なぜ私は「若い頃から日本脱出」を考えたのか。一体、誰のために?何のために?うまく行った功労者は?

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私は10代の頃から「日本を脱出しないとならない」と考えていました。

その理由は「日本は息が詰まるほど生きづらい」というのもありましたが、【日本で稼ぐのは難しい】【税金が異常に高い】と思っていたから。

「税金が気になるほど稼いだのか?」と言われるとそんなことはないわけですが(笑)、幼い頃から「ただこじんまり生きるためだけにガムシャラに働いて稼ぐ人生」には疑問を持っていたし、親族や友人知人を見ても「がっぽり稼いで悠々自適」なんてのもいましたが、「そういう瞬間もある」程度で、「良いことは長く続かない」のが世の中の真理だと思っていたし、でも「だから自分は貧乏でもしょうがない」なんてことは絶対に受け入れようとは考えなかったし、「世界」を見ると「働き方、収入、生活環境が格段に良い人達」はごっそりいたのね。だから「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」とは思っていた。

ま、そんなこんなで「余裕がある豊かな生活をしたい」と子供の頃からそうなることを夢見て頑張るわけだけれど、まず「誰しもが起業して頑張れる環境」が日本には無かったし、「日本の税制」って今以上に酷かったんですよ。なんぜ「所得税+住民税の最高税率」ですが、私の若いときには【80%を超えた】んですよ。嘘みたいでしょ。もちろん「累進課税」ですし税率は高くてもなかなかそのレベルには達しないのは事実だけれど、「夢がない」「やる気が削がれる」のは間違いがない。

昔、あの美川憲一がテレビの対談で「あんたさぁ、頑張って1億稼いでも8000万も税金で取られるって馬鹿らしいと思わない?絶対おかしいわよねぇ」と言っていたのを思い出す。(笑)

今は過去に比べれば「税率は下がった」けれど、「消費税が導入されている」わけで、「支出の割合が多ければ、所得税にその消費税分の10%が乗っている」のと同じ事。

だから「頑張って稼ぐ」のと同時に【使わないようにしないと貯まらない】【税率も考えて有利な投資で資産を増やす必要がある】わけだけれど、そうやって頑張っても【相続時はごっそり持っていかれる】のは「罰金と同じ」だと思っていました。相続税も過去にはとんでもなく高かったのをみなさん、ご存知だろうか。

これも「やる気を削ぐ」には十分で、稼ぐどころか「どうやって【家】を存続させて子孫に繋げるか」という大問題が一生ついてまわる。

でもこれらの問題って「居住地を変えれば解決」してしまうのね。オーストラリアもマレーシアも「相続・贈与税が存在しない」し、マレーシアでは「我が家の収入に所得税も掛からない」。また「起業しやすさ、稼ぎやすい環境」も、「賃金も収入レベルまるで違う」わけで、「田舎の寒村と都会の違い」みたいなのが「国の違い」として存在する。ま、それは今でも同じだけど。

ただ「居住地を変えても同じ様に稼げるのか」という点は大いに問題があるわけで、多くのケースでは「それは無理」となるはずですが、それは「自分に柔軟性と適応能力があればどうにかなる」ことでもあると思うし、「居住地が変わっても同じ様に稼げる仕事は無いのか」というのを私は常に考えて来ました。

私は幼い頃から「アメリカ人の豊かさ」を見てきたし、やっぱり大学生時代に「アメリカを見て回った」のは大きな転換点で、50年以上前のアメリカって「皆が大金持ち」で「こんな生き方があるのか?」と思ったんですよ。当時の日本って「高度成長時代が始まった頃」で、皆が等しく貧しくて、東京では「持ち家、自家用車」なんてまだまだ一般的ではなかった時代。

ま、叔父がシアトル生まれの日系二世で「戦後、進駐軍として日本に来ていて、その後、叔母と結婚して日本に住みだした」関係もあって、私は幼い頃から叔父に連れられて「日本在住のアメリカ人の豊かさ」は良く見ていた。また親類が結構アメリカに住んでいて、彼らの「収入、生活レベルも日本とは段違い」だった。「普通に生活しているのに豊か」ってなんなんだ?といつも思っていましたっけ。

忘れられないのが「ワシントンハイツ」という「アメリカの軍人用住宅地」に良く行ったこと。もう60年以上前の話ですが、「そういう閉鎖的なアメリカ軍人の居住地」が東京のどまん中にあったのね。今の原宿というか代々木というか、「代々木公園」「国立代々木競技場」の辺りね。約800戸の住宅があってかなり広大な場所だった。

そこに建っている家って「まさにアメリカそのもの」で200~300坪ぐらいの綺麗な芝生の敷地に「平屋の一軒家」が建っていて、どの家にも大きなアメ車が止めてあって大きな犬を飼っていた。家の中に入るとまさにアメリカで、見たこともない大きな冷蔵庫や洗濯機があったり、「洋式トイレ」を見たのも生まれて初めて。そして「庭でBBQパーティ」なんてやるわけですよ。蛇口をひねると「お湯もでる」のには驚いたっけ。

まさに、テレビで見た「名犬ラッシー」の世界が東京のどまん中にあって、こんな家がズラ~~っと並んでいるのを日本で見たのも生まれて初めてだった。

でもま、「日本は貧乏、アメリカは金持ち」なんてのは【当時の日本ではアタリマエのこと】でしかなくて、「アメリカって凄いなぁ」とは思ったけれど、「日本人の生活とのギャップが埋まる、埋めよう」なんてことは全く考えなかった。

でも21歳の時にアメリカを見て歩いた時には本当に驚いた。

まず忘れられないのが「サンフランシスコ」に飛行機で行った時に、地上にキラキラ光るものがあちこちにあるのが見えるんですよ。「なんだろう?」と思ってCA(当時はスチュワーデスと呼んだ)に聞いたら「プールです」という。

「えええええええ~~~~~」、「個人の家にプールがある」なんて考えたことも無かった青年だったけれど、アメリカには「プールが自宅にある家がごっそりある」なんて嘘だろと思いましたよ。

またロサンジェルス近郊をウロウロしていると、あちこちで「石油を掘ってる」のね。それまでの私のイメージでは「石油って人里離れた山奥とか砂漠で掘るもの」と思っていたのに、住宅地や道路の横に「油井が点在している」のは本当にびっくりで、「日本はこんな国と戦争をしたのか。馬鹿だ」と思いましたっけ。1970年代初頭の話ね。

ニューヨークに行けば「大金持ちの街」なのがすぐにわかるし、「日本との乖離」を考えると目眩がするほど。

またシアトルの親戚の家に結構長居をしたのですが、「ワシントン湖」に連れて行ってもらったときも驚いた。なんぜ、「湖畔に家が建っていて、どの家にも桟橋があって、大きなボートやヨットが係留されている」んですから。世の中に「ウォーターフロント」と呼ばれる家があるのを知ったのもこの時。

そしてワシントン湖には「運河」があって、「外海とつながっている」のね。

そこにも行きましたが、眼の前に「かなり大型のヨット」があって、「運河の水位が変わるのを待っていた」のだけれど、4人家族なのもわかって、旦那さんと子どもたちはヨットが岸壁にぶつからないように動き回っていて、奥さんはデッキで日向ぼっこ。

彼らに大声て聞いてみたんですよ「どこへ行く予定ですか?」と。すると答えは「バケーションでバハ・カリフォルニアに行く」のですと。

これも驚きで、シアトルからバハカリフォルニアって、アメリカ西海岸を縦に往復するわけで、半端じゃない距離。そして「どうしてそんな長いバケーションを取れるのか」が何よりも不思議でした。当時の日本では「休みで旅行に行く」のも「せいぜい2泊3日」ぐらいなもので、「1週間以上、ましてや1か月を超える休暇」なんて想像したことも聞いたこともなかった。

そして運河を見ていると、「ワシントン湖」のあちこちから船が集まってくるのと同時に、同じ様に多くの船が運河から自分の家に帰っていく様子がわかる。

それをぼんやりと見ていましたが、このときの「衝撃」が私の将来を変えたと言っても良いと思う。

なんで「同じ人間」なのにこれほどの「豊かさ、生活の余裕に違いがあるのか」って。そしてどれほど自分が日本で頑張っても彼らの足元にも及ばないであろうことを確信出来ちゃったのね。まさに「ジャングルで苦労しながら生きる未開人が大都会に来て驚いているのと同じ」でした。

それからは「私の目標」は【どうにかああいう豊かな生活レベルに達すること】に変わったわけです。でもそれは【絶体に口に出さない】でいました。【バカだ】と言われるのはわかりきっていたから。当時の日本って本当に皆が「ウサギ小屋」に住んでいて(我が家も同じ)、日本で言われていた「そこそこの生活」ってアメリカで言う「最下層に近い」と思ったくらい。それはもっと幼い頃に(上に書いた)「ワシントンハイツ」で【アメリカ人の生活】を見た時にも感じたこと。

これは「グアム」でさえ感じたことで、「グアムなんて小さななんてことのない南洋の島」と思うだろうけれど、私が18歳の時に初めてグアムに行った頃はまだ「信号機が島に一つしか無い」ような開発も進んでいない島だったけれど、私の一番親しいローカルのグアメニアンは38歳で遊んで暮らしていたんですよ。奥さんも子供(4人)もいるのに「なんで?どうしてそんな事が可能?」と聞いたら、高校を18歳で卒業し、公務員となって18年勤めると「年金」が出て、37歳で引退したと。

また私の日本での仕事がうまく行かず、「グアムで毎日釣りをしてのんびりしていたこと」もあるのだけれど、「仕事が必要なら探してやろうか?」と言われて探してきてくれたのが「ヒルトンホテルのフロントの仕事」で、月給換算で15万円。土日や深夜の仕事を増やせば30万円ぐらいにはなると。当時の日本では、私の年齢だと「月給が5,6万円」でしかない時代の話。

それでいて「グアムの物価は高いか」というとそんなこともなくて、皆が普通に働いて、普通に余裕を持って暮らしているように見えた。

こんな日本との違いがあったわけで、私が「どうにかグアムに住もう」と思って「後にグアムで起業した」のもわかると思う。

でもその時、そのホテルの仕事の話には乗らず(まずビザが簡単には取れない)、やっぱり日本で勝負して「半端じゃなく頑張らなくちゃ」と思ったものの、現実はかな~~り厳しいわけで、「自分の目標を維持する」事は【結果的に自分の不幸の原因になる】と思うようにもなってきた。「出来もしないことにいつまでも拘る」のは【愚か者である】のも間違いないと思ったし。

だから「決して夢は忘れること無く、でもあまり考えない」ような生活をしながら(笑)、結婚もして子供も生まれる様に年月は過ぎて行った。

でも「ある日ある時」【日本を脱出しよう】と決めたわけです。

これは子どもたちの将来を一番に考えての行動だけれど、「人を作る、稼ぐのも環境」だと思うようになっていたし、1980年~1990年初頭のオーストラリアって「(日本に比べると)皆が貧しくて低所得者が多かった」のね。でも生活そのものは「日本じゃ信じられないぐらい豊かだった」わけで、「オーストラリア人は一生懸命働かない(特にゴールドコースト)」のもわかっていたし、そして「セーフティーネットが半端じゃなく良い国」で、「一生働かずに生活している人達」も存在するのがわかっていたし、【私でもどうにかなるんじゃないか】と思ったわけです。

ゴールドコーストではすぐに起業して「電話関係、日本の中古車の輸入」を始めましたが、そして物価もメチャ安かったゴールドコーストでは「日本では絶対に手に入れることはできない生活レベル」を手に入れることもできた。

1980年代、1990年代のオーストラリアの「生活のコスパの良さ」って今、思い出すと「異常」だと思う。特にゴールドコーストは「田舎」だし、せかせかしていないのね。皆がのんびり生活しているけれど、物価は激安だし、仕事の競合なんていないも同じで、本当に古き良き時代だった。【頑張ればどうにかなる】というアタリマエのことを実感できた時代。

我が家の3階にあるメインベッドルームからの眺め。家の裏庭は「大きな川(ネラングリバー)に面している」結構大きなプール、サウナ、トレーニングルーム、AVルームがあるウォーターフロントで、毎日、自宅の桟橋から大好きな釣りやカニを捕る生活は満喫できたし、やっぱり昔から大好きなBBQや燻製もやり放題で、「オーストラリアでは手に入らない日本の野菜類の水耕栽培工場(土は使わず光は人工光のみ)」を作ったり、個人の自由や個性を尊ぶオーストラリアで私も羽を伸ばして生きられたし、仕事もそこそこできたし、子どもたちも伸び伸びと育つことが出来た。

25年間のゴールドコースト時代が我が家にとっては最高の年月だったと思う。ダボ家の始まりは「ヨメさんと私と二人で住んだ20数平米のワンルームマンション(シングルベッドが一つ)」からなのを思い出すと感慨深いものがあります。

でもそんなオーストラリアも2000年のシドニーオリンピック頃からどんどん変わって、「物価の上昇は異常」で、なおかつ「税金が高い」こともあって、「生きることは可能」だとしても「より大きくなるのは難しい」と思うようになったのね。子どもたちもメルボルンやシドニーの大学、大学院に通うようになって、ゴールドコーストで夫婦二人で毎日どうすんの?という日々。

これじゃだめだ。もっと夢を追いたいと思うようになって、オーストラリアの資産は全て整理して、「マレーシアに居を移した」というのが我が家の歴史。マレーシアに移ろうと決めたのは2008年。ところがリーマン・ショックの直撃を受けて動くに動けず、最悪時には資産は4分の1に激減してしまったし、結局、MM2Hビザは取ったもののマレーシアに渡ったのは2016年。

マレーシアの「我が家の収入には所得税が掛からない」のはかなりのインパクトがあって、数年前に「人生初の大損」もあったけれど、まぁ順調といえば順調で、もう少し頑張って次のレベルに登りたいと思う。そして家族、一族が「他人や企業、政府や自治体に頼ること無く、来年の今日はどこで何をしているのか自分で決められる生活をして欲しかったし、自分の夢を大事にしてそれに向かって【自分の足】で進めるような環境」をどうにかして確立したい。それには「収入」が重要だけれど、「資産を多く残したい」というのじゃなくて、所詮「金は天下の周りもの」だと思うし、「いつでもどこでも十分に稼ぐにはどうする」「大失敗しても再起する」【ノウハウ】を絶対に残そうと思う。

でも気がつけば、自分の身体も頭も年老いて、そろそろ終りが見えてくる歳になってしまった。

これからどうなるんでしょうね~~。

夢をこれからも追いかけると言うより、「最後の仕上げ」をしないとならないと思っていて、そして待っているのは「終活」。

「日本を脱出するしか無い」と考え出して、もう50数年が経ったけれど、その当時のことは「ついこの前」みたいにアリアリと思いだすことが出来る。

本当にたくさんのことが起きて、山あり谷ありだったけれど、振り返ってみると「あっという間」で、苦労した、失敗したと「深く悔いること」も無いし、でも「順風満帆ではない」けれど【幸せだった】と思う。

そしてこんなふうに過去を思い出してみると、「最高の功労者はヨメさん」なのがわかる。私がまさかと思うようなことを始めてもそれについて来てくれたし、家庭を守り子どもたちの面倒も見てくれた。そして子どもたち。そして両親や姉、友人知人も同じで感謝をしなければならない人ばかり。

もしそういう「出会い」が無かったら、全く違う人生を送ったと思うし、「頑張ろう。絶対に負けない」という意志を継続できたのか、それさえも疑問。

実はそろそろ我が家夫婦の「結婚40周年」なんですが、ヨメさんがいうんですよ。

【もう40年よ。お互い、良く我慢してきたよね】ですと。

私は

【いやいや、この40年、感謝し続けてきたよ】

と言ったら、

「嘘つけ~~~~~~~~~~~」ですとさ。(笑)

これからは「ヨメさんが喜ぶこと」をもっと増やそうと思う。

私には「どうしても忘れられない大事な一瞬」がある。それは40年前の私達の結婚式で、「両親に花束贈呈をする直前」のこと。涙を流して動けなくなっているヨメさんに「大丈夫か?行くぞ」と声をかけた瞬間。

私とヨメさんの歴史ってこれの繰り返しで、私がいつも「だいじょうぶか?行くぞ」と言い、ヨメさんがそれに着いてきた人生。

実は、ヨメさんて私の「命の恩人」でもあるんですよ。私が30代になってから「半端じゃない片頭痛持ち」になって、一日に数度の痛みが出ると痛くて転げ回って、目も見えなくなるし、医者に行っても治らないし、医者がくれる痛み止めでは痛みは治まらず「ラリっちゃう」ばかりだったし、仕事も出来ず、車の運転も出来ず、外出すら怖くて家に閉じこもる生活をしていた頃があったんですが、「ヨメさんとの再会」でそれが【ピタリと止まった】のね。それ以来、何十年も片頭痛は出たこともない。

ヨメさんとの再会後に付き合うようになって、そして結婚することになったけれど、「結婚時に私は無職で収入なし」だったのね。でも蓄えはあったし、新たな仕事の目星はついていたことだけが小さな望みだった。(笑)

上の写真は「私の最悪の状態からスタートした」時の思い出の写真。無職、無収入の私とヨメさんはよく結婚しようと思ったと思う。今でも不思議に思う。またあれほど酷かった片頭痛がピタリと止まったのも本当に不思議で理解不能。

もしヨメさんとの再会がなかったら、どうなっていたことか。

でもいつの日か、私がヨメさんに「ゴメンな、先に逝くぞ」という日はほぼ間違いなく来るのね。

それが気になって気になって仕方がない。

ヨメさんは結婚前から、結婚してからも私に何度も言った言葉がある。

「絶対に私を置いて逝かないで」と。

でも最近はその言葉は聞いてないなぁ。

聞いてみようか。

答えはこんなかも。

「バカねぇ、大丈夫よ。どうにでもなるわよ。いつまでも私を小娘だと思わないでよ」

この答えが出てくる可能性大。 (笑)

もしかしたら「私の幸運な人生の源はヨメさん」かもしれないと思う。ヨメさんとの出会いが無ければ、今、自分の命より大事に思う子どもたちにも会えなかったわけだし、ヨメさんを抜きにした「私の人生」って全く考えられない。想像もできない。

人生って本当に面白いですよね。

ある日、ある時、ある瞬間に偶然ヨメさんと出会ったわけで、ただ「すれ違うだけ」だったら今の我が家は存在しない。それとも「ヨメさんとの出会い」は悠久な長い時の流れの中の「必然、あるいは約束」だったのかもしれないと思ったり。全てが「偶然」だとは思えない「何か」を感じます。

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