たしたことも判らないのに前の日記にアダムとイブということで原罪に関して書きました。本当にわかっていないというのは自分でも自覚があって、でも大雑把に言うとあの日記に書いたとおりのことを考えています。
コメントを頂戴しました。
「バカヤロー、神に対する冒涜だ~~!!」
じゃなくて、非常に優しい心あるコメントです。お一方は「リンゴと原子力は同じかもしれない」という点で意見が一致。コメントの内容は原子力と人間とどう関わるべきかと言う内容。
もう一方はカソリック信者の方です。
私が書いた「なぜ罪をそれほどまでに許してもらおうと拘るのか(善人でありたいのか)」「原罪とは?」「十字架を背負うキリストの意味」「神の意思と自由意志」などに関して、私が書いたとおりの疑問をかつて持たれていたそうです。でも信者になられてからそれを理解できた様です。
確かに外からのぞいたぐらいで判るような事なら世の中の悩みなんか無いに等しいわけで、是非、私も端っこの端っこだけでも理解できるようになってみたいと思います。またその方が本を読むのであるとするなら
「キリスト教入門Q&A(教友社)森一弘著」「続愛とゆるしと祈りと新しいカトリック入門(サンパウロ)森一弘著」が良いでしょうと薦めていただきました。また、「キリスト教の本をお読みになる際は、著者がどんな人か注意された方がいいと思います。中にはとんでもないものも交じっていますので。」とのこと。
今はジックリ物事を考える余裕がないので、是非KLに行ってから読ませてもらおうと思っています。
どうも有り難うございました。
私がなぜこんな事を書いているかと言うと、その方から頂いたコメントの内容ではなくて、そのコメント全体に漂う特殊な雰囲気のことを書きたいのです。決して危ない雰囲気といのではありませんからね。(笑)
優しいんです。柔らかいんです。暖かいんです。
話の内容じゃなくて、それに私はびっくりしました。実はそういう経験って結構ありまして、チャットでほとんど毎日会うロサンゼルス在住のオバサン(笑)がいるのですが、彼女は毎週教会に通い、奉仕活動に頑張る人なのですが、やっぱり雰囲気が同じ。まぁ、チャットですからバカ話をし、くだらない内容も多いのですが、彼女は同じような雰囲気を持っているんですよ。柔らかくて優しい。そしてバカじゃないかと思うくらいのお人よし。人を疑う事さえ知らないんじゃないかと思うような人。
そういう知り合いがチャットの友人の中でもう一人いるんです。彼女はカソリック関係の学校を出たようなことを聞いた覚えがあるんですが(定かじゃない)、宗教じみた話は一切したことがありませんし、話の中に神や聖書やキリストが出てくる事も全くないし、教会に行ったなんて話も聞いたことが無い。愛がどうだとかそういう話も全くしない、普通の関西のオバちゃん。でも話をしていると、この人はカソリックなんだろうなってのがわかるんです。本当に優しい。で、その優しさには妥協がないというか、なんていうのかなぁ、世間一般で言う口先の優しさじゃないんです。逆に、駄目なところ、偽善に対してはグサッと指摘をするのだけど、全体を覆っているのがいわゆる優しさであり、愛情深さであるのをバカな話をしている中でも強く感じるんです。もう付き合いは何年になるのかなぁ、7,8年かな。その人が怒ったこと、愚痴った事を一度も聞いたことが無いんですよ。これって多くのチャット友達がいますが、こういう人はまずいない。
ただ、「悲しい」って話は何度か聞いたことがあります。それは親友の旦那さんが亡くなったときでした。あとはなんだっけ、忘れました。(笑)
この人も不思議な人で、息子さんが大事故を起こして入院したことがあるんです。でもそのことをチラっと一度聞いただけで、普段一切それさえも口に出さない。チャットの中で付き合いのある他の人で、その事実さえ知らない人も多いのじゃないかと思うくらい。また自分のことを一切話題にしない人で、でも他人の心配事や悩みは相手が話し続ける限り何時間でも真夜中でも聞き続ける人で「もう遅いからそろそろ・・・・」と言う言葉も一度も聞いた事が無いんです。私はこの人のことはチャットの中のマザーテレサだと思って(笑)尊敬しています。
この今回コメントを頂いた方、そしてチャット友達であるこの二人。この3人が持つ雰囲気があまりにも似ているところに興味があります。これがカソリックの力なのかと。そしてそれは私みたいな理屈っぽいのが頭でわかったつもりで口先でゴチャゴチャ言うのと違って、普通の言葉、雰囲気、生き方に「神と共に生きている人」なんだなってのがこちらにも伝わってくる。
これって凄い事だと思うんです。
何を信じているかとか、教義は?その解釈は?とかそんなことはどうでも良くなるような愛のパワーとでも言うのでしょうか、頭でわかってるつもりの能書きタレじゃなくて「実践者」としての凄みを感じるのです。
仏教関係の知り合いでこういう人はまずいないし、随分前にお坊さんじゃなくて「先生」と呼ばれる、うーむやっぱりお坊さんか、凄い雰囲気と霊力とでも言うのでしょうか、不思議な力と雰囲気を持った人がいたのを覚えている程度。
神道系の人には俗っぽさを感じることが多いです。でも本当のことを言うと、私には神道があっている気がしています。極端なことを言うと神道には教義もなければ聖書やお経に当たるものもなく、祝詞はあるものの、基本的には「神と共に生きる」これしかないと言っても良い位だと思っていて、しかしいい加減だというわけでもなく、なんとなく惹かれるものがあります。
ま、頭にどんな理屈を突っ込むかは人間としてたいした問題ではなくて、どう生きるかと言う点でカソリックの凄さはわかるわけで、正直なところ、「原罪」も「十字架」も私にはどうでも良くて、どうして人間があそこまで優しく暖かくなれるのか、その辺を知りたいと思いました。
これは私がうっすら感じることとして、神道でも同じだと思うのですが、常に自分は神に抱かれている安心感、つまり表現はおかしいかもしれませんが「赤ん坊が優しい母に抱かれて微笑みかけられている状態」、この感覚を常に持っているのではないかと思うのです。だから心が揺れないし余裕がある。怖いものは何も無い、絶対の安心、安楽があるんじゃないかと思うのです。
実は私が宗教に求めるものがあるとすれば、その絶対的な安心と安楽であって、これは仏教が言う悟りの境地とほぼ似ているとも思うのです。物事の理屈や教義がどうのじゃなくて、「私には何も心配するものが無い」という境地。これが宗教の真髄だと私は思っています。
で、私が宗教好きなのは、私は常に心配と不安、恐怖に取り囲まれて幼い頃から生きてきたからかもしれません。今は歳もいい加減とって来ましたからずーずーしさと、また不安を跳ね除ける強さも出来たのだろうし、また慣れもあるだけのことで、実は心の中の奥の方に、ひざを抱えてめそめそ泣いている小さな子供である自分が今でも存在しているのがわかります。
私はその顔も上げずに泣き続ける幼い自分に声をかけて、ほら、顔を上げてごらん、笑ってごらん、と何十年も話しかけているのに、彼はイヤイヤをしてひざを抱えて泣くばかり。
この彼と私がどう対峙して、彼から笑顔を引き出し、手を引っ張って太陽の下に出すかというのが私の人生の最大の、そして最重要の仕事であると思っています。私の中に変に攻撃的なところがあるのはこのブログの読者は気がついていると思いますが、その原因はまさにその心の中の泣き続ける子供に関係しているはずだという自覚があります。
ま、今回の方やチャット友達の様な優しさや暖かさを感じると、きっとあの中に私が追い求めている答えや方法があるのではないかと思うときがあるのです。
とにかくそういう意味でも、KLに行くのは私にとって重要で、KLに行ったらそういう事も含めて自分の人生の総決算、総仕上げの作業に入りたいと思っています。
あ、そうそう、そのコメントを頂いた方ですが、初めてコメントを頂いたにも関わらず、実は私がこのブログを始めた頃からのファンだとのこと。いつからこのブログを始めたっけ?最初はどんなことを書いていたっけ?なんて思ったのですが、こんなブログを初期の頃から読んでいる方がいらっしゃるのを知り、本当に嬉しかったです。
どうも有り難うございました。
最後にうちのヨメさんのことを書いておこうと思います。
この人も本当に変な人で、彼女は福岡のカソリックの学校を出ているのですが、グレースなんてひっくり返って笑いたくなるようなクリスチャンネームを持っています。酒が大好きで教会も行かなければ聖書も持っていないし、まぁ、真面目なクリスチャンとは思えない。
でも性格的には私には異常なほどきつくて鬼としか思えないのですが、他人に対する思いやりもこれまた異常なほどなのです。その事はたまにこのブログでも書いたりしましたが、人の為に何かをしだすと自分が消えてしまうようなのです。目の中には相手しかいなくなる。
これって仕事をするときでも同じで、とにかく一生懸命やるし、家庭を振り向かない猛烈社員みたいです。これが判っていますので、私は彼女に仕事をさせたくないんです。家庭がきっとメチャクチャになりますから。
ただ今では子供達も巣立ちましたし、彼女にやりたいことをやらせるのも良いかと思うようになったんです。というか、私が彼女を牢屋に閉じ込めていたようなもので、本来の彼女を彼女は出し切れずに今まで来たような気がしないのでもないのです。
ただ、本当に自分がなくなってしまうくらい尽くしますから、お金を持たせたら大変な事になると思います。自分の子供のおもちゃを取り上げてでも欲しそうな顔をしている子供にあげちゃう人ですし、詐欺師に泣き付かれても簡単に落ちそうだし、平気で全財産を出しちゃいそうです。
そんな話を彼女とすると、「あんた、バカじゃないの」っていつもの言葉が出てくるわけで、そんなことするわけないじゃないって言いますが、それって冷静だからそう言えるわけで、相手しか見えなくなったときにはどうなるか誰にも判りません。
我が家は商人の家ですから、結婚当時に私の母に彼女がしっかり教え込まれた事があります。
「金を隠せ、旦那に絶対に全部見せるな」
ということです。これは私もその通りだと思う人生の鉄則だと思っています。私からもヨメさんに何度となくそれを言い続けましたから。つまり、仕事をするのが男だとすると、私もそうですが、よし!ここだ!と思ったときには平気で全財産つぎ込むんですね。会社なら借金もするが普通。そして足りなくなると、まず女房に聞くのが普通です。「おい、もうないのか?」って。
ここで全部出すような女房だと非常にうまくないわけです。全額出したらまたそれを全部つぎ込む愚かさが男にはあるんですね。「チャンスは今しかない」というのが決まり文句。これは私も何度かそういう心理状態になったことがありますから、よくわかります。
でもその度に金を出していたら、ほぼ100%その家庭はいつか崩壊するんですね。だから持っていても隠せ、絶対に全部見せるなってことです。実は母がそれを実践して、我が家の危機を何度か乗り越えた事を私はこの目で見てきましたし、間違いの無い鉄則だと思います。
かつてオヤジの会社がうまく行かず、もう駄目だと手を上げて、どうにもならないから会社も閉めたい。でも閉める金さえないから倒産だという時期がありました。ご存知だろうと思いますが、会社って大きくするのは簡単で、縮小あるいは閉鎖するのが非常に難しいんですね。大きくなるときにはお金がどんどん回りますが、縮小するときにはお金がない、それなのに支払いは大きいということがおきる。閉めるほどだと売り上げはゼロで支払いだけは毎月、それも経費だけじゃなくて今まで振り出した半端じゃない額の手形をこの先、何ヶ月にも渡って落とさなくてはならない状態に陥るわけです。ですから大変な額の金がいる。
オヤジは今までにもう金はないのか?と母から引っ張るだけ引っ張っていましたからもう家には金がないと思っていたわけです。ところがその様子をじっと見ていた母が突然「金ならあるわよ」とどこに隠していたのかと思うような大金を出した。で、会社は無事に閉鎖でき、家も助かったということがありました。それも数回。(笑)
私の母は、
「どんなに飢えてもお握りをもう一つ隠しておいて、それには絶対に手をつけるな。それが女房の役目。」
という言い方を良くします。これは母からも亭主である私からも何度も言われていますし、今ではそういうものだとうちのヨメさんも信じているようだし、判ったような言い方で若い女友達にそんな話をしているのを聞いて微笑ましいと思ったりしています。
ところがですね。もし彼女がボランティアに打ち込んだ場合、その最後の一個のお握りも出すタイプだというのが私にはわかるんです。もし、もう無いと言いながら、自分や家族のために一個のお握りを隠していたとしても、また別の飢えた人が目の前に出てきた場合、彼女は躊躇なくそれを出すと私は思っています。
子供をちゃんと育てなくてはならない家族の一員として私は彼女にそういう行動を認めるわけにはいきません。でももうそういう時期は過ぎたんですね。子供達はまだ学生ですが、彼らの生活費と学費だけ私がどうにかすれば良いだけのことで、ヨメさんの親としての責任、義務はもうないと思うのです。
だからこれからは自由にやらせてやろう、そんな気がしています。実は、結婚する前に、いつかお金を儲けたら老人ホームと孤児院を併設した施設を作ろうねというのが私達の夢でした。私はもうそんなことは考えていませんが、彼女もボランティア好きなのはわかっていますので、彼女がやりたいことがあるのならやらしてやろうと思うのです。
「何を今頃。もうそんな元気なんかないわよ」
で終わりかもしれませんが。(笑)