子供の教育 点と線

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子供の教育に関して日ごろ思っていることがあるので、それを書きます。

まず私は子離れできていない親だという自覚があります。ただ子離れできないとはどういうことかというのがはっきりわからないのですが、子供が大きくなっても気がかりだし、常に教育は続けるべきだし、社会に放り投げればよいとは全く考えていません。

子供を社会に送り出せば、子供が勝手に学んで行く、社会が子供を教育してくれるという考え方がありますが、私はこれはかなりの危険思想だと考えているくらい。

社会は大事なことは何も教えてくれない。学校も同じ。これは私の経験上、そう思うだけですが。

では大事なことは誰が教えてくれるのか、子供達はどう学んで行くのかということですが、これは環境に左右されることだと思っています。それなりの環境、あるいはそれなりの人や出来事との出会いの中で学んで行く。ではそういう出会いがなかったら?

また親も環境の一部であるからして、親が教えられることは教えるのが当たり前であって、それも小さい頃に教えること、ものごころが付くころに教えること、そしてある程度の歳にならないと理解できないこともあるわけで、親が子供に教えるという作業は私は一生涯続くことだと思っています。ある時期に、はい、ここまで、あとは自分で歩んでいきなさいと突き放すことはできないし、そうするべきだとも思っていません。人生は一生勉強だと思うのですが、親は子供にとって利害関係がなく、どんな教師よりも真剣に考えているわけで、親の子供を助けるという行動にも終わりはない。また上司は部下を育てるのも仕事の内だけれど、親子関係とそれと似ているものがあるはずで、父とは子供の社外上司みたいなものであると思うわけです。

こういう考え方を私は持っているわけですが、この考え方自体を「子離れできていない親」という括りでくくるのは間違っていると思うのです。

結婚するときに花嫁は白無垢、あるいは白のドレスを着る。これは真っ白のままで新しい環境に馴染み、その色に染まって行きますという意味だろうと思うのですが、こういう考え方が子育てそのものにあるのが一般的ではないでしょうか。社会で生きていくために最低限必要な常識を躾という形で子供に教える。そしてそのまま社会に送り出して、就職だとすればそれは結婚と同じで、あとは貴方の、御社の好きなように色づけしてくださいという考え方ですよね。

私はそういう考え方は馬鹿げていると思うわけです。

これって奴隷生産システムとしか思えない。

そりゃ受け取ったほうは有難いでしょう。余計な知識や考え方も持ってないほうが育てる、色付けする方は楽だし、どんな馬鹿げた理屈でもこれが世の中だ、常識だと洗脳できるんですから。

あるいは、ある程度の歳になった子供を知人に託して育ててもらうことも良くある。昔から良い商家に丁稚奉公に出すのもそれだし、友人の会社に「是非、息子をしごいてくれ」なんて就職させることは今でも良くある話。

でもこれって、自分が親としての教育を放棄しているともいえるはずなんですね。あるいは自分には子供を教育するだけの力がないと認めたことになる。もちろん親の出来ることって限られていて微々たる範囲でしかなく、それ以外は外で学ぶしかないわけですが、でも親は最低限のしつけだけすれば良いわけではないはず。いや、それどころかそれも親はせずに、しつけさえ学校でどうにかしてくれると思っている親もいる。まぁ、それは論外にしても、親は子供に教えられることがあれば教えるのが当たり前だと私は思うわけです。

もちろん子供がそれを望んでいないのなら無理ですが、そんなのは親子関係じゃなくて普通の人間関係でも同じで、影響を与えられるかどうかは相手が望むかどうかじゃなくて、こちらの出方やり方次第だと思います。教えるという書き方をしましたが、実際には教えるという態度を親が取ると相手は逃げるわけで、一緒に問題解決する、ケーススタディを考える、世の中の出来事に沿ってお互いの考え方を述べるという習慣の中で、結果的に教育するのと同じ効果は得られるはずなんですね。

どの家にも家訓なり、家としてのプライドなり教えってあると思うんです。私の様に商人の家に育てば、商人としてどうあるべきかというのは毎日の生活の中で嫌でも覚えていくし、また親は機会あるごとに教えるし、その内容はわからない人は何歳になってもわからないような内容も含まれているわけです。あるいは昔の武家がそうだったように、生き方のはっきりした指針があって、それを子供に伝えるのは当たり前のこと。また論語を読ませたり孫子の兵法を学ぶのは常識だった。これはしつけというより生き方そのものを教育するということであったはずだけれど、では今の時代、一体親は子供に何を教えているのか?

何も教えていないと言って良いくらいかもしれない。そんな風に私は感じるのです。そして教育全般は学校にまかせっきり。では学校を出たら?次は社会にもまれて勉強しなさいなんて、こんな親としていい加減なことはないんじゃなかろうか。

つまり、現代の子供の教育は、点で終っていると思うんです。親と子供が線で繋がっていない。ただの個人、個人としての点が存在するだけ。

でも一番最初に書いたように、これは奴隷社会では好ましいことで、新しく入ってくる者は何も知らない、余計な知識もない方が洗脳しやすい。使いやすい。花嫁も同じ。(笑)

どうして世の中はこんなことになっちゃったのかと思うのですが、やはりこの根底には花嫁の白無垢や、お家に奉公するという「滅私奉公」的なものを尊重する文化があるのでしょう。

でも間違いがないのは、それはその当事者にとってはただの奴隷と同じ、買ったばかりのPCには余計なデータやプログラムが入っていないほうが良いのと同じで、使うほうが喜ぶだけのことじゃないでしょうか。

つまり、親子は線として繋がっていなくて、点として分断されているほうが社会にとっては都合が良いということ。

では社会の方はどうなっているか。これは武家も商家も現代の会社もそうだけれど、彼らは決して点じゃないんですね。過去から綿々と繋がる線の上に成り立っている。知識もノウハウもそして資産も過去のものを引き継ぎそして上乗せして維持し大きくなっているはずで、決して分断されてはいない。

例えば「美田を残すな」なんて言葉を誰が言ったのか知りませんが、こういう言葉の真意を理解せずに、子供には何も残さないほうが良いような考え方をするのは大きな間違いだし、美田を残すななんて言いつつ、相続税が増税になるとブツブツいうならそれは馬鹿としか言えないはず。

そもそも例えば農家が一代限りという法律があったらどうなる?農地を相続できずに全ての農家の子供はゼロスタートだったら?

あるいは会社も同じで、社長が退陣したらその会社も終わりで、次世代は新たに会社を設立しなくてはならないとしたら?

そんな馬鹿な話はないわけで、でも個人に関しては、何も持たないゼロからスタートすれば良い。勉強は社会に出てからすれば良いなんていう思想があるのは頓珍漢も甚だしいと私は思うわけです。

例えば国も同じで、元首が死んだらその国も解体だとしたらどうなるのか。それじゃ周りの国が喜ぶだけでしょう。

これは個人の世界も同じで、無垢で何も知らない、何も持たないゼロスタートが当たり前だったら一体何のための親子かと思うわけです。

まぁ、100歩譲って、「美田を残すな」という言葉に意味があるとしても、それは「美田をそのまま渡すのは愚行」という意味だと思っています。これは遊び盛りの子供に1000万円好きに使えと渡すのと同じですから。でも残し方一つでその美田はいかようにも生きるのは誰でもわかっていること。

要は残すことが悪いんじゃなくて、残し方の問題でしょう。

今はサラリーマン社会だから、サラリーマンとして最適な人物を送り出すのが親の役目となっているのかもしれませんが、私としてはそれには断固反対したい。

本来、国も社会も会社も、そして個人も全く同じで、それらは過去から綿々と続く線の上に成り立つべきで、決して点として分断してはいけないと私は信じています。

まず、親子が線として繋がること。それがうまく仕組まれた現代の奴隷社会から抜け出るために最初にやるべきことだと思うし、親子は分断されうまい具合に社会に使われてしまう平民として逆襲(笑)を考えるのであるならば、平民同士のつながりを強化しなくてはならないし、それの第一歩が親子の絆、線を維持することだと思っています。

親が子供に教えるべきことってたくさんあると思うのだけれど、どうして世の中ってこんな大事なことを子供に教えないのかと思うことが多々あります。それはまずお金のこと。これはせめて学校で、それも義務教育の中で教えるべきだと思うのだけれど、お金を貸し借りすると金利、利息が付くとか(この辺は教えてるか)、お金を使うとそこから生まれるはずの利益(得べかりし利益)もなくなるとか(これがわからない人はお金が溜まらない)、小切手とは、手形とはとか、白紙委任状や個人保証って何なのか、そんなことさえ学校では教えない、親も教えないって本当に不思議だと思います。

特に個人保証に関しては昔から思うんだけれど、友人の保証人になって引っかかって一緒に破産したとか、勤めている会社から保証人になってくれと頼まれた従業員がこれまた一緒に破産したとか、何年も死に物狂いで働いて他人の借金を返したとか、そんな話は嫌になるほど見聞きしてきました。つい数年前も私の友人の子供がその友達の保証人になって借金を背負い、何年も掛けてそれの返済をしたなんて話がありましたが、その息子さんは友人に頼まれたから深く考えずに判を押してしまったとのこと。どうして保証人の怖さを教えなかったの?とその親に聞いてもう~~~む、というだけ。

まぁ、その子供は身をもって世の中の怖さを体験したわけで、それはそれで良い経験が出来て良かったねと言うべきなのでしょうか。

また独立して結構うまく行っていたのだけれど、売り上げはほとんど手形なのにどんどん取引を大きくして結果的に連鎖倒産した友人もいたけれど、こういう話って私にしてみると何も知らない子供が小船に乗って大海にでちゃったのと同じに感じるんです。危機管理どころか、そこに危険があることさえ全くわからない人がいるのね。

で、こういう話って、社会に出るとよく耳にするわけで、機転の利くやつはピンとくるけれどボーーっとしてるやつは全く自分の問題として考えないし、やっぱりこういう大事なことは私は親がしっかり教えるべきだと思うわけです。社会に出てから学んだら遅すぎる。

またお金を貯めるには「得べかりし利益」を減らすことが大きなポイントだと思うのですが、もちろんそんなことを教える人は少ないし、社会は絶対にそれを教えないどころか、ローンの便利さを教える。

でも教えたくても教えられない親が多い時代なのかもしれない。躾がなっていない子供を見ると、親も似ているような気がするし・・・・

ま、とにかく、親が子供に教えられることっていくらでもあるし、でも教え方は難しくて、教えてやるなんて偉そうな態度だと子供は耳を貸さないし、教えたところでそれを理解できるかどうかはまた別だし、でも少なくとも話だけでも彼らの頭に入っていると、あああ、これがオヤジが言っていたアレかというのがわかるわけで、決して無駄にはならないと思っています。私自身、そういう意味でオヤジやお袋から教わったことが山ほどあるし、それを教えてくれたのはまさに親だったからで、赤の他人なら話題にもならないことがいくらでもあります。ましてや社会に出てからそういうことを学ぼうと思っても、社会とは自分側に立っていると思ったら大間違いで、勤める会社も自分を大事に育ててくれると思ったらそれは大きな勘違いで、社会とはその社会にとって都合の良いことだけしか教えないってことを親はしっかり自覚するべきだし、そもそも社会はそうなっていることをまず子供に教えるべきだと思います。

そんな社会でも素晴らしい出会いってこれまたいくらでもあるわけで、その中で大事なことを学び、また自分も教える側になり、手を取り合ってお互いに伸びる機会もあるわけだけれど、でもそれが普通だと思ったら大間違い。またその出会いはあくまで偶然であって、子供の将来をその偶然に任せることは私としてはしたくありません。

ま、親が子供に出来ることっていくらでもあるわけで、そうすることを「子離れできない親」と考えて放棄してしまうと、現代的奴隷社会の思う壺だと思うってことです。また、いつも書いていますが、我々は経済というピラミッドの最下層に存在する飼われた羊、カモみたいなもので、でも我々がカモであることによってそのピラミッドが存在出来えること。そんなことも子供に理解してもらいたいし、いつか自分を解放できる人間になってもらいたいと思ってます。

でも経済的に独立することが解放ではないし、真の自由とは何か、その答えは私自身まだ探している最中だけれど、せめてその自由を追い求める自由ぐらいは親の責任として確保してやりたいと思ってます。

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