断捨離をしろと家族も言うけれど・・・ 断捨離という言葉はあまり好きじゃない

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世の中が断捨離ブームなのはよ~くわかるのですが、どうも何か「断捨離」という言葉に引っかかるんですよ。

「断」「捨」「離」の意味

断(だん): 不要なものが、入ってくるのを「断つ」。
捨(しゃ): 今ある不要なものを「捨てる」。
離(り):  物への執着から「離れる」。

そもそも断捨離って

◯ 沖正弘が提唱したヨーガの思想。1976年の著書『ヨガの考え方と修業法 上巻』において「断捨離」という語が使用されている。
◯ 作家のやましたひでこが提唱し、商標登録(商標出願2003-099799他)している、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想。

ヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」に着想を得た言葉で、それ自体は立派な思想だし、そういう修行が大事なのもわかる。

でもそれを普通の人の普通の生活の中に取り入れて「有り難い教えを皆で守りましょう」みたいなことは「勝手にやってくれ」と私は思う。

断捨離は善で、断捨離が出来ない人は駄目な人みたいな決めつけがあるように感じる。

「親孝行をしましょう」「他人に迷惑をかけるのはやめましょう」「功徳を積みましょう」「私達と一緒に修行しませんか?」みたいなものをどうしても感じてしまう。

「マレーシアに感謝しましょう」というのも同じで、私もマレーシアとの出会いがあって、今現在、住んでいて、マレーシアには感謝はしているけれど、他人に「感謝しましょう」とは言わないし、思わないし、自分が好きにすれば良いことじゃないですか。でもそれを言う人って常に一定数いて、「勝手にすれば?」「私に言わないで欲しい」と思う。

「断捨離」は素晴らしいというより「軽いなぁ・・」と私は感じてしまう。そう思う私は性格が悪いんでしょうね~~。

◯ 不要なものは買うな
◯ 不要なものは捨てろ
◯ 何でも買いたがるな

という「普通の言葉」を使えば十分その考え方は伝わるし、なんだか「断捨離」という言葉をわざわざ持ち出して、「全ての人がそれに従うべき崇高な思想、行動」みたいな、【私も高次の自分になるように努力します】みたいな、そういうのをあえて醸し出そうとしているように感じてしまう。

「質素倹約」、「足るを知れ」というのも同じで、言わんとすることはわかるけれど、本当にそれが世の中にためになるのか、自分や家族のためになるのかは疑問。

でも本音は「不景気の中でどう生き抜くか」を考えた末に【断捨離】にたどり着いた人は多いはずで、でもそれを実行したら「自分は解放された」「高次の自分に気がついた」と思う人もいるんでしょう。それはそれで素晴らしいし、そういう生き方をそのまま実践すれば良いと思う。

でもそれをいちいち口にだすことが私はひっかかるわけです。私だって口には出さないだけで、自分の中に大事にしたいことはあって、それを守っているけれど、「それが良いことだ」なんていちいち言わないし、なんだか「断捨離」と聞いただけで「仏様の教えに忠実である自分に自己陶酔している」ような、そんな感じを受けるのね。「貴方もこの宗教に入りませんか?」みたいな。

SDG’sのバッチを胸につけている人みたいな、安っぽささえ私は感じてしまう。

もし、このことを突き詰めるとするなら

◯ 不要なものさえ皆が買うから世界経済は回っているし、不要かどうかの判断は人それぞれなわけで、「不要なものと断定できるものは世の中に存在しない」と私は考えるし、でも他人がどう思おうとどうしようとその人の勝手。

◯ 不要なものを捨てるなんてとんでもない話で、どんなものにも「存在価値はある」と思うし、「いらないものは捨てちまえ」というのは恐ろしい考え方だと思う。私は私が精魂込めて作ったものを「不要だ」「捨ててしまえ」なんて絶対に思われたくないし。

◯ 何でも欲しいものが手に入るようにするのが資本主義社会で、「必要なものだけ買う」となったら、世界経済は数分の1に縮小してしまうでしょう。なおかつ「欲しいものをどうにか手に入れたい」という欲求が【やる気を起こさせるきっかけ】になるし、それは安っぽい考え方かもしれないけれど、ヨメさんに新しい服やブランド物を買ってやろう、子供に良い教育を受けさせてやろう、新しいゲーム機を買ってやろうというのも同じで、たまにはみんなで寿司を食べに行こうとか、そんな小さなことの積み重ねで幸せを感じるのが人間だと私は思う。【必要最低限のものを持ち、食べて、生きていく】のが本当に幸せなのだろうか。

断捨離という言葉から、財産も一切持たず、質素な僧侶の格好をして、毎日、托鉢に出るのが「あるべき姿だ」みたいな【押し付け、同調圧力】を私は感じてしまうんですよ。あるいは手に入れたくても手に入らないものばかりだった原始時代みたいな生活が良いのかと思う。これを良しとしたら、人類の進化は止まるんじゃない?

かつて人類は貧しくて食べるものも十分にない時代を長い間生きてきて「手に入らないものでも執拗に追いかけ続ける」「他人の物を奪ってでも手に入れる」様な生き方をする「混乱の時代」が何万年も何千年、何百年も続いてきたと思うんですよ。だから「そういう生き方をしないほうが良いんじゃないか」という考え方が出てくるのは必然だけれど、努力の末、「手に入れられるもの」も増えてきて、確かに行き過ぎもあるとは思うけれど、「不要なもの」とは【個人の感覚】でしかなくて、皆が「より良い未来を追いかけている」わけで、【不要なものは買うな】【不要なものは捨てろ】というのも「生活の知恵」としてはわかるけれど、【それが良い】とは私にはどうしても思えない。

でもみなさんが個人的にどう思い、どうしようがそれは皆さんの勝手で、私はそれに対して何も言わない。ただ「私は断捨離という善行をしています」と言いたげな人には違和感を感じるし、私にそれを勧められたくはないだけのこと。

こんなことを思う私って、やっぱりおかしい? (笑)

 

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