売買されているものもある。それこそ有名な武将の言い伝えもあるような刀は高いし、そういうのは国宝、重要文化財級で、市場に出れば数千万円~数億円するのは当たり前にしても、ちょっと調べれば歴史書に名が出てくるような武将が愛用していた刀でも市場に流通していて、とんでもなく高いなんてこともないのが不思議に思うくらい。

私が包丁好きなのは、その大本に「刀剣好き」があるからだろうと思う。

和包丁も日本刀も「日本が世界に誇る技術の固まり」で、それが出来るまでの歴史、そしてそれを作る人達の思い、技術って半端じゃなく凄いと思う。

だからその包丁で料理をするとか実用性がどうのと言う前に、「和包丁を保持して、それを見ているだけ」で私は満足するぐらい。

自分が日本人だというルーツと、和包丁とつながるものがあるし、それを手に持つだけで感じるからだろうと思う。

鎌倉時代の刀が欲しい・・・・。

 

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