ブログを書くのに「AI」を使うべきか

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最近、ちょっと悩むことがあるんですよ。

個人的に「AIを使う」事が増えていて、本当に便利だと思うし、もうすでに「AIがないと困る」様になってきている。

そして「長文の要約」にもかなり使えるのね。これは「時短」という意味で間違いなく有効。

そこでフト思うわけです。

いつも長文の自分のブログにもAIを使って「要点をまとめる」「短くする」ことが可能だと。

特に最近はやっぱり「脳の衰え」を感じるし、自分でも「これ、長すぎるだろう」と思う日記を読み返すと「やっぱり変だ」と思うことがある。(笑)

そういう時に、AIを使って要約してみるんですよ。これも要約の度合いを変更できるから30%、50%、70%、あるいは20行でまとめることも可能。

これはそれぞれ良さがあって、使うべきなんだろうなと思うこともある。

でも「重大な問題がある」のもわかるのね。それは「これは私の文章じゃない」のがはっきりわかること。

それは他人の文章を読んでも感じることで、「個性がない」のね。まるで論文みたいな、報告書みたいな、そこに「その個人を感じない」んですよ。

それはそれで良い部分もあって、「情報提供」だとすれば【要点だけでOK】のことが多いし、余計な細々としたことは飛ばしたいと私も思う。

どうするべきか。

正直なところ、今までに「ダボさんの文章は長過ぎる」と言われたことは何度もあるんですよ。そういうときには「すいません」といつも謝るんですが、心のなかでは「結論だけを書いたら、この人は理解できるんだろうか」と思う。

いやいや、そもそも「理解したいとは思っていない」のかとも思う。ただただ「私が思う結論を知りたいだけ」なのだろうと。

いわゆる「推理小説」で、「要は犯人は誰なの?」とそこだけに興味がある、みたいな。

でもねぇ、私は「結論以上に、そこに至った過程が重要」「周辺の細々とした情報も重要」だと考えるタイプで、それの違いで自分が想像する犯人も違うはずなのね。

だから私の文章は長くなるし、同じことを繰り返して書くのも「そこが重要で外せない」と思うから。また私自身も「他人の考え」の要点だけを知りたいのではなくて「どうしてそう考えるに至ったのか」を知りたいし、それがわからないとその人を理解することはできないと思うから。でも「理解しようとも思わない人」には途中の経過なんて興味もないんでしょう。

でもそれはそれで、「重点はどこにあるか」をAIに伝えて、全体をまとめることも可能なのね。

それなら「AIを使うべき」とも思うわけです。

でもその文章は「私の文章じゃない」のがすぐわかる。

これってかなりうまくないことだというのは「小泉進次郎」を見ていても良く思うことなんですよ。

彼は「メモを見ながら喋る」事が多いし、「演説もうまい」けれど、【その場で考えるしか無い対談とか質疑応答だとおかしなことを言う】し、私はその変な受け答えをするのが「本物の進次郎自身」なんだろうと思うわけ。

ブログにしても「良い文章を書く人だ」と読者に思って欲しいのは本音だけれど、「会って話してみたらまるで別人だった」みたいなことは起きて欲しくないし、それは他人に対してもそう思う。

私が望んでいるのは「仕事を離れて、一緒に飲み屋に行って雑談をする」ようなブログにしたいんですよ。ダラダラと話を続けるうちに「お互いの理解が深まる」じゃないですか。だから「仕事相手と飲むのも重要」と昔から言われるのはそういう理由があるからだと思う。

でも一緒に話すときには「相手の反応を見ながらお互いに話す」わけで、それがブログでは出来ないのね。どうしても一方通行の話にしかならない。でも私は「読者が話の途中途中でどう思うか」を想像しながら「それに答える」みたいな【想定】もしながら書くんですよ。でも「読み手が感じることは千差万別」であって、全てを想定することなんか出来ないし、それをする必要もない。でも「一般的にはこう思うんだろうな」というのは「自分の過去」を考えれば想像できるので、そこの点は書くべきだなんて思ったり。

な~~んて考えているとどんどん文章が長くなる。(笑)

でも「それが私の個性」だと割り切るのもよいんじゃないかと最近、思っています。頭がボケ出しているのを私の文章からしっかり感じ取る読者もいるだろうし、それも事実なんだから隠すべきじゃないのかも知れない。

またフト思うこともあって、「私が思う結論は書かない」の良いかも知れないと。推理小説だとすれば「長々と状況を書き綴る」ようにして、最後は「さて、犯人は誰でしょう」で終わる、みたいな。(笑)

それはそれで良いと思っていて、私がブログで何をしたいのかというと、「読者に揺さぶりをかけたい」からと言っても良くて、「常識を壊す。乗り越える」「読者が想定する範囲を広げる」とか、そこにいつも重点をおいているし、情報提供じゃないのはいつも断りとして書いている。ま、それと「自分が生きてきた道のり、変化を書き留めておきたい」と思う。

これからはAIもどんどん進展して、ブラウザそのものにAIが組み込まれて「要約も簡単にできる」時代に入った。つまりそれは「書き手ではなくて読み手に主導権が移る」ことを意味しているし、以前、私に「AIで要約させてから公開したら?」なんて嫌味をコメントでもらいましたが、「貴方がAIを使って要約すれば?」とこれからはリプライしようかと思う。(笑)

昔は「ブログ、掲示板で知り合って、会う」なんてことを良くしていましたし、掲示板やブログは「出会いの場」でしかありませんでした。でも今は「会うこともないのが普通」になったと思うし、「ブログから想像する人と本人は全く違う」なんてのも問題にはならないんでしょうね。

でもこれはかなりヤバいと思うことも実はあって、我が家では「渉外は息子に任せる」様になってきましたが、彼が相手とメールやWhatsappでやり取りする時に、私は一応その内容を送る前に見せてもらうのだけれど、彼はChat GPTを使うようになったのね。だから息子がやり取りする文章は英語でも日本語でも「ほぼ完璧」と思うような文章なんですよ。それは重要なことでそれはそれで良いとは思うのだけれど、「会って話したら、日本語も英語も怪しい、中身が良く見えない変な外国育ち」なのが一発でバレるかもしれない。(笑)

こういうことってこれからは広がりそうですよね。

ネットを介して話をしているときと、会ったときと「まるで違う人だった」なんてね。話の内容も論理的に破綻していて、相手は「自分が今までやり取りをしていた相手はAIだったのか」と気づくとか。(笑)

まさに「小泉進次郎」に感じるようなことが普通になる時代は来るのかも知れない。

それじゃうまくないから、飲み屋で雑談しながらも、スマホでChat GPTを立ち上げて、会話はすべてAIからの指示を見ながら、なんてね。

でもそれだからこそ、「素の状態での対談、討論が重視される時代」が来るんじゃなかろうか。

それは「企業内」「会議」「商談」も同じで、【対人で話すことが今まで以上に重要になる】かもね。

その時、AIオタクは真っ青になるかもだ。

それも面白い将来だと思う。

ということで、私のブログは(内容にもよるけれど)【AIを使わない】ようにしようと思う。

ジジーの私がこれから「どういう風に壊れていくか」を実録として残すのも良いと思う。(^_^)v

いつもご迷惑をおかけしております。 m(_ _)m

 
 
 
 

 

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