マレーシアに来て1年半、その前はゴールドコーストに25年、その前は東京。生まれも東京で幼少期は新橋の繁華街のど真ん中。家の前は芸者の置屋で、家の二階から置屋の二階が丸見えで、若い芸姑たちが三味線や舞踊を練習しているのが見えるのが、そしてネオンサインに囲まれているのが私にとっての故郷の風景。
田舎に住んだことは無いし、山手線の外に住んだことさえなくてやっぱり自然に対する憧れってかなりありましたわ。
でも新橋に自然はないかと言うと全くそんなことはなくて、「浜離宮」や「日比谷公園」は私にとっては自然いっぱいの遊び場でした。特に浜離宮に秘密の遊びがあって、そこは今思い出せば「皇室用の狩猟場」で私にしてみると山奥にある湖(小さな池)で冒険心を満たすには十分でした。逆にその後、新橋からあちこちに引っ越しして住んだ街には自然がまったくなかった。
当時、田舎に行っても面白いとは思ったものの、そこに住むなんてことは一切考えなかったし、住みたいとも思わなかったんですが、はじめての海外がグアム、そしてアメリカ大陸を見た時にはショックなんてもんじゃありませんでした。自然が大きいなんてもんじゃないのね。そしてその大自然の片隅に人間が住まわせてもらっているような感じ。ああ、これが本来の生き方なんだと思ったっけ。自分もそういう中で生きたいし、それが普通なんだと思うように成りました。
社会に出てからは出張が多く、沖縄と四国を除いてあちこちに出ているのが仕事みたいなもんで、日本の良さは満喫できました。日本は多様性という点で秀でている自然大国と言って良くて、当然、生活は自然と大きな関わりがあって、自然との一体感とでもいうのか、田舎暮らしも良いもんだと思うようになった。
結婚してからも東京に住み続けていたけれど、何度か「田舎暮らしってどうよ。良いと思うんだけどなぁ」なんてヨメさんにいうと、九州の山奥育ちのヨメさんは「あんたは田舎の怖さを知らないからそういうことを言うのよ」といつも言われましたっけ。
でもそういうヨメさんも自然は大好きで、小さい頃の遊び場は筑後川で、滝壺に飛び込むなんてことを平気でやっていた野生児。結婚前から朝まで二人で呑んだくれるようなことをしていましたが、キャンプも大好きで、時期には毎週行くようなこともしてましたっけ。
話は変わりますが、日本って良い国で大好きなんだけれど、子供の頃から常に「違和感」「疎外感」を感じていた私は自分の子供のスヤスヤと寝る寝顔を見た時に思ったんです。こんな息苦しい世界で、本当の自分を殺し、周りの目を気にしながら「良い人を演じながら生きる」なんて冗談じゃないと。そろそろ子供の進学を考えないとならなくて、どこの幼稚園に入れようか、将来はエスカレータ式で大学まで行けるところが良いかとか、そんなことを考えている自分に嫌気が刺したんです。俺みたいなつまらない人生を歩むために子どもたちは生まれてきたんじゃないし、俺と同じ様な道を歩かせようとしている俺は親としてなんなんだ?と。
ということで海外脱出を決めました。
若い頃から海外脱出計画は持っていて、一時はグアム。会社もグアムで興して何年も行ったり来たりしていたものの、まともなビザを取得してなおかつ安定した生活を送れるようにすることはできなかった。そしてその後はアメリカ本土。仕事関係のあるコングラマリットのある部門に「来たいならおいで」と言われたものの、実際にサンフランシスコに行ってみたら、それまでの生き方以上の非人間的で恐ろしいほどの競争社会に驚愕。私みたいな甘ちゃんが生きていける世界じゃないと納得。
結局、自分は怠け者で、自然が好きで、遊びも好きで、「ヤシの木の下でビールを飲みつつ、のんびり釣り糸を垂れる生活」を夢見ていただけ。
この思いは結婚して子供ができてからも同じで、それが好きならそれも良いじゃないかと思ったんですよ。でも子供が二人いて教育のことも考えないとならないわけで、それなりのところじゃないと行く訳にはいかない。
どこに行きたいというより、私がやろうとしていたのは「日本脱出」ですね。
候補に上がったのはカナダとオーストラリア。もちろん英語圏であることは重要で、自由に子どもたちが学べる環境、そして自然も多くて良いのですが、問題は「永住権」なんですね。これが取れずにその国へ渡ることは、私にしてみると自殺行為とは言わないまでも「無謀」だと考えました。遊びに行くとかロングステイならいざしらず、その地に根を張って生きて仕事もし、子どもたちも安全安心で育つためには永住権は絶対に必要。そしてその永住権を取れる可能性があったのはカナダとオーストラリアだけでした。
アメリカも考えたのですが、当時、永住権を取るには2Mドルは必要なのがわかってあえなく撃沈。でもその当時、それだけの資金があればアメリカを選んだかもしれない。でも住むとしたらやっぱりハワイを選んでしまうわけで(笑)、あの華やかさは子供の教育としてどうなのか、ワイキキに行って日本人の若い女の子をひっかけ遊び狂う我が息子たちを想像したら、こりゃ駄目だと思ったわけです。ハワイも半端じゃなく広くて住むのに適した場所はいくらでもあるけれど、やっぱり住むならワイキキ周辺に住みたいと思いますもんねぇ。
ただ今でもアメリカという選択は悪くないと思っていて、アメリカの悪いニュースはいくらでも入ってきますが、中産階級の生活レベルの高さ、チャンスの多さ、なんでもある凄さは世界一だと今でも思います。またアメリカには移民として生活している親戚も多く、彼らを見ていると自分でもどうにかできるんじゃないかと思いました。でも永住権が手に入らなければ安心してそこで生活はできませんから、アメリカは候補落ち。
その国に渡ってから永住権をどうにか手に入れるという方法もありますが、私はそれはギャンブルだと思いました。すでに30半ばを過ぎていましたし、子供がいるのに5年10年頑張って、やっぱり永住権は取れませんでした、日本に帰るか、他の国に行くしか無い、なんてのは絶対に受け入れられませんから。でも行く前にアメリカの永住権を取るのは私には不可能だった。
永住権が取りやすい国はカナダとオーストラリアで、私はカナダを想定していたんです。住む街はバンクーバー。すぐ南に降りればアメリカのシアトルで、シアトルは私の好きな街でもあるし、親戚がごっそりいましたから、それこそマレーシアで言う、ジョホールバルとシンガポールみたいな関係で、バンクーバーが良いな、と。そして大自然の凄さは半端じゃなくて、釣りやキャンプが大好きな我が家としては最高の場所だと思ったわけです。
ところがヨメさんの「私は寒いところは嫌」の一言で、オーストラリアしか選ぶ候補はなくなりました。
当時はバブル全盛期の1980年代後半。そして前にも書きましたが、日本の通産省が「シルバーコロンビア計画」なる「日本人老人を海外に出す計画」が大々的に動いていて、多くの日本人がオーストラリアに渡っていたんですね。もちろん老人だけではなくて、日本脱出組の若者もどんどんオーストラリアに渡っていた(永住権は基本的に若いほうが取りやすい)。私はそういう意味で中途半端な年齢(30代後半)でしたが、私に合う永住権スキームがあったのでそれに挑戦。一時は駄目か・・と思った時期もあったのですが、どうにか永住権を取得できた。
そして1991年、知り合いもいない、親類縁者もいない、仕事もない、仕事関係のつながりもまったくないゴールドコーストに上陸。私は38歳、ヨメさん32歳、長男3歳、次男1歳でした。
ま、それからの事を書き出したら大変な量になりますから書きませんが、ゴールドコーストで2つの仕事を始め、でも言葉も習慣も法律も全く日本と違う場所ですから、あえて全力投球はしませんでした。全力投球しないと仕事もうまくいかないとは思うものの、全力投球して失敗したら、それこそ家族4人、流浪の民となるしかないわけで、様子を見ながら小出しにするような仕事のやり方でした。だから決して大きくしよう、大儲けしようなんてことは考えなかった。
そんな私ですが、ま、運が良かったのでしょう。どうにか生き延びることができたし、子どもたちも私立の良い学校で学べて、それぞれ大学、大学院も卒業して立派に育ってくれましたから。
今思いだすと、そりゃその時その時は大変ですが、苦労らしい苦労も無かったと言って良いかもしれないくらい恵まれていました。
私達がゴールドコーストへ渡ったのは1991年、まさにバブルが弾けるときですが、私の仕事はバブルで儲かったなんてことはないものの、もしゴールドコーストへ渡ること無くあのまま中小企業の親父を続けていたら間違いなく倒産したと思います。バブル後の長い不況に自分が耐えられたかと想像しても、きっと「そのうちまた景気は戻るだろう」と思ってどんどんつぎ込み、あるいは我慢をし続けたに違いありませんから。
あの時、日本脱出を考え、オーストラリアに行くことを決め、永住権が取れたのも、そしてその後の仕事や資産の整理もすんなり行ったのも、今思い返すと不思議なんですよ。タイミングはばっちりで、どこかで引っかかれば日本脱出はできないわけだけれど、障害らしい障害がなく全て計画通りに進んだ。これって私の人生でもなかなかそんなことはなくて、途中までよくても最後で躓くなんてのが普通だったのに(笑)、あの時は、すべてが順調に動いた。何か見えない力が働いたんじゃないかって本当に思うくらいです。
そう言えばですね、「今日でお別れ」と家を出るまさにその日に、外の階段に「蛇の脱殻」があったんです。20年近くそこに住み、蛇なんか全く見たこともなかったし、抜け殻なんて見たのもそれが生まれて初めて。これって吉兆の印であると思ったし、「ちゃんとお前のことは見守っている」と告げられたような気さえしました。偶然にしては変だと思いません?家を出るまさにその日ですよ。
ゴールドコーストは南半球最大のリゾート地で、自然は十分素晴らしいものがありました。毎晩、ヨメさんと酒とつまみを用意して、自分の家の前を流れる運河で、自分の家の桟橋から糸を垂れて釣りをするなんて生活もできたし(ヨメさんは私以上に釣り好きで、黒鯛、キスは入れ食いで、マッドクラブもいくらでも獲れた)、多くの日本人がそうであるようにゴルフに狂ってみたり。
まぁ、日本での生活と比べると夢のような生活と言って間違いがないと思います。でもそれってオーストラリア人の平均的な生き方でしかないのね。我が家でお願いしていたローンモウワー(芝刈りのおっちゃん)もウォータフロントに住み、モーターボートを持って釣り三昧の人でした。毎年、3週間は休みをとってヨーロッパに遊びに行くとか。
私が何よりも素晴らしいと思ったのは「オーストラリアには真の自由がある」と思えたこと。「出る杭は打たれる」どころか「主張のない人間はいないのと同じ扱いを受ける」国で、自分が思うように自分の人生を生きることができました。はっきり自分の考えを言わずにニヤニヤしているとバカにされる国。だから私は水を得た魚ってこういうことを言うんだろうと思ったくらい。子どもたちも同じで、日本のような詰め込み教育ではなくて本当に自分の興味があることを学び、好きな方向へ行ける環境。でも言い方を変えると「こいつら何も知らない」と感じるんですよ。日本人の子供達みたいに「何でも知っている」なんてことは一切ない。
ところが好きな分野に関しては半端じゃないんですね。そして「知識を詰め込む」のではなくて「考えることを学ぶ」教育であったと思います。いわゆるプロブレムソルビングが基本にあって、「問題はなにか把握する」「それの解決方法を探る」「解決に必要なことを学ぶ」「そして解決する」という今思えば何よりも大切なことを教えるのが学校なんだと思いました。だから日本の学生みたいに「それは習っていません」なんてことは絶対に言わないのね。知らないことは知らない、それだけのことで、でもそれを知る必要があると判断した時にはそれにまっしぐらに進む。
そんな環境で子供が育つと、息子たちの友人を含めて全員が「オタク」みたいなんですよ。色々知らないけれど、知っていることはかなり専門的で、これが本来の教育だと思ったし、そんな中で育った子どもたちは本当に面白いです。言いたいことは言うし、議論が大好き。ああ、この議論というか「討論のスキル」も中学生ぐらいから授業の中心にあって、かなりしつこく訓練されるのね。
なるほどなぁと思ったのは、ある「お題目」に関して討論する場合、誰が何を考えているかは関係ないのね。それぞれ反対派と賛成派とクジで決めて討論するんですよ。例えば「日本の憲法9条を改憲する必要があるか」という題目でも、自分がどう思うかは全く関係なく、賛成、反対と二手にクジで決めて討論する。そしてまた賛成派と反対派が入れ替わって討論する。当然、事前にそのお題目に関しては徹底的に調べる。
そう言えば、中学校からレポート形式の宿題が出るんですが、これまたぶっ飛んでいてこんな内容。「貴方がアメリカのジョンソン大統領だとしたら、ベトナム戦争をどうするべきか」とか。子供にしてみればジョンソン大統領って誰よ?ベトナム戦争って?みたいなもんです。こういう答えのない問題を常に子供に与えて、とにかく「調べる」「問題点を探す」「解決方法を探る」みたいに「考え続けること」を教えるのね。
こういう訓練を子供の頃からしつこいようにやっていると、嫌でも頭は論理的になるし、同時に「相手の話も良く聞く」ようになるのね。「答え有りきではない」という討論を我が子どもたちも普通にしますので、彼らと討論をしていても面白いんですよ。まさにお互いが学べる場となりますから。
ま、話がそれちゃいましたが、我が家族にとってゴールドコーストで過ごした25年間は、本当に素晴らしい日々でしたし、ゴールドコーストへ渡ったのは大正解でした。
でも子どもたちも大人になり、それぞれの道を歩みだして我々夫婦が二人だけになると、ぽっかり心に穴が空いた感じになるわけです。自分は好き放題やって来たように思うものの、やっぱり心の中では「子供が第一優先」でしたから、生きる目標がなくなったような気さえしたもんです。
そんなふうになると、自分のそれまでの生き方を振り返るようになるし、「自分という一個人はどう生きるべきだったのか」を考え始めたわけです。でも「どう生きたかったのか」とは考えませんでした。だってやりたいように生きてきましたし、やりたかったことはほぼ全てやりながら生きることができました。これはまさに「オーストラリアという環境」があったからだと思います。
でも「やるべきだったこと」となると話は別で、自分の死も視野に入ってくる年令になって、仕上げを考えないとならない。で、その結論として「マレーシアで新たな目標にチャレンジする」ということになった。
ま、今はそれに向かって走っているわけですが、「やるべきこと」はやらないとならないですが、もっと素直に自分と向かい合った時に、自分は本当にしたいことはなんなのか、本当に住みたい場所はどこなのか、なんてことも考えるわけです。
今、私が幸せなのは「やるべきこと」と「本当にしたいこと」が同じですので、その道を進み続けることになんら迷いはないのですが、問題は「住みたい場所」。
若い頃から日本脱出を考えて、そして脱出して、また住む国を変えて今に至るわけですが、「住む場所」ということだけを考えた場合、私が本当に住みたい場所に住んでいるかと言うとその答えは「No」。
マレーシア好きの人たちには申し訳ないですが、私にとってマレーシアは「住む価値がある」場所であって、「住みたい場所」ではないんです。
自分の死も視野に入ってきた今、「住みたい場所に住んでいない自分」ってどうなんだろうと、まぁ贅沢なこともたまには考えてみるんですが、その答えは・・・
「日本に住みたい」
ということ。
日本って私にとっては住みづらい国で、脱出を考えて来たわけですが、それって「逃げ」でしかないんですね。
自分の大好きな母、あるいは父、あるいはヨメや家族と幸せに過ごしたい。でもうまくいかないから「離れて住む」みたいなもんです。で、これはやっぱり逃げでしかない。
私が好きな国はやっぱり日本しか無い。
日本に住みたい・・・・。
できればこんな自然があるところ。
こんな写真を見ながら深呼吸すると、緑の匂いと遠くに潮の香りも感じます。
桜が咲く時期には桜を見て、あの美しさと儚さを感じて生きていたい。今まで四季のない場所に長年住んできましたが、やっぱり四季って日本人の心と密接なつながりがあって四季と連動して心も動くし、あの四季の移り変わりを感じながら生きていたいって思うんです。
美味しいものがいくらでもあるし~~~~~~~~~
って結局それか? (笑)
でも冗談じゃなくて、いつか母なるわが祖国日本に帰って「帰ってきたよ、ただいま」と言いたい。これが私の心の奥底からの願い。本当は最初から海外に出たいなんて思ってはいなかったのかもしれない。
でもどこで最後を迎えるかわからない。
この漢詩が好きなんですよ。「壁に題す」
男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山
男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんば死すとも還らず
骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや
人間到る処に青山有り
これの詩吟が実は好きだったりする。(ここをクリック)
ダボってこんな詩吟も好きなのか?って不思議に思います?詩吟は自分ではやりませんが、良いと思うものって結構あるのね。
本当はこっち系が好きなんですが・・・。(笑)