世の中はなんでもかんでもPCR検査を重視するのが世界的傾向。そして我々一般人もPCR検査で陽性と出た人の数を見ながら一喜一憂してきた。
でも最初からPCR検査の問題点は指摘されていましたよね。
そもそも「正確ではない」と。
だから陽性ではないのに陽性と出る【偽陽性】があって、その人達は【感染している】とされ隔離。これも個別隔離ならまだしもまとめて隔離されれば、本当に感染してしまう。
また隔離するべき感染者でも「陰性」とでる【偽陰性】も多く、その人達は何の問題もないと野に放たれる。
日本では、当初はPCR検査を重視すること無く、「様子がおかしければまずは【CT検査を受けてくれ】と言っていた」んですよね。日本は世界的に見て非常に多いCT検査機があって、コロナでの肺炎はすぐにわかると言われていた。そして異常が見つかった人たちの確認のためにPCR検査が使われていた。
ところがそれをメディアは許さなかった。全国民にPCR検査をするべきだという声があちこちで上がった。
これは私もそもそもPCR検査がどんな検査だかわからない頃は、どんどんやれば良いのにと思っていたのだけれど、PCR検査に対する理解が増すにつれて、「PCR検査を唯一の判定方法」とし、「多くの人達を検査」したら収拾がつかない大事になるのがわかってきた。そもそも「陽性と感染は違う」わけで、なおかつ「感染者でも他に感染を広げるステージ」があって、感染者全てが危険なのではないのもわかってきた。
でも「安全と安心は違う」と不安をメディアは煽り続けてきたし、そうするべきだという専門家も少なくなかった。
なんかおかしいなぁと誰しもが感じたはずだけれど、では「PCR検査をしなくてもよいのか?」と問われればそれに対して明解な回答があるわけでもない。
誰しも「不安を解消して欲しい」と願っているわけだけれど、「恐れるな」という専門家の声はかき消された。余計なことは言うなと。
未知のものに対する不安が大きいのは当たり前で、そしてもしそれが「必要のない不安」だとしても【その気持ちに寄り添うのが政府の仕事】なのも間違いがない。
この辺はバランスだと思うのだけれど、「不安が増大する方向へだけ世の中は動いた」のが事実。
陽性でも感染していない、感染しても症状が出ない、症状が出ても軽い、そして重篤になり死亡する人たちは極々一部で、それは【老人と持病を持つ人達のみ】と言っていいのもわかっていた。だから本来なら【隔離すべきは老人と病気持ちだけで良い】はずだけれど、その方向には動かずに、全国民に行動制限を掛けた。
でもま、これもまたしょうがないのだろうなとは思うわけです。
大きな感染の波が来て、それが去り、また再び襲ってくることを繰り返しながら、なぜそれが起きるのかのはっきりした理由も対処法もわからない。とにかく「人と人との接触がなければ感染は広まらない」という一点のみを大事にして規制は続いた。
これって「完全にコロナに負けた」という意味だと思う。
そしてPCR検査に関して言えば、少量のRNAを何度も何度も倍々で増やして、そしてそれを検出するのがPCR検査の原理。
ところが「何倍に増やすべきか」という議論があるのね。
これって「ザルですくう時に、ザルの目をどのくらいの大きさにするべきか」というのと同じで、ザルの目を極限まで細かくすれば「無視しても良いようなものまで拾ってしまう」ことになる。これをずーっとやってきたのが日本のPCR検査で、この倍率を「CT値」と呼ぶのだけれど、日本のそれは40を超えていたと言われる。
でもWHOでさえ35以上は無意味だと言っていた。
つまりその数値が高いとRNAの破片、残骸さえも検出してしまうから。あるいは検査場に浮遊していたたった一つのRNAが紛れ込めばそれを検出するぐらいの精度だと。
そもそも「感染するにはそれなりの量のウィルスが必要」で少量だと感染はしないと言われている。でもそういうレベルのウィルスをも検出しようとするのが日本のPCR検査。
だからやればやるほど「偽陽性を含めて陽性者は増える」のが当たり前で、でもその人達の多くは「陽性ではあっても感染はしていない」、「無症状者が多い」と言われるのはここにも原因がある。
このCT値が異常に高いことを危惧した人たちがいて、グループを作って政府に働きかけていた。いたずらに陽性者を増やすだけだからと。
これがですねぇ、知らない間に厚労省はそれを受け入れて、CT値を下げていたのがわかった。
つまり、陽性者数はそれによって下がるのは間違いがない。
これって良いことなのか悪いことなのかの議論もあるけれど、私が危惧していたのは「政府はオリンピックを開催したいがためにこのCT値を下げて、【感染はおさまりつつある】ように見える状態を作る可能性がある」ということ。それは2月9日の日記に書きました。
新規陽性者数のグラフを見てみる。1月8日がピークで下がり続けている。
これは良いことですよね。そしてワクチンも出回ればもう大丈夫だろうと思う。でももしこの数値は「PCR検査方法を変えたから」だとしたらどう思います?
厚労省が高すぎるCT値を低くしろと通達をだしたのが1月22日。WTOがCT値が35以上では駄目だと言っていたのを受けて、「30~35」に設定しろとの内容。
これはこれで良いことだと思うんです。やっと世界基準になったのですから。でもこうすれば新規感染者数は減るのは当たり前で、私は「オリンピック」が頭にある政府のプレッシャーがあったと勘ぐっています。
このCT値の変更に関しては、前からそれを主張していた松田政策研究所の松田学元衆議院議員の動画を見るとよくわかる。
CT値が下がれば「新規陽性者数は減る」のが当たり前で、もし変更がなかったらこれほど下がってこなかったかもしれない。
実際にはCT値を変えた検査結果はこれからはっきり出てくるはずで、動画でも言っているように「大きな新規感染者の減少」が「緊急事態宣言」なり「行動制限」の結果、つまり政府の決定は間違えていなかったということにされるとそれは「ミスリーディング」であるのは間違いがない。(そして「オリンピック開催」に向けて進もうという政府の策略はあると私は思う)
逆に「今後、もし新規感染者が大幅に減ることがない」としたら、かなりヤバいことになっていると考えるべきなんでしょう。
ま、表題に書いたように「操作」というのは大げさにしても、検査対象の枠組みを変えたり(過去にあった)、今回のようにPCR検査の根本的な検査方法を変えた場合、【統計の数値の継続性は絶たれる】のは間違いがないわけで、その辺ははっきり公表するなり、修正値をだすのが私は常識だと思うんですけどね~。
どちらにしても私達はワクチンに希望を託し、それも急がなければならないから、人類が経験したことのない「遺伝子ワクチン」なるものを開発し、世に出した。
でもこれが本当に安全なのかは誰にもわからない。人類が経験したことのないワクチンなのだから。
でも「リスクがあります」なんてことは言えないわけで、「とりあえず燃え盛っている火を収めるにはこれしかない」と全世界の人はそれを受け入れることにした。そして批判は潰す。
これが今の状態だと私は考えています。
ただし、世界と日本とは状況がまるで違いますよね。
アメリカを代表に、山火事は大きく燃え上がり広がっているとしたら、【リスクがある方法をとっても鎮火する必要がある】のは間違いがない。
でも日本は?
アメリカなどと比べれば数百分の一の被害しか無いのに、同じ様にワクチンワクチンと騒ぐ。
これっておかしくないですかね。
でも個人それぞれが感じる不安は世界共通だから、本来は大事にはなっていなくても個人レベルでは大騒ぎとなる。
海外ではお金もなくてワクチンは後回しになるなんて国もある。そして感染の広がりが激しい国もある。
だったら「皆さん、お先にどうぞ」という日本であってもおかしくないんじゃないですかね。
飢餓状態で餓死者がどんどん出ているわけでもないのと同じなのに、「飯をくれ~~」と騒ぐのは日本人らしくない。
実際に餓死者が大量に出ていれば、そこに重点的に食料を送るのは常識だと思うし、そしてワクチンの場合は「安全性」には少なからず問題があるのはわかっているんですから。つまり、飢餓状態だからと言って「毒饅頭でも食べるべきなのか?」という議論があっても良いと思うんですよ。
毒饅頭でもいいから食べさせてくれという人たちがいるのなら、それはそれで自己責任で食べれば良いと思う。
でも今すぐにそれを食べないで済むのなら、それを食べた人たちがどうなるか様子を見るのもありなんじゃないですかね。
「ワクチンに問題はない」というのは大嘘で、ワクチンは打たないで済めば打たないほうが良いのはどの医者も言う。でも「打たない場合のリスク」と天秤にかけた場合、どうあるべきかが問題。そして少なくとも今回の「新型遺伝子ワクチン」に関しては【長期の調査はなされていない】のはどの医者も認める事実じゃないですか。
私はこれと近年の「遺伝子組み換え作物」と似たものがあると感じるのだけれど、「絶対安全だ」「リスクは有る」とそれぞれの立場の専門家がいる。でも私達にはどちらが正しいのかわからないし、リスクがあるにしても「全ての人にとってリスクなのか」もわからない。
でも私自身としては、もう老人なんだから今後のことをあれこれと悩む必要もなくて、リスクがあってもそのワクチンを受けても大きな問題はないと思う。でも自分の子供達や孫の世代もそれで良いのかは別問題。
そしてワクチンが広がれば、必ず「ワクチンを受けたから安心」という気持ちが広がるし、「ワクチン接種証明書」なるものが価値を持つようになるのは間違いがない。
つまりそれを持つ人と持たない人の間に「区別」だけではなくて「差別」も必ず起きると私は思う。
当然、ワクチンを打たない人は「それはお前が選んだこと。自己責任だ」となる可能性が高いはず。差別されても受け入れるしか無いと思う。
だからワクチンを受けたくなくても受ける方向に動くんじゃないですかね。「赤信号、皆で渡れば怖くない」のと同じだと自分に言い聞かせる。
そもそも一体コロナってなんなのか。ワクチン接種が始まった今だからこそ落ち着いて考えることが出来ると思うんです。そして「本来、私達はどうあるべきなのか」を考えておかないと、「次に同じようなことが起きたらどうするのか」「ワクチンに問題があるのがわかったらどうするのか」等を無視できないはず。
今回のコロナが収まったにしろ、「たまたま今回は日本の被害は少なくて助かった」のかもしれず、「感染症と人類の戦いは始まったばかり」と考える必要があるんじゃないですかね。
特に日本の場合、世界に比べて感染者も重篤者・死亡者も桁違いに少ないのに「医療崩壊が言われていた」のは重視すべき点で、もし他国のように「多くの感染者、死亡者が出るような事態になったらどうするのか」は今の時点でも議論すべきことのはずだから。
コロナウィルスそのものに関すること、感染のメカニズム、感染を防ぐ方法などに関しては、私は宮沢孝幸博士 京都大学ウイルス・再生医科学研究所准教授の話が良いと思う。
また「なぜ日本では感染者も死亡者も少ないのか」に関しては、「日本ではすでに集団免疫が出来ていた」という理屈も無視できないと思っています。
そしてこの理屈が間違えていないのであれば、日本人には「ワクチンは要らない(すでに免疫は持っている)」という点もしっかり考えてみる必要があると思っています。
そして私達が忘れてはならないのは、コロナコロナと大騒ぎしていますが、本来ならコロナの死亡者は「例年の死亡者にプラスされる」のが当たり前だと思うけれど、コロナが起きたことによる死亡者数の上昇である「超過死亡」はマイナスで、これは【コロナのお陰で死者数は減った】というのが数字から見える事実。
だからこそ「風邪と同じだ」という論者も出てくるのだとは思うのだけれど、私としては「感染例」「死亡例」の実例としての経験者、関係者の話を聞くと「風邪と同じだ」なんてことは絶対に言えない問題の大きさを感じます。巷では「どうせ死ぬ人が死んだだけだ」みたいなことを言う人が多いですが、私は心情的にそれを受け入れようとは思わない。
ちゃんと歩くことも出来ないほどに弱った老人が、横断歩道を渡る時に「トラックに敷かれて死んだ」としましょうよ。その時に、「どうせ放っておいてもそのうち死ぬ人なんだから、トラックのせいにするな」という論法がなぜ通用するのかが私には理解できない。
コロナによって死亡者総数は増えるどころか減っているとするなら、コロナが過ぎた後にも「死亡者が少ないままどうやったら維持できるのか」を考えるべきだと思っています。「感染症による死亡者は減らせる」のがコロナのお陰でわかったのかもしれないのだから。
どちらにしても、ワクチンのお陰だろうがなんだろうが、コロナが収まっても「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ことがあってはならないのは間違いないと思う。