「西部邁氏の訃報」。残念だ・・・。

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評論家の「西部邁氏」が亡くなりましたね。どうも入水自殺の様子。

 評論家・西部邁さん死去、多摩川で自殺か 78歳…遺書のような文書も (産経新聞 ここをクリック)

彼の話は難解なところがあったけれど、日本がどうあるべきかを常に考えさせられる保守としては重要な人物であったと思うし、彼ほど「日本の保守・リベラル」のだらしなさを指摘する人物もいなかったと思う。

とっても残念。

彼とはかなり違う思想を持っている田原総一朗氏もこう言っている。

 ジャーナリストの田原総一朗さんの話「大ショックだ。去年会った時、体調が悪いと言っていたので気にしていた。近く会いたいなと思っていた。彼は非常にラジカルで、物事を非常にちゃんと考える人。曖昧なことが大嫌いだ。日本は、安全保障も経済も、大事な部分を隠して曖昧。そういうことが彼には我慢できなかったのではないか」

(産経デジタル)

西部氏がどんな人物だったのかを端的に書いてあるニュースもある。

能動的、命かけ「保守のための改革」思想継承 左右問わず言論界に厳しい目 (産経ニュース ここをクリック)

西部氏は近年「死にたい」ということを何度も公言しており、健康上の問題があったにしろ、日本の将来を憂い、また自分がどうあがいてもどうにもならない無力さを感じているのは彼の話を聞けば誰でもわかったはずで、きっと自殺するであろうことも「まさか」とは思いつつ予想は出来ていた。今年の新年の対談でも「死にたい」と言っていましたし。

私の中では「三島由紀夫氏の死」となんとなく重なる部分があります。

私の思う日本人は「生きていくこと、楽しむこと、稼ぐことに精一杯」であって「国家としての日本がどうあるべきか」を考えてそちらに進もうとはしない。でもそれって世界が「俺ファースト」になっているわけでどの国も同じ。

国家が「自国ファースト」になるのは当たり前で、「皆でおててつないで仲良く暮らす」様には残念ながら世界は出来ていない。でもその国の国民が「俺ファースト」になったら国そのものが中から腐って滅びる。

でもそれは自由主義、民主主義の行き着くところでしかないとも私は思っていて、西部氏が常に言っていた「民主主義国家も社会主義国家も【頭で考えた】実験国家でしかない」というのはその通りだと思うわけです。でも日本には2000年以上掛けて作り上げた「日本流のやり方、考え方」があるはず。でもそれは私達の血の中に流れているもので、「XX主義」というような理論だったものではなくて「生活の知恵」と言ったほうが良いのかもしれず。

「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉に全てが集約されていると私は考えていて、それは全体主義でもなければ個人主義でもなく、利他主義でも利己主義でもなく、また民主主義でもなく社会主義でもない。私には学が無いのでこの辺の説明はできませんが、そんな風に考えています。

でもそれは「古いもの」として無視され、明治維新から「海外崇拝」の流れがあり、ましてや「第2次世界大戦での敗戦」をキッカケに「日本の良さは否定されるもの」となったと私は思うんです。こういう話をすると軍国主義がどうのこうのわけのわからん人たちがいるから困るわけですが、未だに日本が海外から賞賛される事が多い「日本の良さ」「日本の知恵」の原点となるものが消えつつあると常日頃感じているわけです。

これも自然な「流れ」「変化」でしかないのかもしれませんが、良い方向へ向かっているとは思えず、私が西部氏の主張に惹かれたのはそういうことでもあるんでしょう。特にアメリカべったりの日本の「安全保障」に関しては西部氏の主張はまことに正しいとしか思えませんし。

西部氏の死によって、今後誰が日本の保守層に意見をいうのか、それを考えると寂しさを感じるばかりです。(【日本の】リベラルの考え方は底の浅い近代の【流行りモノ】としか私は考えていません)

彼が死にたいと言っていたのもわかるような気がするわけで、私自身は死にたいなんて思わないものの「長生きをして日本の末路を見ないで済むのは良いこと」だと思っていて、でも何かのキッカケで日本が変わることもあるのかもしれないと淡い期待だけ持っています。

西部氏の死によってあちこちで彼が何を言わんとしていたのかの特集が開かれるはずですが、それをキッカケに私も学び直そうと考えています。でもそれは日本のためでも無く、日本が良くなって欲しいからでもなく、私もそろそろ人生の終わりに近づいてきて、「日本人としてどう考えるべきか、どうあるべきか」の集大成を自分の中にはっきり作り、「俺は日本人だった」と確かな自覚を持ちながら人生を終わりたいと思う。それだけのことです。

私は有名人、著名人の死に対して「お悔やみの言葉」をブログに書いたことがありません。

西部氏に対してもそれを私は言いたくなくて、死という今までとは違う方法で「どうにか日本人の心のなかで生き続け、叱咤激励を続けて欲しい」と願うばかりです。これからが彼の本領発揮するべき時代なのかもしれない。

それは三島由紀夫氏と同じで、彼の理念や主張、言動が良いとか悪いとかではなくて、常に私の中で疑問を投げかける存在であり続けています。

そういう違う生き方を西部氏は選んだのではないか、そんな気がしてならないのです。

Wikipedia「西部邁」はここをクリック。

 
 
 

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