グアムウルルン物語 その4

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グアムウルルン物語 その4

そのフジカワシニアが恋に落ちたグアムの女性は健在であった。その話しをしてくれたリンケットの家に一緒に住んでいた。え?このオバーチャンが?頭の整理をしないと理解に苦しむほど、現代と過去の話がゴチャゴチャになった。彼女の歳はいくつだったろうか。かなりヨレヨレのオバーチャンだった。彼女は日本語の単語をいくつか覚えていて、それはそれは嬉しそうに私に話し掛けてきた。もしかしたら、彼女は戦後旦那以外の日本人と話しをするのも初めてかもしれないと思った。しかし意志の疎通が計れるほどの日本語ではない。単なる単語。オハヨ、ゴハンタベルとかその程度。また彼女は全く英語を話さないのでそれ以上の話しもできなかった。今思えば、リンケットに通訳をしてもらって、そのオバーチャンの口から直接当時の話しを聞けばよかったと思う。でも今ではもう遅い、とうの昔にそのオバーチャンは他界した。そのオバーチャンはナナという。ナナとは名前ではなくてオバーチャンの意味。忘れられないのは、後にこの家に私は長らく世話になる事になるのだが、いつも遠くから彼女の視線を感じる事があったこと。居間でテレビを見ているときなどでも、キッチンの陰から私の事を見ているのだ。フと気が付くと、いつも彼女の視線があった。きっと亭主の面影を同じ日本人の私に探していたのだろう。多分まだ16歳だったナナがフジカワと恋に落ちたとき、きっとフジカワはその時の私の歳と同じぐらいであったと思う。似ていたのだろうか。

なぜだかわからないが私はそのナナに親近感を持っていた。また、仲も良かった。私は毎日遊びだし、時間があるのは彼女も一緒で、何度かナナと一緒にフジカワシニアの墓参りに行った。とても嬉しそうだった。墓といえば初めて行ったときにはびっくりした。土葬が一般的で火葬はしない。つまり土の下に埋めたいわけだが、グアムには墓に適しているような平地は多くはない。そこで彼らが考えたのは墓のマンション形式。大きさで言うと90センチ四方、奥行き2メートルくらいの箱のお墓のマンション。それが4階建てになっている。一棟80体位。それが何棟も建っている。蜂の巣を想像してしまったが、地面より高い位置に遺体を葬るというのがどうもしっくりこなかったのを思い出す。フジカワシニアの墓は運良く普通の大地にあったが、小さな十字架の質素な墓であった。その墓の前に立つとやはり胸が苦しくなった。彼の小さな幸せさえも砕いた戦争。戦中、戦後の混乱の時期、何を想って生きていたのか。30年も会えない間、何を頼りにたった一人で生きていたのか。そしてやっと会えた幸せの後の不治の病。考えただけでも頭がクラクラしそうだった。こんな人生があっていいものかと、見えないなにかに腹を立てたのを覚えている。と同時に、同じ日本人として、彼の墓の前に立っている偶然も不思議に感じた。何十年の年代のずれがあるのに、目の前に眠っているフジカワが赤の他人には思えなかった。呼ばれたのかなぁ、そんな感じもした。フジカワファミリーは惜しみなく私に愛を注ぎ、無条件で受け入れてくれる。それにどうにか応えなくてはいけない、愛を受け取るだけではいけない、そんな義務感のようなものも徐々に芽生えてきた。

毎日が信じられないような、楽しい、そして不思議な日々だった。自分が19年間(19才になっていた)知っていた日本の常識とは全く違う価値観、基準で世の中が動いていた。本来ならそういう世界から逃げて行くべきだったのかもしれない。たとえ19才と言えどもそれなりに自分の生き方を確立したつもりでいたし、結構確かな目標も持っていた。それなのにそれと違う世界観を認めるという事は、自分の世界を否定する事になるし、自分が大事にしているものが段々と価値のない物に見えてくるのだから。ある意味、グアムに毒されるという言い方さえできるのではないかと思うこともあった。でも一人の人間として自分をそのまま出して自然に生きることの素晴らしさを彼らは私に教えてくれたし、その甘美の味は簡単に捨てることはできないと思った。

ある日、フジカワファミリーの中心人物が集まった。あえてそういう機会を持ったのではないのかもしれなが、そのようにも思えた。いつもと違う雰囲気だった。いつもは無口なアイダの旦那のトニーがある写真を私に見せながら話しを始めた。彼は、そして彼の弟は、進駐軍として日本へ渡った経験があったのだ。正確な年数は忘れたが昭和23,4年頃ではないだろうか。とにかく彼らは実の父と横浜で会っていた。その時の写真を見せられた。もちろんカラーではない。あの古い写真に良くあるセピア色になったあの手の写真だった。その写真にはアメリカの軍服を着た若いトニーと弟、そして彼らの父フジカワが写っていた。そしてその横に一人の女性が写っていた。彼らはその女性に付いて話しをしだした。

フジカワは戦後も貧しく過ごした様だ。国の補助、清掃事業というのを聞いてもわかる。ただその写真に写っていた一人の女性の話しは聞いた事がなかった。トニーいわく、彼らが日本へ渡って父と再会したときに、父は一人の女性と住んでいたと。その女性はフジカワのたった一人の妹だと言う。私としては、へーーと思ったし、それで話は終わるのかと思ったもののどうも雰囲気としてはそれで話は終わりそうもなかった。彼らにとってはたった一人の日本人の叔母であり、その安否もわからないのが気になる様子。そりゃそうだろう。ただ、その写真は戦後まもなくの写真であるし、それから何十年も経っているのに一体今更どうしようというのだろうか。彼らには申し訳ないが、私はあくまで関係のない第三者の立場でその話を聞いていた。

彼らは重い口を開き始めた。なんと、私にその妹を探してくれというのだ。正直言って私は即刻断ろうと思った。茶色くなった写真一枚でどうやって探せるのだ。そりゃ手伝いは出来る。でもそんなことを簡単に引き受けるわけにはいかないと思った。きっと、彼らを助ける団体とかもあるはずだと思ったし、もし私が探して探せればいいけれど、見つけられなかったよと言う報告は私にはできない。また、したくない。でも彼らは私にその仕事をやって欲しいと願っている。

正直やりたくないけれどやるしかなかった。セピア色の写真に写った数十年前の女性を探すのだ。でも、そんなことは出来るわけがないと私はやる前から諦めていた。そんなことが出来るならとうの昔に探し当てているはずだから。でも、彼らに出来ないから私に頼んでいるわけだ。出来もしないことを軽く受けるのは嫌いな性格だったけれどやってみるだけやってみようと思った。もしかしたら見つかるかもしれないというかすかな感触、これはフジカワの墓の前に立った時に感じていた。

私は正直言って、アイダを始め、グアメニアンの私に対する優しさに疑問を持ちはじめた。彼らは、要するに、これを私にやって欲しかっただけなのではないかと。この叔母を探すことをやってくれる日本人を捜すために私に良くしてくれたのではないかと疑った。そうでなければこの歓迎の様は異常だ。やっぱりこんなことが普通あり得るわけがない。私は段々と彼らを疑うようになっていった。なんだぁ、やっぱり裏があったんだ、みたいな感じ。でもやってみようと思った。シツコイようだが、それはまさにフジカワの墓の前に立ったときのあの感触なのだった。アイダもトニーもグアメニアンも関係なく、これは同じ日本人同士のフジカワシニアと私の問題の様な気もしてきた。

今回、グアムには2週間滞在した。その間にたくさんの楽しい経験をした。その話しはまた次の機会にするとして、私が帰国した後、一ヶ月もしない間にそのフジカワの妹を探し当てたことを次に書こうと思う。

その5に続く

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