ヨメさんが【愛国女子】なのがわかって私は嬉しい~~

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私の思想はかなり右掛かっているのは読者の方はご存知だと思います。これって若い頃はそうでもなかったのですが、外国を知り、日本の近代史を知るとどんどんその傾向は強まりました。そしてオーストラリアに渡ってからは「愛国心?当たり前だろう」と思うようになったし、何よりも子どもたちにそれを持ってほしかったです。

小学生の頃、学校で歴史を学んだのか、他のアジア人に何か言われたのでしょう。泣きながら帰ってきて、「パパ、本当に日本人って卑怯な人種なの?本当に最低な人間なの?」と聞かれたことがあります。これって本当に困って、日本がアジアに進出したこと、台湾を統治し、韓国を併合したこと、真珠湾攻撃など、「なぜそれが起きたのか、その背景」を小学生に説明してもわかるはずもなく、ピントをずらして「日本は素晴らしい歴史と伝統、文化を持った国だよ」「日本人も優秀で、世界から一目置かれている」「現在も世界への貢献はトップクラスだよ」とかなり無理筋な説明を大げさにしましたっけ。

また当時はオーストラリアに「人種差別」が間違いなくあって(今とはかなり様相が違う)、子どもたちは差別用語で呼ばれたり、お弁当を窓から投げ捨てられたり、中学の修了式のお祝い行事の帰りに「死にたい」と長男が言っていたことは、親の私にも一生忘れられないことです。

こういう中で大切なのはやっぱり愛国心であり、自分は日本人だというアイデンティティだと思うわけです。実は日本でもそうですが「差別や偏見から逃れるため」にあえてアイデンティティを捨てる、考えないようになる人達が存在するのね。自分が何人でもなくなってしまえば、日本人だ、XXX人だと差別されても痛くもなんともないわけですから。

差別する人たちを「軽蔑する」ことによって自分の中で納得して逃げようとしたり、あるいは「人間、皆兄弟、皆同じ」と論理をずらしてそれを信じ込むとか。でも私は差別は世の中から消えないと思っているんですよ。隠すことは出来ても消すことは出来ない。

私はあえてその状態に息子たちを置いて、彼らが何を選ぶか賭けました。でも私には勝算があった。というか子どもたちを信じたわけです。

彼らは逃げなかったし負けなかった。いや、それを私が許さなかったところもあるし、私も一緒に彼らと戦いました。そして二人共頼もしい日本男児に育ってくれた。差別には絶対に屈服しない強い人間になってくれた。そして他人の心の痛みも理解できるおとなになってくれた。

今では二人共バリバリの保守で(笑)、日本も大好きだし、日本人であることにプライドも持っています。「良くお前たちはそう育ってくれたよな」というと、「そりゃそうだよ。オヤジが右翼だからしょうがない」と笑っています。(私自身は右寄りだとは思うけれど右翼とは思っていない 笑)

さて、ヨメさんは?

彼女は福岡は山の中の「浮羽」という田舎の出身で、やっぱり九州女ってのは筋金入りの日本人という感じが昔からあります。ただ普段は「曲がったことは大嫌い」なのはわかっても、思想的な話はしない。でも彼女の若い頃に亡くなった、そして半端じゃなく尊敬している義父は「特攻隊志願」だったそうで、基本的には我が家はみんな似ているとは思っていました。

つい先日、パラオの話になりました。あの世界で一番親日的だと言われる、南洋の小島の国。

ヨメさんいわく、「パラオって大好き」ですと。「なんで?」と聞くと、「日本のことを尊敬してくれているから」ですと。実はグアム時代にグアムにいたパラオ出身の家族との付き合いがあって、彼らは日本に行ったこともないのに日本語を話すこと、日本がパラオ発展のために半端じゃない尽力したこと、そして日本大好きなのを彼女は知ったわけです。

ヨメさんは、パラオの国旗が日本の国旗にそっくりなのも知っていました。黄色い丸は「月」を意味し、青はパラオを囲む大きな海。

ただ、かつてパラオはドイツの植民地で、第一次世界大戦後に戦勝国だった日本がそれを引き継いでパラオは日本の委任統治領になったこと、日本はいわゆる植民地政策ではなくて、パラオを日本のように近代化するために多大な協力をしたことなどは知らず、そんな事を話している内に、やっぱり戦争の話になったのね。

「戦争でどんな逸話がパラオにあるのか知ってる?」と聞いたら、「知らない」と。となれば、絶対に【プレリュー島の戦い】の話をしないとならないと思って、その話をしだしたわけです。

当時日本軍と島民の関係は非常によく、島民は日本軍と一緒に戦うがごとく協力をしていたとのこと。そして戦況は悪くなり、パラオでの最終決戦をプレリュー島で行うことになった。そこで日本軍も島民も寝ずにプレリュー島を要塞化し、物資を運び込んだりして、戦う準備は整った。

当然、島民はそこで彼らも日本人として一緒に戦うつもりでいたわけです。そしてそのつもりであることを日本軍司令官に伝えたところ・・。

司令官は言った。「我らが日本帝国軍人が、貴様らごとき土人と一緒に戦えるか!!帰れ!!」と。

これを聞いた島民たちは、皆、打ちひしがれたそうです。自分たちも日本人として一緒に今まで頑張ってやってきたのに、やっぱり日本人は俺達のことをそんな程度に考えていたのかと。俺たちは騙された。裏切られたと感じたそうです。

そして彼らががっかりしながら船でプレリュー島を出て、本島に向かおうとしていたときのこと・・・。

ここまで話したら、突然、ヨメさんが泣き出しました。そこから先は聞かなくてもわかると。

でもここからがこの話の山場でその話を私はしないわけにもいかず、私も涙が出て声が声にならないようになりながら、続きをしゃべりました。

プレリュー島をがっかりしながら去ろうとしていた島民たちがフト振り返ってプレリュー島を見てみると・・・。

自分たちを土人と罵った司令官はじめ、多くの日本兵が浜辺にでて、手を振っていたと。

この時、島民たちは悟ったわけです。「島民を道連れには出来ないという司令官の配慮であった」と。そしてそれが最後の別れだと。

船に乗った島民も手を振り、双方からいつも一緒に歌っていた歌声が流れてきたそう。

結果的にとんでもない激戦となり、約1万人の日本兵の中で生き残りは34人。

ヨメさんも私も涙をボロボロ流して、声が声になりませんでした。

でもヨメさんが「それこそが日本人が日本人である所以」だと言っているのはわかった。ま、この逸話もどこまで本当なのかはわかりませんが、こういう逸話はあちこちに残されていますね。少なくともインドネシアの独立には、戦後、脱走兵扱いされながらもインドネシアのために現地に残った日本兵が2000人以上いて(記録上は903人)、彼らがインドネシア軍を教育、作戦指導をし、インドネシア軍を率いて戻ってきたオランダ軍と一緒に戦い、勝利に導いたのは事実として有名な話。その残留日本兵たちはインドネシアで軍神として敬われ、インドネシア独立後に受勲している。

戦争はないほうが良いのはわかりきっている。でももし戦争が起きた時にどう行動するか。ここが大事なところだと思います。

そういう意味で、我が家は皆が「きっちり日本人としてやるべきことをやる」という心構えがあります。決して「死」が私達の家族の結束を断ち切ることはないのも皆が知っていることだし、何が何でも生き延びるべきという考え方が、なぜか我が家にはありません。(これが良いことだと言っているわけではない)

アフガンのドタバタを知り、本来、日本人はどうあるべきか、そんなことを考えていた時の、我が家で始まったパラオの話。

いつか、家族みんなで靖国神社に行ってみたいです。ヨメさんも息子たちも行ったことは無いはずで、あそこでヨメさんや子どもたちが何を見て何を感じるのか私は聞いてみたい。

ところでこのプレリュー島の戦いの物語は最近ブームになっているらしいですね。あちこちで催し物が開かれたり。どうも「漫画化された」のがきっかけらしい。

 

 

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