正しいと言われることが「本当に正しいのか」は甚だ疑問

古いエントリーが表示されているかもしれないので、是非、「投稿日」を確認してください

私は決して人間嫌いじゃないし、大好きなんだけれど、「多くの人とは距離を置く生き方」をしてきました。

それはそうしたいのではなくて「そうなっちゃう」のね。

特に日本ではそうなる傾向が強くて、「こんな中でやっていけるか、馬鹿げている」と若い頃から思うことが多くて、18歳の時に初めてグアムという海外を知り、「これが自由だ。あるべき生き方だ」と思ったのね。それがグアムにのめり込むキッカケとなり、しっかりのめり込むことになるのだけれど、その後、他の国々も知り、やっぱり「日本って変わってる」という思いが強くなった。でもそれは「日本の良さでもある」から否定はできなかった。

だから「自分が日本を出るしかない」と考えるわけで、グアムに住もうとあの手この手を画策したり、アメリカ本土に渡ろうとしたり、でもそれは「自由に見えるアメリカのとんでもなく奥深く、どうにもならない差別」に気がついて止めたり。「偽善」が丸見えだったというべきか。

でも歳も重ね、大人になってからは結構冷静に見れるようになって「オーストラリアが良い」と家族4人で右も左もわからない、友人もいない、仕事のあてもないゴールドコーストに永住権を取って渡った。

不安がなかったのかというとそんなことはなくて、でも「オーストラリアならどうにかなる」という期待というか、日本では考えられないほどのセーフティーネットがあるから、そしてオーストラリア人って日本人みたいに一生懸命働かないのはわかっていたから(笑)、私でもどうにかなる、大丈夫だろうと思った。(でも永住権がなければただの旅行者と同じになる)

ま、難民みたいなもんです。

これは「賭け」だったけれど、ゴールドコーストに渡ったのは大正解で、「これが自由というものか」と心底思った。そしてその中で二人の子どもたちもたくましく育ってくれた。でも当初は「人種差別」は学校内にもあって子どもたちは半端じゃない苦労をしたし、学校から泣きながら返ってくることもあったし、長男の中等部の修業記念の大パーティの時には、父兄も着飾って集まり皆が盛り上がっているのに「死にたい」と落ち込んでいた長男のことが忘れられない。式典の最中にも「いじめ」があったらしい。客席に座っていた私達は全く気が付かなかったけれど、しかしまさか、そんな言葉を息子から聞くことになるなんて想像もしていなかったから本当に驚いた。当時のことを書いた日記がある。「オーストラリアの日本男児」「オーストラリアの日本男児(その2)

私が息子たちに教えたことは「絶対に逃げるな」ということで、でもなぜそれを言えたかと言うと「差別は無知から生じる」のが見ていてわかったし、「どうにもならない根深さがあるわけじゃない」という確信があったから。そして息子たちにも「吹っ切れる瞬間」が来て、たくましく育ってくれた。

ま、とにかく「日本は生きづらい」のは今でもそう思っていて、でもそれは「日本が駄目なのではない」のであって、日本人の生真面目さが強いからだと思うのね。要は私みたいにちゃらんぽらんで自由気ままに生きるのを容認する社会じゃないというだけ。

でも最近は、なんだか世界がそういうふうになってきたように感じるんですよ。

差別じゃ個人の権利じゃヘイトじゃ、コンプライアンスがどうじゃと、まぁそれはそれは細かいことまで制約して「随分、生きづらい時代になったなぁ」と感じるわけです。

では世の中が間違えているのかと言うとそうでもなくて、ただ「大げさに騒ぐようになった」だけかもしれない。

ああすべきこうすべきというのも異常なほど強く、そういう考え方がありとあらゆる方面で動いている。

例えば「禁煙」もそうで、私としてはそんなのは「棲み分けをすれば良い」だけなのに「全面禁止」となる。言葉の使い方も難しくなって、女性に「綺麗になったね~」なんて言えば、本人じゃないやつが「それはセクハラだ」と騒ぐみたいな。

それは間違えか?といえば間違いじゃないから困る。

今、私は健康に問題があって「健康のためにすべきこと」をいろいろやっているのはブログに書いてはいるものの、「健康に良い、悪い」というのも100かゼロじゃなくて、どんなふうにしても「大差はない」のが現実だと思う。でも世の中の人達はああすべき、こうすべきと白黒を付けたがる。

そうやって「縛る」ことをして、結局、【生きる楽しみ】をどんどん削りとっている社会になったと常々感じています。

「多様性が重要」なんて言うけれど、それを言う人の多くは「嘘つき」だと私は思っていて、「ここに20の選択肢があります。そこから一つを選んでください」というような多様性であって、では私が「その中にはない21番目の選択肢を取りたい」と言ったら間違いなく異端者扱いされ、排斥されるのね。「20もの選択肢があるのだから、その中から選べばいいじゃないか」なんてのは理屈でしか無くて、そこに「自由」なんてない。そこには進化も進歩もないと思う。

昔から、「日本人は金太郎飴みたいだ」と思っていたんですよ。皆、同じ顔で同じ生き方をして、そういう金太郎になることを望んでいる様に思えた。なおかつ、それを「他人にも強制する」傾向が強い。そして今、世界がそういうふうに動いているのを感じます。そして「違う顔をした金太郎飴同士の勢力争いが活発化している」みたいな。

そこには「多様性」も「自由」もなくて、私はそれこそが「グローバル化、グローバリズム」だと思う。【これが世界基準だ】と自群の考えを押し付ける。

でもそれが「生命の根源」みたいなことを歳を取ってから思うようになってきた。自然界の動物たちも野に咲く花たちも「自群の勢力を伸ばそう」として生きているだけで、【他を生かすのも自群の為でしかない】みたいな。

なんか世の中って変だよなぁと思いつつ生きているのだけれど、今日、こんな動画を見つけた。

彼は東大の医学部を出た医者なのだけれど、医療の中にも「暗黙のルール」があって、それに立ち向かおうとしている。でも決して反骨精神があるからじゃなくて、彼は彼の考える「正しい」と思うことを主張しているだけで、私も彼の生き方に共感を覚える。

彼は「医学の世界」の話をしているのだけれど、私は全てがそういうふうに動いているのを常日頃感じる。

私はこんな医者にかかりたいと思った。そしてこういう価値観を持つ人が増えたら世界はもっと面白くなるし、それのみが「進化、進歩」に繋がると思うんですよね~。

 

「にほんブログ村」のランキングに参加しております。是非、応援のクリックをお願いします。