次男坊たちはシドニーに帰っていった & 一生の思い出

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シドニーから来てくれていた次男坊家族が帰ってしまった。

あっという間でした。

今回は「行動を共にする」という滞在ではなくて、もう歳を取ってそして調子が良くない私としては楽だったけれど、もっと一緒にいてたくさん話しもしたかったし、孫とももっと遊びたかったというのが本音。

もっと年老いた私の父も96歳で、「これが最後かもしれない」と小声でもらしていたけれど、それは私も同じ。というかみんなそれって同じなんですよね。

生きている一瞬、一瞬を大事しないとならないって本当にそう思う。

早速、「孫の一歳の誕生日会」の総集編みたいなビデオが送られてきた。

これも「結婚式のビデオは内輪しか見ない」の類だけれど、まさに皆が生きていた証拠だし、皆が孫をたくさんの愛で包んでいた記録でもある。

やっぱりこういうのはつくってきっちり保存しておくべきだと思いました。これってこれから100年でも残って行くわけで、いつか子孫たちが「オージーちゃんの1歳のときってこんなだったんだ~~~」なんて見るかもしれないし、本人もある日これを見て「俺ってみんなに愛されていたんだ・・・」「俺はひとりじゃないんだ。応援団がついている」なんて力と勇気を得て、困難を乗り越えていくこともあると思う。

私ももし自分のこんな写真があったら見てみたいと思うし、子どもたちも同じだろうと思う。

上の写真の中で、孫が亡くなった私の母の遺影と面と向かう一枚があるけれど、この一枚も印象深いものがあります。

私の父と母は「孫が命」と私にも何度も何度も言う親で(笑)、その孫の結婚式にも参加できず、でもいつかマレーシアに来てくれるというのを楽しみにしていたのだけれど、母は愛する孫の結婚式が終わったその日の夜半、マレーシアのパンタイ病院のICUで息を引き取った。「結婚式が終わってから会いに来ると言っているから頑張ろうね」と母を励ましたし、母も「うん、うん」とうなずいていたのにそれは叶わなかった。

このことは結婚式の翌日に次男坊たちに知らせることは出来ず、その次の週の東京での披露宴も終わり、彼らが後にマレーシアに来るまで秘密にした。マレーシアの飛行場に迎えに行って、祖父母に会いに行くという途中の車の中で「結婚式が終わった夜半に亡くなった」ことを伝えたら、次男坊はメソメソ泣いていたっけ。

母のその瞬間に私は立ち会うことは出来ず、次男坊の結婚式の為に北海道に行っていたわけだけれど、あの結婚式の当日のことが忘れられません。私達が北海道は網走に到着したとき、例年ならもう雪が多く積もっている時期なのに雪はなく、「まだ雪は降っていない」と言われた。ところが結婚式の当日、目を覚まして窓の外を見てみると、前の日とは全く違う一面銀世界になっていた。網走の人達は「初雪だ」と言い方をしていた。

でも大雪でも吹雪でもなく、結婚式の時間には「ヒラヒラと花びらが舞うような雪」で綺麗だった。結婚する次男坊は「生まれて初めて雪を見た(彼が育ったゴールドコーストは雪がふらない)」「それも俺の結婚式の日に」と半端じゃなく感動していましたっけ。私もヨメさんも「お母さんが降らせたんだろうね」なんて話もしたし、「結婚式もあれだけ楽しみにしていたから来ていたんだろう」とも。そして結婚式が終わったその日の夜半、結婚式を見届けて安心したかの様に母は旅立った。

次男坊のお嫁さんの実家のお寺での仏前結婚式。いつも強気で偉そうな事ばかり言う次男坊が感動して涙を流していたのが忘れられない。

亡くなった母は本当に孫たちが大好きで、そして彼らもオバーチャンが大好きで、次男坊がマレーシアに来た時、外に出かける時には次男坊がいつもオバーチャンと手を繋いでいたのを思い出します。私は父とは幼い頃から犬猿の仲で「お前には財産は残さない。孫に渡す」とまで言われてきたけれど(笑)、こんな私の母と息子の後ろ姿を見ては「俺の親孝行は出来た。終わった」と私もなんとも言えない満足感がありましたっけ。

そんな孫に子供も出来て幸せに生活している姿を母は見守っているだろうし、今回のひ孫の来馬、誕生日会も喜んでいたと思う。そして母の遺影を誕生日会に持っていったのだけれど、思った以上に孫はその写真に興味を持って何度も何度も触ろうとしていたのを見て、母が母にとってのひ孫に「イナイイナイバー」でもしているんだろうと思った。

「子を持って知る親の恩」という言葉があるけれど、それって本当にその通りで、溢れるばかりの愛を子供に持つからこそ、「自分の親も同じだった」ことに気がつくんですよね。と同時に今の自分に続くご先祖様たちも同じで、「愛の連鎖」が続いていて「子や孫たちが幸せでありますように」というご先祖様たちの「思い、願い」が蓄積されているのに気がつく。

ああ、「俺って愛の蓄積の中で生きているんだ」と実感したのはやっぱりある程度の歳を取ってからで(笑)、自分もその「連鎖の中の一人だ」と思うとやっぱりそれを大事にしてもっともっと頑張らなければならないし、「まだ見ぬ子たち」へも思いを巡らして、肉体は滅びてもその思いはエネルギーとして残るだろうし残したいと思っています。

そんなことを考えるようになって、あれほど犬猿の仲だった私の父にも感謝と尊敬の念が湧いてきて「何を話すわけではない」けれど、【和解は出来ている】と感じているし、そんな父もそして私もそんな遠くない将来に「ご先祖の仲間入り」をするわけで、みんなで一族の幸せと繁栄に力を合わせたいなんて考えています。

「一族のことだけかよ」なんて気もするけれど、私には二人の親がいて、その二人には4人の親がいて、そしてそれは8人、16人、32人、64人、128人、256人、512人と上を見ていくと数百年の内には「数万人単位」になる。

倍々のねずみ算って上を見ても同じなのが面白いと思う。つまり「人類、皆兄弟」というのは当たっているかもしれなくて、やっぱり世界の人達は手を取り合って皆で幸せに向かって行かなくてはならないと感じます。

これって地球規模で考えれば、「生きとし生けるもの」は皆、出処も同じ一族なわけで、動物や植物は「人間より劣っている、価値が低い」という考え方は大間違いだと思う。あるいは素粒子レベルで考えると、存在する全ての物体は、燃え盛るあの太陽と私達さえも「同根」とも言える。

一族の事を思うが故に敵対勢力には「子々孫々まで恨む」とか、「恨み千年」なんて考え方も出てくるけれど、それも元はと言えば「一族への愛」が根本にあるわけで、よくよく考えてみれば「みんなが一族」みたいなもんで、「負の連鎖」だけは強い意志を持ってどこかで断ち切らないとならないのだろうと思う。

「この恨みは未来永劫忘れない」なんてのは先祖や子孫を考えているから出てくる発想だけれど、でもやっぱりそれって勘違いで自分の思い込みでしか無い。俯瞰して先祖や子孫を見てみれば、「なんだ、みんな一族じゃないか」というのがわかるわけで、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も「出処は同じ」のところに注目すべきだと私は思うわけです。

この歌は事実なんだろうと思う。

「そんなことはわかってるさ」と思う人は多いと思う。でも「刃物や銃口を突きつけられたらどうするのさ」ってことなんでしょうね。「異常な欲深さ」が背景にあることもあるのだろうけれど、多くの場合、「そうせざるを得ない状況」もあるから戦争も起きるんじゃないですかね。【正論と正論がぶつかり合う】から争いが起こるわけで、「悪いのはあいつ」というのは一方的な見方でしか無いと思う。

そしてそれは親兄弟、夫婦間でも起こり得る。

そんなことが起きないようにするべきなんだろうけれど、それは単なるべき論。

でもそれが起きたらどうするか。

私としては「皆が仲良く笑って幸せに生きていた頃」を心の真ん中に置いたまま「今までどうも有難う」と言って消えていこうと思う。

我が家は「タイタニック号に乗っていたらどうする?」なんて話も良くしたのだけれど、「もはやこれまで」と思った時には【生き残ろうと救命ボートを取り合うことなく、皆で手を繋いで沈んでいこう】という家族。

他人を犠牲にして生き残るより「皆で笑顔で愛し合ってお互いを思い手を繋いで生きていた瞬間」を大事にしたい。

どうもこういう考え方って「日本人的」らしいのだけれど、私は日本人。(笑)

今回の次男坊の来馬、そしてこの初孫の誕生日会の写真を見て、昔を思い出しつつそんなことを考えていました。

これが「会うのは最後」になるかどうかなんて誰にも分からないし、それは96歳の父も同じで、でももしそうなっても微笑んでいられる自分でいたいと思う。

心が繋がっている実感が強くあれば、別れは決してつらくない。それは亡くなった母にも感じることで、もう会えないという悲しみはなくて、「心の中で常に一緒に生きている感じ」「尊敬と感謝の念が強く、この世で出会い親子として生きてこれたことの喜び」の方が遥かに大きい。

その感覚って、すでにヨメさんや息子たちにも感じていて、もうすでに私は幸せすぎるほど幸せだと思っています。

本当にどうも有難うと皆に言いたい。

そして目には見えない「何か」に心から感謝したいと思う。

 

 

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