世界平和を願っても簡単にいかないのがすぐわかる方法

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世界って広いんだか狭いんだかわかりませんが、あちこちで命のやりとりが行われていて、テレビのニュースや報道にはでてきませんが、ユーチューブには「現場」の映像が山のように投稿されていて、それを見ると「命の尊厳」なんてどこにもないのがわかります。殺し殺され、自分も明日は生きているのかわからないような世界で生きている。恐ろしいと思います。

「世界が平和でありますように・・・」

てなことを願うわけですが、「現場の映像」や「戦いの理由」などをどんどん調べていくと「世界が平和でありますように・・」って、結局、「対岸の火事」を見て思うことだと強く感じます。決して自分は当事者ではない。でも同じ地球での出来事だから「無関係」だとは思わないんですね。でも対岸から見ている。

今回の「日本人人質事件」も同じで、ネットの中を見ているとやっぱり他人ごととして見ている感じがします。これは私も同じで、自分や家族、近親者、知人がそういう状態になっているわけではありませんから、気が狂うほどの恐怖や怒りを感じることはありません。

でも、今回の事件には「忍び寄る恐怖」があるのは感じます。

自己責任だとか放っておけとか言う人もいますが、それは今回の出来事だけを見るからそうなるんだろうと思うわけで、フランスでのテロにしてもそうですし、今までの世界各地のテロを見ますと、いつそれが自分の生活圏で起きるかわからない。そういう時代が来るような気がしないでもありません。

だからやっぱり「自己責任だ」「放っておけ」というのは成り立たないと思うわけです。「テロによって命が危険にさらされている」という点を重視するべきで、そうなった理由は別の話だと思うんですよ。

と同時に、やっぱりリベラル派は「安部首相の責任は重大」ということを言い出しましたね。あの山本太郎とか元情報局長だった孫崎さんとか。つまり、「中東に行って余計なことを言い、余計な約束をした」と。

私はこれもおかしいと思うんですよ。というか、山本太郎氏や孫崎氏に「日本人らしい情緒的なもの」を私はいつも感じるんです。誰しもあたりまえだと思っていることとして「他人が嫌がることはするな」というのがありますが、彼らはそれを国や政治でも同じレベルで考えている。「中国や韓国が嫌がることはするな」的な論理が垣間見れる。

今回も全く同じで、「安倍が余計なことをするからだ」という論理。

これは半分当たっているわけで、海外のニュースでも「安倍氏の言動がキッカケ」という内容で説明されているしそれはその通り。でも「だから安倍が悪い」というのは行き過ぎだと私は思うんです。確かにタイミングも悪かったし、「イスラエル」に肩入れしようとしているのがはっきりわかりますから。これは他のアラブ諸国も「あれれ?」と思ったかもしれない。でも安倍さんは口では「人道」「平和主義」を言うから突っ込めない。

この時期になぜ?と私は思いましたが、やっぱり待ってましたとばかりに今回の事件。でも日本は日本の立場なり方向性をはっきりさせないと駄目なわけですし、またなんだかんだ言ってもアメリカとは縁が切れる状態では(まだ)無いし、今の日本が行くべき方向というのはあるんだろうと思います。

でもそういうのも無視して孫崎さんみたいに「中国脅威論」を振り回して仲良くしろと言うのと同じ論理で今回の事件を語ったり、山本氏みたいな「感情論に立脚した話」ってのは、私としては大丈夫かよ?と思います。

じゃぁ、どうするんだよ?となるわけですが、これは簡単に言えることじゃないし、現状がどうなっているのかの理解さえ難しいですから、結局は

「世界が平和でありますように」

というところに一般的には逃げるんだろうと思うんです。でもそんなことを願ってもどうにもならない。思いは通じる、天は動くと信じる人はそれで良いし、もしそうじゃないにしても「平和でありますように」と念じるのは良いことだと思うんです。

でも、どうしてそこで終わっちゃうの?

と私はいつも感じるわけ。どうしてもう一歩前に出ようとしないのかと。

どうあるべきかは簡単にわかることではないですが、「平和を念じる良い人」になって、問題を直視しないってやっぱり変じゃないですかね。

そもそも「世界が平和」になるためにはどうしたら良いのか、あるいはなぜ平和じゃないのかという点さえも考えないっておかしいわけで、本来なら

「貧困がなくなりますように」

の方が「世界平和」に近いと思うんです。多くの問題は「金がらみ」であるのは私達の生活でも同じで、豊かであるなら問題は起きないし、起こさせたくない側に人間は立つはずですよね。ISILの台頭にも貧困があるわけで、あいつらキチガイは抹殺してしまえというのは、毎度の「臭いものには蓋をしろ」というのと全く同じだし、そして「世界が平和でありますように」と良い子の様に振る舞ってそこで終わらせるのも同じ。

じゃぁ、世界で何が起きていて、何が問題なのかを理解するにはどうしたら良いのかですが、非常に簡単な方法があると思うんです。

「一週間断食してみること」

これはやったことがある人はわかるはずですが、「気が狂いそうになる」んですね。「お腹が空いたなぁ・・」どころの話じゃない。またもし一週間どころか、何らかの行動を起こさなければその後も食べられない、周りに餓死する人がいる、自分の幼い子供も死んだ、なんてことがあると人間がどうなるのかはすぐに「実体験」として理解できるのね。本質的には自分も動物本能丸出しの鬼畜だというのがすぐわかる。

「世界が平和でありますよに・・」なんて何の解決策にもならないのもすぐわかる。

でも残念ながら地球には全部の乗組員が豊かになれるだけの食料も資源もないのでしょう。だからどうにもならないと実力行使に出る人、グループ、国が出てくるわけで、日本だって資源がありませんから、それを止められたらどうなるかはすでに経験済み。ソ連のアフガン侵攻も同じ。中国の拡大も同じ。

でも富を分けることは出来ないから、「邪魔な奴は抹殺」してきたのが世界の歴史だと思うんです。西欧諸国が豊かなのも、「邪魔者の芽を常に摘んできたから」だと私は考えていて、「繁栄の裏にはジェノサイドさえも行われていた事実」があると思います。北アメリカ、南アメリカ、オーストラリアの歴史も同じ。そして今もそれが継続中。

そういう犠牲になった民族や国があるからこそ、私は私達の繁栄があると思っていて、それはiPhoneを製造する中国の、あるいは安くて嬉しいユニクロの製品を作っている工場の劣悪な環境も同じ。発展途上国に近づいて金漬けにして、借金を払えなければお前の国の公共事業を俺にやらせろと迫る先進国も同じ。

こういう図式の中で安穏として生活しているのが西欧諸国の国民だと私は思うわけです。日本も同じ。

だから本当に世界平和を願うのなら、あるいは貧困を本当になくそうと思うのなら、まず平均値を取らないとならないわけで、自分の資産、所得の多くの部分を投げ出す覚悟も必要だということですよね。でもそんなことは絶対にしないで「平和を願い」「貧困をなくせ」という。これって金持ちのボンボンの格好つけにしか思えないわけです。

じゃぁ、どうするのか?

やっぱり私にはわかりませんが、でも「一週間の断食」をしてみると、世界の問題点はかなり明確に理解できるような気がします。

とりあえず、そこがスタートかと。

やってみませんか?

でもそれをやって理解できることは「邪魔者は消すしか無い」「必要な物はなんとしてでも手に入れる」だったりね。世界の指導者たちの常識はそれなんだろうと思っていますが・・・。いや、国民がそうしろと動くってことかな?

 

 
    

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