日本の教育は「OECD38カ国中34位」ですと。教育レベルが低いということ。

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「日本の教育レベルが低い」なんてことは私は考えたこともありませんでした。

もう私は70歳を超えていますし、最近のことは全くわからないのと同じで、過去を考えてみれば「日本人は良く勉強する」し、「識字率は高い」し、「進学率も高い」し、世界のトップクラスだと思っていました。これは「もっと過去を見てみる」と「寺子屋が広く普及していた」ことがあって、江戸時代でも「識字率、計算能力は世界トップクラス」で、日本に来た外人が驚いたそう。

また当時から「日本人の民度は高い」と言われていて、それは「伝統的な武士社会、家庭」、そして「丁稚奉公」でも「寺子屋」でも「近代の教育」でも【道徳や倫理】に重点が置かれていたからだと思っています。「そもそもなんのために勉強をするのか、働くのか、あるいはお金を稼ぐのか」が何よりも重要なわけで、道徳や倫理なき勉強や仕事は「ヤクザの世界」と同じになってしまう。

明治維新であっという間に世界の列強と肩を並べ、世界の大国である「清」や「ロシア」と戦争をしたら勝ってしまうし、第一次世界大戦時も連合国側で大きな貢献をしたし、「国際連盟=1920年1月20日に設立された史上初の世界的な,集団安全保障を中心とする平和維持・国際協力機構」では日本は【常任理事国】入り。そして世界初となる「人種的差別撤廃提案」を出したり(否決)、日本の発展、進歩は凄いものがあって、それを支えたのは「日本の教育レベルの高さ」だと思っています。

その後、軍事大国となり第二次世界大戦に突入しますが、やはりその背後には「世界トップレベルの軍事力」があったからで、誰でも知っている「零戦」という戦闘機は逸脱していて、初期の頃は敵機は逃げ惑うぐらいの大きな差があった。

結局は戦争に負けて、大都会も地方都市も「焼け野原」になりましたが、そこからの「復興の速さ」も目を見張るものがあった。そして経済は鰻登りでGDPも米国に次ぐ世界2位に上り詰め、国民一人あたりのGDPは「アメリカも抜く可能性」もあった。

こんなことは世界は「信じられない。何故だ?」と思ったわけで、それは日本も同じだったかもしれない。でも私は「真面目に勉強して真面目に仕事をしていたらそうなった」というイメージを持っています。また「日本は安全保障はアメリカに丸投げしていた」ことから、経済だけを重視して突き進むことができたんでしょう。

でもバブル崩壊から変わってしまったし、「伸び続ける日本をアメリカが叩くようになった」のも大きな原因で、アメリカの厳しい要求を飲み続けて日本経済は衰退し、今に続く。

そんな感じを私は受けていて、他人がどう思おうと「日本は間違いなく素晴らしい国」「世界に類を見ない国」という印象があります。そしてその基本には「教育」があったからだと。

ああ、もう一つオマケ。日本に鉄砲が渡ってきたのは種子島ということになっていて(実際は違うらしい)、それをあっという間に複製し製造数を増やし、一時期は「世界一の鉄砲保有数があった」んですってね。スペインが日本を植民地にしようとしたけれど諦めたのは、そういう日本の軍事力が背景にあったと聞いています。(事実は知らない)

私としてはあれもこれも「日本の教育が素晴らしかったから」だと思っていて、私自身としては真面目に一生懸命勉強をしたつもりは全く無いのだけれど、「良いと言われていた進学校(千代田区立の小中学校)にたまたま入り」「周りに置いていかれないようにしていただけ」で、当然、「大学に行くのは当たり前のこと」と考えていて、でも大学受験勉強は真っ平ごめんと思っていましたから「エスカレーターで大学に行ける私立高校に進み」、「クラスではお尻の方にぶら下がっていた状態だった」けれど、いつのまにか「私学の雄と言われる大学に進み、卒業」。

なんだか「環境に合わせていただけで、そうなった」だけのことで、それはきっと江戸時代に「寺子屋に行って勉強するのが当たり前だった」のと似ているんじゃないかと思うんですよ。「皆がそうしているから、自分は落ちこぼれたくない」と思っていただけ、つまり【そういう環境、習慣でしか無かった】と思うのね。

でも「世界と比べると大きく違っていた」のが後になってわかった。だから今でも「何よりも環境、習慣が重要」だと思っています。

今になると、日本の経済は落ちぶれ、「日本は何でも安い」と外国人は喜び、私達日本人は「インバウンド価格」を見て驚くけれど、かつては「真逆」だったのね。それは1980年代。1990年代もまだ名残はあったと思うけれど、「海外に出ると日本人がいかに金持ちなのか」ってのがわかったのね。特に東南アジアに行くと「殿様気分が味わえた」。「マレーシアの生活費は日本の3分の1」どころの話じゃなかったと思います。本当に東南アジアは貧しいという印象でした。

でも「日本人は教育レベルも高く金持ち」なのは「個人が頑張ったからではない」のであって、「普通に生きていたら、日本という国そのものがどんどん上に登って行って、そこに生まれ育っただけで日本人はその恩恵を受けたのは間違いない」と今でも思っています。もし北朝鮮や中国、あるいは韓国やマレーシアにしても、生まれてぼ~~っと生きていたらどうなるかなんて、深く考えなくてもすぐに分かる。

実際に海外に出てみると、いかに勉強や仕事に全身全霊を賭けて「のし上がろうとしている人が多い」のかがよーくわかりますが、私は海外の彼らほど勉強し働く人を「日本では見たことがない」と思ったくらい。(日本の就労時間が異常に長いのは別の話として)

日本でも苦労している本人は「こんなに頑張っているのに」と思うだろうけれど、私が見た外国人ってそんなレベルじゃないのね。だからこそ「海外では、落ちこぼれは犯罪に走るのが常識」となるんでしょう。

結局、トップグループにいた日本はあれよあれよという間に衰退し、海外勢はガンガン伸びた。

私はそんな風に考えたまま何十年も経ち、それなのに今になって「日本の教育は遅れている」なんて言われても信じられないんですよ。「OECD38カ国の中で34位」なんて嘘だと思うくらい。

でも、そういう発表があったらしく、高橋洋一教授はラジオ番組でこんな風に話していた。
27:40から。

まず「国連開発計画」という組織があるらしく、そこが発表する【人間開発指数(国民ひとりあたりの所得や教育、平均寿命をもとに算出したその国の暮らしの豊かさを示すもの)】の順位があって、日本は「世界24位」だったとのこと。

なんだか私にはピンと来ないのですが、なぜ日本の暮らしと豊かさを示す指数が世界24位なのかというと、その指数を計算する【教育指数が低いから】ということらしい。

高橋教授の説明によると、「日本は教育に対する投資が先進国の中では低い」らしく、【先進国に比べて教育環境が劣化している】とのこと。

冗談だろと思うけれど、「日本は大学を出るとそこで安心してしまうけれど、先進国では社会に出てからも大学院に通って勉強を続けるのが普通」だという。

ま、確かに日本でもその動きはあって、MBAを取ったり他の資格を取る人がいるにしても、決して「そういう人が多い」という感じは受けない。

でも「海外ではそういう人は多く、日本人が海外に行くとびっくりするだろう」と。

これに関しては、私も子どもたちの関係でオーストラリアの教育制度を見てきましたが、随分違うなぁと思うことがあったのね。

◯ オーストラリアの大学では現実に沿ったことを教える

私自身は東京の私大の商学部でしたが、まず驚いたのが、必須科目に「マルクスの経済原論」があったんですよ。私は実は「政経学部」に入りたかったのですが、高校から上がるときの成績が悪かったから、「第4志望の商学部」にしか行けなかった(第5志望はなかった 笑)。でもま、私は商人の出であるし、「商学に焦点を合わすのは良い」と思ったんですよ。

でも大学一年で、突然、「マルクスの経済原論」ですからねぇ。驚きはそれだけじゃなくて、大学で教える内容って「本を読めばわかることばかり」で、W大もそんな程度なのかと本当に驚きました。大学で教えることが実社会で武器になるとは到底思えませんでした。でもま、それは私の勘違いで、「大学は勉強する道筋やヒントを教えるところ」で、勉強は個人個人がやるべきことでしかないのね。

でも私の時代は「大学に入ってから青春を謳歌する」時代。きっと商学部卒でも「100万円を5年で150万円にするには、複利で毎年何%で回さないとならないか」という計算もできない人が多いかもね。でもこういうのって結構面白くて、いや、実は問題は深刻で「仕入れ値が10万円の商品を定価から2割引で販売し、販売価格の3割の粗利を確保するには定価をいくらにしなくてはならないか」みたいなことがさっぱりわからない大卒も多いのね。私が生きていた中小企業の世界って、大卒でもそういう人しか来ないから本当に大変でした。

ところが子どもたちが通ったオーストラリアの大学って、「足が地についた教育をしている」と感じたのね。わかりやすく言えば「職業訓練所」みたいな。正直なところ「広い知識を持っているとは思えない」のだけれど、「大学を卒業したら、【即戦力として使える人材】を作る」のが目的で、私の頃の日本みたいに「企業に入ってから一から教わる」みたいな感じは皆無。日本では企業によっては「大学で学んだことは全て忘れろ。必要なことはこれから教える」という企業もあったほど。

これは「就職」にもその違いがでていると私は思っていて、オーストラリアの大企業は「部門別に募集をかける」ところが多いのね。日本みたいに、「就職してからどの部門に回されるかはわからない」という感じじゃない。

次男坊はシドニーで大学院に進みましたが、日本で大学院というと「研究職に着く」感じがあって、オーストラリアにもそういう色が濃い大学もあって、次に博士課程に進んで学者になりたい、研究職に付きたいと思う若者はそういう大学を選ぶのですが、息子たちの大学の大学院って、「高度な職業訓練所」みたいな感じでした。

だから卒業後は「その分野の管理職候補になる」のね。日本みたいに「大学院を出ても就職先が見つからない」「逆に敬遠される」なんてことはあり得ない世界。

◯ 何歳になっても勉強したければその門戸は開かれている

それと驚いたのが、次男坊がどの分野に行くか悩んでいた高校生の頃、ある大学のある学部の「入学説明会」に私もくっついて行ったことがあるんですが、普通なら「卒業を前にした高校生ばかり」だと思うじゃないですか。ところが、その会場は「いかにも高校生」という人のほうが少ないくらいで、20代後半どころか、30代、40代に見えるおっさんも来ていたんですよ。最初、私は彼らは「私と同じ子供の付き添い」かと思ったら、「本人が入学するつもりで説明会に来ていた」のね。

当然、彼らは「高卒より上の資格がほしい」ケースもあれば、「他の学部も卒業している」とか、「職業を変えたい人たち」が多い。

大学院も同じで、「今の職場では、今のままなら上に登れない」と思ったり、「最新の技術、知識、ノウハウを身につけたい人たち」が集まるのね。当然、我が家の次男坊みたいに「大学を卒業してから、より深い知識を知りたい」とすぐに大学院に行く子も多い。

そしてそれを「世間も企業も後押しする」のが凄いと思いました。

例えば日本なら40代、50代が勉強したいと思っても環境がそれを許さないケースって多いじゃないですか。サラリーマンもそうで、「大学院に行きたい?お前アホか?」と言われるんじゃないですかね。そもそも「自分は毎日の業務をごっそり抱えているわけで、大学院に行くどころか長期旅行も行けない」なんてのが多いはず。

ところが、オーストラリアは「企業が大学院に行くのを後押しする」のね。そして「経費も企業持ち」で「勉強時間ももらえる」なんてケースも多く、そのかわり「この企業で働き続けて欲しい」ってことなのね。

大学院に行って「机上の空論」ばかり学んだ頭でっかちじゃ困るけれど、そもそも大学院が「高度で最新の職業訓練所」みたいな場所なら、「企業内で育てる」なんて悠長なことはしないのが当たり前といえば当たり前。

実は我が家の次男坊も、大学院を卒業するまで「会計には興味がなかった」し、当然、「公認会計士」なんて資格も持っていなかった。ところが次男坊を引っ張った企業は「監査法人」で、「入社後に公認会計士の資格をとる」という条件でした。

これを聞いた私は「止めたほうが良いんじゃないか?」と言ったんですよ。企業に勤めたら勉強する十分な時間もないはずだし、そもそも公認会計士が簡単に取れる資格だとも思っていなかったから、その資格取得に手間取ったり、うまくいかなかったらどうなるのか心配だったのね。

ところが次男坊は「う~~む、問題ないと思うよ」とお気軽な返事で、入社を決め、そして勤めながら大学院にも通い、勉強して2年後だったかな、公認会計士の資格を取得。

その監査法人は日本を含む世界中に支社があって、当然、世界中のスタッフと交流も行き来もあるわけですが、次男坊いわく、「日本の支社ではそういうことはありえないと聞いた」と言っていました。

このオーストラリアの「勉強したければいつでも始められる」「それを社会も企業もバックアップする」体制はきっちり【文化として存在している】のね。そしてそれって、多分「先進国では常識なのかもしれない」と今回の「日本の教育指数の低さ」を知って思いました。

高橋教授いわく、「日本は教育を受ける年数が先進国の中では短い」のだそう。だから「日本人は低学歴で教育も受けていないという位置づけ」だという。ま、企業内のトップクラスってそうなのかもしれないけれど、なんだか大げさなような気がします。高橋教授ってそもそも「専門家は博士号ぐらい取れ」、「メディアの多くの人はまともな教育も受けていない」と平気で言う人ですから。でも彼はいつも海外目線でものをいう人だし、実際に海外と日本はそういう差があるのかもしれない。実際に「大卒ならオッケイ」みたいなところが日本にあると思うし、大学生時代に徹底的に勉強した人って意外に少ないのかもしれない。私の時代の私学はそういう感じでした。人文社会系の話ですが、いわゆる「大卒」になりたかっただけみたいな。大事なのは「卒業証書とブランド」だったと言っても過言じゃないし、就職してからも「いつまでもそのブランドが関係する」みたいな。「東大法学部卒」というトップブランドがいつまで日本で幅を利かすんですかね~。財務省という財務関連の省でも東大法学部卒がトップブランドって面白いですよね。それプラス留学が鬼に金棒?明治時代なら理解もできますが、今の時代でもこれってやっぱり日本は遅れているのかもしれない。かつての韓国の「両班じゃなければ人にあらず」みたいな。

それと思いだすのは、オーストラリアの大学生って半端じゃなく勉強するのね。宿題やレポート提出、テストも頻繁に行われているし、学生時代は「図書館通いが主な生活」みたいな。次男坊の大学院のクラスはかなり厳しかったようで「留年がない」んですよ。テストにフェイルしたら即刻、退学とのこと。

私の大学生活って真逆で、そもそも「大学に入ってから青春を謳歌する」と考えるのが普通で、私も友人も周りを見てもまさに「青春を謳歌していた」のは間違いがないですもの。「理工系はまた違う世界」でしたし、そして「研究職」になるとか「博士になる」なんてことじゃない限り、大学院のことは考えないのが普通でした。ましてや私の学部は「商学部」でしたし、【花の商学部】と同じ大学内でも下に見られていたし、私は未だに「商学部の大学院で何を学ぶのか」がイメージできません。

どちらしても当時の日本は「大学院を出たほうが良い」どころか、「大学院を出たら不利になる」と言われた時代で、就職も「体育会系が有利」なんてのが当たり前だった。私の知人に二人「博士号を持っている」のがいますが、余り幸せそうな生活はしていないし、逆にプライドは半端じゃなく高いから、私には不幸にさえ思えます。

今の日本はかなり違うとは思うけれど、オーストラリアを思いだすと、日本はまだまだだろうなとは思うし、実際にそれが「国際的な教育指数」という形で出ているのかもね。

そういう意味でも、「日本がすぐに変わるとは思えない」し、若者は「海外に出る」のを考えてみるのも良いと思うわけです。

でも「永住権を取れるように頑張る」のもお忘れなきように。永住権があるのとないのとは天と地の差があると言って良いと私は思っていて、例えば「優秀な二人の中からどちらかを選ぶ時」に、永住権があるのか無いのかで差をつけられるのは当たり前だと思う私。

もし自分が日本に住んでいる日本企業の経営者で、社員の殆どが永住許可もなかったらどう思いますかね。「優秀なら構わない」なんてのは机上の空論でしょう。企業がスポーンサーになって「永住権を取らせるケースは多い」にしても、それは誰でも取れるという意味では無くて、企業にも「スポンサーになれる条件や人数枠」があって、簡単に考えるとうまくない。

 

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