細かいことを書かない方が良い?

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昔からの読者から、私が細かい私的な事情を書きすぎるんじゃないかと忠告(?)を頂きました。

関係者もいるだろうし、せめて終わってからにしたほうが良いと思うとのこと。

有難いと思いました。この手の忠告(?)は前にも頂いたことがあります。

でもねぇ、これが私のカラーというか、ブログを書くにあたってのスタンスなんですよ。

本来ならはっきり細かいことは書かずに、なんとなく匂わしたり想像に任せたりの書き方をするとか、全く個人的なことは書かない人が大多数。

それはそれでわかりますし、それが常識だと思うくらい。ただ私が読み手だとすると、もっと詳しく書いてくれって思うんですよ。

長い年月を生きてきますと自分の中にはそれなりのものがあるような気がしますが、実はそうじゃないんですね。私が自分で作ったものなんか私の中に一つもないわけですよ。思想もそうだし、誰かの言葉を聞いて読んで、なるほど~なんて思って取り込んだものばかりで、それは巷のノウハウものから著名な評論家、あるいは言論人、もしくは誰でも知っている昔の有名人であったり。

また自分の生活にある物品もそうで、自動車からパソコンまで、自分が作れるものなんか何もなくて、全て誰かが作ったものばかり。その理論でさえも誰かが作ったり発見したもので、私が無から作ったものなんか皆無。

つまり私自身が継ぎ接ぎだらけの塊でしかなくて、本質は?というと「無」なんですね。あるいは「空」。

でも今こうやって生きていられるってことは常に「誰かの恩恵」によって生きているわけで、食べ物にしたって、誰かが作ったものを食べていますし、自分で手に入れたものなんか精々「かいわれ大根」ぐらいなもの(笑)。その他の園芸モノにしたところで、種を買って植えているだけのことで、私がなにもないところから探しだしたものなんか何もない。

つまり、情報って「細かいから意味がある」と思っていて、大雑把なものとか観念的なものって、わかったような気がするけれど実際には何もわからないじゃないですか。あるいは書き手、喋り手の考える方向に気が付かずに誘導されてしまう。でも細かく書いてあると、書き手が意図することとは違うことを読み手は読み取ることが出来るはずなんですね。

私は昔からノウハウ本が好きでしたし、有名人の「名言集」なんて大好きでした。これはこれで的を得ていると思うのですが、では実際に「彼はどう生きたのか」「何をしたのか」はわからないんですね。その書き手が伝えたい事を読み手は受け取るだけ。

それって下手をすると自慢話やキレイ事を聞いて終わりになったり、逆に本人が気がついていないことまでは読み手にはわからないんですね。

私は若い頃から経験者にいろいろ聞くのが好きでした。当然、成功している人に「成功の秘訣」を聞きまくるなんてことを非常識だと言えるぐらい積極的に根掘り葉掘り調べまくりました。もちろん書籍を読むということじゃなくて、本人に聞くという方法ですが。でもある時、気がついたんですよ。「この人が言っていることは事実と違う」って。まず人間は自分を、自分の過去を美化する傾向があるのは普通で、ま、その辺は間引いて聞くにしても、意外と成功した人も「成功した理由を自覚していない」ってことに気がついたんです。

本人は「成功したのはこれが理由」と信じていても、どうも細かい話を聞くと違うところに理由があるんじゃないかと思うことが多くありました。それどころか、本人にしてみると当たり前、常識だと思っていて、自分が特別だとは思っていないけれど、実はそれが普通の人には出来ないことだったり。だからその人が信じるポイントを聞いていても本当のポイントはわからないんですね。

逆に、私は失敗談の方が勉強になると思っていて、「なぜうまくいかなかったのか」ばかりを追い求めていた時期があります。私はこれは正解だと思っていて、「美化された成功談」「本人が気がついていない成功の秘訣」を聞いても意味が無いわけで、でも「失敗した理由」というのは意外に本人は正確に捉えていることが多いと感じました。だからその方が自分にも有用だと。

つまり、私が書くことも、私がどう思うかじゃなくて、「私が何をしたのか」「何が起きたのか」というのが一番重要であって、その具体的なものを私が書かないかぎり、読者には何も伝わらないと思うってことなんです。事実の中から、出来事の中から、何を感じるのかが大事であって、私が「これは良い」とか「あれはダメ」とか、そんな私が勝手に考える評価は意味が無いのだろうと思うんです。

それが、私が細かいことまで書く理由。

そうじゃなければ、「今日はがっかりしたことがありました」とか「今日は嬉しいことがありました」で私の日記が終わっても良いのか?って話し。それじゃ存在価値はゼロじゃないですか。誰も私が「何を感じたか」には興味がないはず。人によって違うんですから。

私が細かいことを書くのは、他人にも実はそれをして欲しいと考えているってことでもあります。

例えばマレーシアに関して言えば、毎月の生活費を事細かく分類し公表してくれる人もいますよね。で、その人は日頃どういう生活をしているのかも書いている。

こういうのって非常に有り難くて、その人が「物価は高い」とか「安い」とか、「楽しい」「面白くない」ああすべきだこうすべきだと書いても、それは私から言えば、その人の基準によって判断していることでしかなくて、ある意味それはどうでも良いんですね。自分として知りたいのは「自分だったらどうなのか?」ってところでしか無いわけですから、もしその人が「私はこの生活しか出来なくて不幸です」と書いたとしても、読み手の私が「凄い生活じゃん」と思えば良いし、「幸せ~~♪」と書いていても内容を見たら、「それで幸せなのかよ?」ってこともあるはず。

結局、書き手がどう思うかより、一体何が起きているのかがわからないと読み手は何ら判断できないじゃないですか。

マレーシアの物価の3分の1説だって、安いところばかり行く人はいくらでもいるわけで、毎月10万以下で生活している人もいる。でも安くないという人の生活は「なんでそんな店で食べるのか、あるいはそういう生活をするのさ?」と思うこともある。これは比較対象になる日本も同じで、東京のど真ん中でそれなりに生活をしていた人と、田舎で古い家に住み、自分の食い扶持ぐらいの田畑を持っている友人も結構いるんですが、金銭感覚がまるで違う。そういう人たちが感じる「高い」「安い」を聞いても、実際にどうなのかは「内容」を見ないかぎり何もわからない。

皆が幸せだ~~~と書いているなら、自分も幸せになるわけでもないし、「どうにもならない」と書いている人の内容は、自分には十分過ぎるのかもしれない。「良い、悪い」「好き、嫌い」なんてのは人それぞれで、それを聞いても何の判断の役に立たないはず。

だから、私は細かいことを具体的に書くわけです。それを読んだ人は何が起きているのかわかるだろうし、そこから何を感じるか、考えるかはその人次第であって、私がどう感じて、何を考えるかは関係ないのね。

だから、私は「何があったのか」を詳しく書こうと思うわけです。

それだけのこと。

でも結構、細かいことを書き過ぎかな?という自覚はあります。(笑)

ま、それで他人さえもそのペースに引き込んで、傷つけてしまうこともあるんですが・・・・・

ご忠告、有難うございます。

 
 
 

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