次男坊のことを書いたので長男のことも書いておこうか・・・。
しかしこの2週間、私の頭の中は長男のことで一杯。子供がどういう道に進みどんな人生を送るのか、それは彼が自分で決めて自分の力で歩んでいく道だろうと思うのだけれど、親としてそれを見ているだけで良いのか。相談には乗るという程度の関わりで良いのか、その辺が気になっています。
それを考え結論を出すにはそれぞれの子供の適性や能力を前提にしなくてはならないのだけれど、それを考え出すとそもそも人間として、あるいは男として、日本人として、そして我が一族の一員としてどうあるべきか、彼にとって何が幸せなのか、そして私自身がそれに関してどう考えてどう生きてきたのかを含めて原点から見直す必要があるようで、それを考え出すと結論なんか遠のくばかりなり。
ただ世の中には常識があって、子供は学校へ行き、勉強し、そして卒業し、就職するという一つの流れがある。そしてそれを誰しもが当たり前のこととして考えているし、多くの人たちはその様に生きているし、子供ももちろんそういう道を行くと考えている。
それで良いのか?
ここが私にはわからない。学校を出たら就職という当たり前のことが本当に当たり前なのか、それがわからない。
自分はというと就職はしないと決めていた。それは金銭的なことであり、自由でありたいという強い願望、そして10代のときにグアムやアメリカで見た日本人とは全く違う価値観のせいだろうと思う。また商人の家に生まれ育ち、他人様に食わせてもらうのではなくて自分で稼いで食うのが当たり前の環境だったことがそう思うようになった一番の原因かもしれない。私の両親の家系である叔父叔母、また従兄弟連中を見てもサラリーマンは数えるほどしかおらず、自営業、あるいは小さいながらも自分で事業を興しているのがほとんど。そして私の一番身近な男である父親もそうで、彼がサラリーマンをした経験は仕事を覚えるために1,2年勤めたことがある程度のはず。
リスク。これがキーワードだと思うのだけれど、もう時代遅れの私が世の中を見て感じることは商売が非常に難しくなっていること。昔はビジネスチャンスはいくらでもあったし、まぁ、それはいつの時代も同じなのかもしれないけれど、例えば昔は海外に出てみると単に右から左へ商品を動かすだけでも商売になるようなネタはいくらでもあった。でも現代は世界の隅々にまで商社マンが入り込み、そんな地域差を取る商売は簡単ではない。また昔は人件費が非常に安かった。そしてスーパーだのショッピングセンターもなく、価格競争の厳しさは比べ物にならないと思う。また商人の世界には大企業は手を出さないという不文律みたいなのがあったと思う。寿司屋蕎麦屋ラーメン屋が良い例で、どこの町のどの商店街でも彼らが食っていくことが出来た時代があった。これは八百屋、魚屋も同じだろうと思う。また今では当たり前の薄利多売という考え方も昔は一部の業者がやることであったような気がする。高級店は高級店で生きる道があったのに、今では名だたる老舗の殆どが消えていってしまっている。
小売店では無いにしても、昔はファックスもなければコピー機もなく、郵便と電話と電報(テレックス)などでやり取りしていて現代と比べるとその仕事のスピードたるや自転車とスーパーカーの違いがある様にさえ思う。今はどんな業種でもこのスピードが当たり前で、仕事に必要なIT技術や起業に必要な必要資金も桁違いになっている。
やる気があればどうにかなった時代。そんな時代があった。でも今は違う。
まぁ、そんな昔と今との違いがあろうがなかろうが、大事なのは個人のやる気であり、夢であり希望のはず。どんな時代でも道を切り開く人はいて、その志とやる気があればどうにかなるのかもしれない。
さて、内の子供達にその志と夢があるのかどうか。ここが問題。
子供って不思議なもので、全く同じに育てた兄弟なのに考え方も性格もまるで違う。これって親がいてもいなくても関係ないのかと思うくらい。そもそも人間一人ひとりにはとてつもない能力があって、それが開花するかしないかはあくまで個人の問題で、親は関係ないのか。ただ、親も環境の一部であることに間違いは無いわけで、人間は環境に左右されるとするならば親の存在意義もあるのではないかと思う。ただ、その親の関与が子供が育つ方向にプラスになるのか、それとも子供の将来性を潰してしまうのかがわからないし、もしかしたら関与しないという選択の方がうまく行くような気がしないでもない。
次男坊を見ているとそれを感じるわけです。彼は小さい頃から自立心旺盛で、負けず嫌いの努力家。こういう子供を育てるのは親としては楽勝で、人の道に外れることが無いように注視しているだけで良いと言って良いくらい。自分で夢を抱き、それを成すためには何をするべきか自分で考え、その道をまっしぐらに進んでくれる。だから次男坊に関しては私は全く心配がなく、彼が悩む時にはちゃんと相談してくるし、でも親の勧めをすんなり受けるような子供でもないのだけれど、「後悔するようなことはするな」という一言でいつも話が終る。いや、後悔するようなことはするなじゃなくて、やってしまってする後悔じゃなくて、やらなくて後悔する方が辛いから、自分が良いと思うことなら躊躇することなく進めと私は言うし、次男坊もそれに応えてどんどん前に進むし、猪突猛進なところはちょっと気になるのだけれど、問題があれば自分で修正する能力があると信じているのでこれはこれで良いと思っています。
さて、長男。
彼には夢があるのだろうか。志があるのだろうか。彼は自分の思いをガンガン表面に出すタイプじゃないので一体何を考えているのか見えないことが多い。ただ少なくともお金とか権力、地位名誉、そういうものに全く執着がないことだけはわかる。次男坊は真逆。(笑)
こういうのって困るんですよねぇ。私の生きかた、私の考え方では、最終的に結果がどうであろうとやる気がないってのは致命傷だと思っていて、優しさだけの男で良いのかどうか。
でも逆を言うと彼の優しさって半端じゃなくて、事業じゃサラリーマンじゃなくて、もしかしたらボランティア系のNGOにでも勤めて、弱きもの達を助ける方面に行ったら才能を開花させるかもしれないと思うくらい優しい。長男のあだ名って変で、昔から彼をパパと呼ぶ女の子が少なくなかった。これもまた彼の優しさ故かもしれない。また次男坊の卒業式でシドニーに4泊し、その間、ずーっと長男と寝起きし(女房は一人(笑))、彼とは30時間以上ああじゃこうじゃと話し合ったのだけれど、どう考えても実業向きではなくて、もしかしたら僧侶にでもなったほうが良いんじゃないかと思うくらい、彼の中の重要事項って一般的じゃないのがわかった。実はかく言う私もその傾向があって、私はいつか出家すると若い頃には言っていたくらいで、彼の気持ちは手に取るように良くわかる。
自分の夢とか生きがいとか、命とか、そもそもそれは一体なんなのか、どれほどの価値があるものなのか、より価値があるものにするにはどうするべきなのか、そういう発想の仕方を長男はする。つまり、お金が必要なのはわかるけれど、ではお金をどう稼ぐかではなくて、その金を稼ぐことそのものがどういう意味があるのか、そういうことを突き詰めて考えるタイプ。
お前の行動原理の一番奥深くにあるのは悲しみだろ?と言ったら長男はびっくりしていた。どうしてそれが親父にわかるのかと。そんなことはすぐにわかるんですね。私も全く同じだから同類は匂いでわかる。(笑)
こういうところは私譲りで、親に似ることもあるんだ、なんてちょっと嬉しく感じるところでもあるんだけれど、彼と延々話した中で私が彼に伝えたことは「下手な考え休みに似たり」ということ。考えても考えても、考えただけでは何も生まれないってこと。まぁ、当たり前の話なんだけれど、こういう結論が出ない観念の中にはまってしまって身動きができなくなるのは私も全く同じで、若い頃から頭でっかちとか、理屈ばかりで身体が動かないとか、行動力の欠如はよく指摘されましたっけ。だから今の長男を見ていると自分自身を見ているような気がします。
彼にとって何が良いのか。彼が自分の居場所、進むべき道を見出せるのか。これは彼自身が動き出して、走りながら常に変更を加え、時には後戻りすることも含めて自分で見つけるしかないんですね。でも今の彼は、走り出す前に、どこへ向かおうか考え続けているような状態。エンジンは掛かっていてもシフトレバーはパーキングに入ったまま。
人としての幸せは「自己実現」にあると言われる。これはその通りだと思うけれど、これって俺はマラソンでどうしてもオリンピックで金メダルを取りたいと10キロさえ走ったことの無い人が思うのに似ている部分があって、夢があるのならそれに向かって進め!なんて簡単に言えることではないし、それが言えるのは何の責任も無い赤の他人だと思うわけです。本人の能力なり努力なり、運なり、可能性を無視してその道に行けとは親としては言えない。
かと言って妥協して生きろとも言えない。グズグズ言う前にどうやって食うんだ?それを最初に考えろというケースが多いと思うのだけれど、それで消えていく才能もあるはずで、これも私としては言いたくない。
ではどうやって食うんだ?女房は子供は?
ってな話が現実的には出てくるわけだけれど、ここで我が家の事情が出てくる。
我が家には子供に譲れるような家業は無い。でももしそれがあって、それで食うことを確保できるのならそれはそれで副業としてやりつつ、自分の夢を追うということも出来る。なんとも贅沢な話だけれど、そういうケースは決して稀ではないはず。でも我が家には子供達に譲れるような家業は無い。
でも耕せば食うには困らない田畑はある。また目の前には魚がわんさといる海が広がっていて、小さいながら漁船もあるとしたらどうだろう。私が悩むのは我が家はこういう状態であるから。もし何も無いのであるならば、とにかく出稼ぎにでも行って食える状態を作ってそれを維持するべきだと言うしかないと思う。これが世の中の大半の人たちがしていること。でも出稼ぎに行かずともどうにかなるかもしれないものがあるのなら、そしてそれが決して保証されたものではないにしても、大きく伸びる可能性があるのだからそれに賭けてみるのも一つの生き方ではないだろうか。
そうしろと言えば、きっとそうすると長男は答えると思う。彼にはどうしても成し遂げたい夢がまだ見えていない様だから。
これがまた私としては困る部分で、長男がそうしたいと言うなら反対はしないし、その道で大きくなれる方法を一緒に考えていこうと思うし、私が知っていること、出来ることは全て長男に伝えたいと思う。でも、私からそうしろとは言えない、言いたくない。
ただ彼の場合、やる気がないように見えるのだけれど、それは俗人から見るからそう見えるのであって、彼の哲学として人間に大事なのは金でも権力でも地位名誉でもないという結論はとうの昔に出ている様子。そういう人の欲望を開放し、それを善となす世の中だから経済的発展も(戦争も)あるのだけれど、そもそもそういう世界には意味がなく人類の滅亡という終着点にまっしぐらに走っているようにしか見えないのだろうとも思う。これは私も一理あると思うどころか全くその通りだと思っていて、でもだからといってお金を否定して生きることは不可能。その自分の考える理想の世界と現実とのハザマに彼ははまっているんじゃなかろうか。一般的なあるいは親が喜ぶようなバリバリのやり手というのは彼にしてみると彼の信じる人間のあるべき姿と違うのかもしれない。
これは実は私も通った道でもあって、私の場合は金だ権力だ地位だ名誉だとそういうくだらないものを否定するためにこそまず金の呪縛から逃れる必要があると思ったわけです。金の呪縛から逃れるとはそれに勝つ、それを制するということでもあって、決してそれを追い求めるということとは違うし、もちろん背を向けて生きることでもない。もし彼が私のその考え方に賛同するのであれば、これこそ鉄壁の強い親子同盟ができるわけで、私が日ごろグチャグチャ言っているだけの奴隷からの開放だとか平民の逆襲だとかが、将来的に実際の行動として何かが出来る、現実味を帯びてくるような気もするのです。そしてその私の理想を具現化できる人がいるとするならば、それはまさに長男のような考え方を持った人間でないと駄目で、欲とは何かを自分の中で昇華しきれていない次男坊にはできえない。というか、彼はまだそこまで至っておらず、欲望を開放して行き着くところに何があるのかを彼はこれから見ることになるはず。
次男は出稼ぎに出て、自分の力でのし上がろうとする道を選んだし、私も彼にはそれが出来ると思う。でもそういう彼にもいつまでも出稼ぎばかりはするな、40になったら考えろと小さい頃から言い続けていて、彼が我が家とは全く関係の無いところで地盤を、自分の世界を築き上げることを期待している。あるいは彼が帰ってきたくなる我が家を長男と一緒に築きたいし、本当はそれが私の夢。次男坊が出稼ぎの中で見、聞き、体験したことは大きな、大切な彼の栄養、基盤となるはずだし、それを活かせる世界を私と長男と築いて、いつか将来的には金融と会計のプロになっているであろう次男坊を迎え入れて兄弟力を合わせて我が家を違う次元(金持ちにという意味ではない)に育てて欲しいという私の夢がある。実はこの計画は彼らには話していて、出来ることならやってみようという話にはなっている。
でも、出稼ぎもせずに父と共に畑を耕し海に漁にでることしか知らないような大人になる長男はそれで良いのか。
ここが親としては考えてしまうところであり、ましてや彼が望んだ道ならまだしも、親がそう決めたとしたら、私としては一生涯、長男に対する懺悔の気持ちを持ち続けないとならないような気がするわけです。
しかし、世の中の農家、漁師、あるいは商店や中小企業の親達は一体どう考えているんでしょう。今はこんな時代だからもっと良い道に進んで欲しいなんて願う親の状況もあるだろうけれど、そこそこやっている人たちの跡継ぎ問題って大問題だろうと思うんだけど・・・
でも、これもまた考えても考えても答えなんか出るはずも無く、そういうところがこの親子はそっくりなわけ(笑)だけれど、まぁ、とりあえずやってみて、嫌なら、あるいは駄目ならまたそこから考え直すということで良いかと、ぐちゃぐちゃ考えることを放棄したくなっているのも事実。
まぁ、長男は彼は彼なりに考えて、今、就職戦線で頑張っています。長男が学んだ道は潰しは利くけれど次男坊みたいに専門職とは言えない分野なので、たとえバイリンガルだとしてもなかなか就職は難しそう。でも働く気があればどんなところでも仕事はあるわけで、単に就職という意味で言えばいつかは就職するのだろうけれど、単に食うための出稼ぎなら、私はそれはやめろと言いたいし、その衝動を抑えることができません。またそんな程度の就職なのに、俺はこの世界でやっていくんだ!なんて無理やり自分を追い込むようなこともして欲しくありません。妥協は時間の無駄。
と言いつつ、社会に出て、1万円稼ぐ大変さを体験し、金の無い怖さも理解し、大きな組織の一部品となる悲しさ悔しさも体験し、そして自分がやる気を出さなかったらどうなるのか将来の姿もしっかり想像し、と同時に、社会の仕組み、組織として動く面白さ、組織の力、それを知るのも大事で、その後、いつか彼の意思で彼の夢として、我が家に帰ってきて欲しいと思っています。
それがいつになるかわからないけれど、その時を想定して私も準備をしたいと思うし、またその時が我々がマレーシアにお国替えをする時とも重なるはずで、これも何かの縁かもしれないし、その時を待ちたいと思っています。ただ、私には時間が多くは残されていないってこと。あと20年生きているかどうかもわからないし、元気で頭も回転するのは10年に満たないかもしれない。例えば、もし私の目がもっと悪くなってモニターを見続けることさえ難しくなったらこの話は全て水の泡になるわけで、それを考えると、長男が下手に妥協して自分の理想も曲げて、本音では働きたくも無い企業に就職するなんて愚の骨頂とも思えてくるわけです。
長男よ、君の考え方一つで、君の将来、我が家の将来も大きく変わるってことです。(笑)
(平民の逆襲の話を長男にしたことはないのだけれど、もしそっち方面から話を進めたらかなりその気になるような気がしないでもない。私はどうしても生きるのに必要なお金とか収入の維持という一般的な観点から長男の将来の話に持っていってしまうけれど、その先には奴隷からの開放とか平民の逆襲という私の執念があるわけで、一般論ではない私のそういう拘りの方が彼の心を動かすかもしれない。)
数年後、この日記を読み返す頃にはどうなっているのかな。楽しみ、楽しみ。
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次男坊の日記で紹介した子供のときの出来事ですが、長男にも忘れられない出来事があります。その日記を紹介します。
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