自分で自分のことを保守だと言うくせに、ここに書いていることは反日ばかりじゃないかと思う人もいると思っています。南京大虐殺はあったと思うし、尖閣の棚上げ論もあったとか、また慰安婦に関する発言であの橋下は馬鹿だと断じ、最近のNHK新会長の発言もおかしいと、そんなことばかり書いていますから。
そして今回は靖国はおかしい、と。(笑)
でも私は今でも自分は保守だと思っています。ただ、無知蒙昧の日本美化だけはしたくないのです。事実は事実としてはっきり認識したいし、隣国のギャーギャー騒ぐ反日勢力と同じように、俺の言うことは全て絶対に正しいと言い張ることが良いとは思えないから。ああいうレベルに自分自身がなってしまうことが何よりも嫌なんです。
で、靖国ですが、以前から総理大臣や公人の参拝に対して海外がギャーギャーいうのはとんでもない、内政干渉だと思っています。それに関しては今でも同じ考え方なんですが、ではそもそも靖国ってなんだ?と自分で掘り下げて考えた事がなかったのに気がつきました。
で、調べれば調べるほど、うそだろ?みたいな事がわかってくる。私は単純に「国のために戦って命を落とした人(軍関係)」を祀る神社と思っていましたが、内容におかしな点がいくつかあるように感じます。
まず靖国神社の成り立ちですが、これは調べれば簡単にわかるように、ですからここではあえて書きませんが、ある時代、その時代にマッチした考え方を強化するために作り上げられた神社であって、日本古来の伝統の上に自然発生的に成り立った歴史のある神社とはまるで違うのは誰しも知っている通り。ここは結構大事で、他の神社と一緒に考えるのはまずいと思っています。
私が気になったのは合祀基準です。これは政府が決めるわけでもなく、今では一つの宗教団体でしかない靖国神社が決めることで、誰もそれに対して口を出す権利がない。でも、その合祀基準がどうも私にはすっきりしないんですよ。もともとは明治天皇のために命を捧げた軍人ということが、国のために命を落とした軍関係者となっているわけですが、では軍人全員が靖国に祀られるかというと全くそうなっていない。
「靖国で会おう」と心底誓った軍人がどれだけいたかは別の話として、そうだった軍人も戦争で命を落とさなかった限り全く関係がなく、帰還兵は祀られないところに違和感を感じます(あの小野田さんも駄目)。つまり、日本軍人としては超有名な乃木希典、東郷平八郎は祀られていない。どれだけ日本を守ることに命をかけても、戦場で死ななかった軍人は蚊帳の外。これっておかしな論理だと思いません?日露戦争に向けた訓練中に八甲田山で遭難し数百の軍人が命を落としたけれど、もちろん彼らも蚊帳の外。
日本は戦争に負けましたが、戦勝国はオーストラリアもそうですが戦勝記念日にはジーさん達が勲章を一杯つけて胸を張って行進し、それに沿道の民衆は惜しみない拍手を送る。これは本来、敗戦国でも同じであって良いはずで、国のために命を惜しまなかった軍人としては全く同じ扱いを受けていいと思うんですよ。だから靖国できっちり追悼するのは当然だと思うものの、当時は生き残って平時に死んだ軍人たちは蚊帳の外っておかしくない?
あるいは戦地で死んでも自殺であったとか銃殺刑にあった軍人も合祀されない。これは国(天皇)の為に命を捧げたのではないという理由。幕末の士も同じで政府軍でなければ合祀されず、幕府軍や新撰組は国賊扱いで合祀されない。また反乱軍扱いの西郷隆盛や江藤新平も合祀されていない。また2.26事件の関係者も反政府行動ということで対象外。
戦後では朝鮮戦争時にマッカーサーから頼まれて北朝鮮沖で機雷除去を行っていた掃海艇が機雷に触れて爆発。このとき殉職した海上保安庁の職員遺族が靖国に合祀してくれと申請したけれど、拒否。また、8月15日以降に戦闘行為(特攻)をした軍人達も合祀されず(後に合祀された)。
つまり「国の為に命を捧げた軍人(軍関係者)」と言っても、その範疇はかなり狭いのがわかります。犯罪者は合祀しないことになっていますが、ABC級戦犯は合祀した。まぁ、戦犯は戦犯か(日本国内では赦免)?あるいは罪を償った時点(例えば処刑)で戦犯でなくなるという考え方もわかりますが、その考えを取るのであるならば、過去に遡ってもその考え方を取るべきだろうと私は思うわけです。また日本は戦勝国が行った裁判しかしておらず、日本人があの戦争を総括することもしませんでしたよね。つまり、私は日本人にとっての戦争犯罪人は間違いなくいると思っていますが、日本は日本としての裁判をしていない。だから本来犯罪者とするべき人も合祀されていると思います。いやいや、彼らとて日本のためを思ったのだからと言うのであれば、旧幕府軍に付いた人たち、西郷隆盛は?2・26の首謀者達は?となるはず。矛盾してますでしょ?なぜ赦免しない?
ましてや戦闘員(戦闘員と同位の民間人含む)しか祀っていない、また平時まで生き延びた人は祀らない、もちろん一般の戦災犠牲者は全くの蚊帳の外。こういう非常に範囲が狭く、極端な言い方をすれば「死」そのものを差別した考え方に成り立った「戦没者」しか合祀していない、非常に特異な、偏った神社であると思うようになりました。この「戦場で死んだ者だけ(みたいな)」決め方に、そもそもこの神社の成り立ちに軍部が深く関係していることと無縁ではないと思います。戦意高揚の為に戦場での死を讃える必要があった。
これは、逆を返せば、幅広い意味で日本には「祖国の為に戦った人たち」用の国が関与する神社も墓地もないということ。私はこれのほうがよっぽど大問題だと思いますよ。ここは声を大にして言いたいところ。敗戦国だから仕方がない、なんて理屈を保守の口からは聞きたくない。今の私としては「靖国を超える」きちっとしたものを政府主導で作るべきだと思うように至りました(もちろんA級戦犯も入れる)。一宗教法人が管理する施設ではなくて、国がしっかりしたものを作るべき。過去は過去として何百年も先の将来を見据えて、(戦争に限らず)国や国民の為に命を捧げた人(どの時点でどう死んだかにかかわらず)を祀る場所が欲しいと思うようになりました。「日本を取り戻す」という考え方も、過去のある時点に戻るということではないはずで、我々日本人の文化伝統と照らし合わせて整合性の取れた日本になることだと思うのです。そういう意味で、靖国は日本として「これで問題ないのか?」と思うようになりました。
実はここを掘り下げると日本にとってうまくない話になって来るのですが、靖国神社には「鎮霊社」なるものがあるんですね。ここは靖国神社に合祀されていない幅広い戦没者たちの霊を祀る所。つまり、私が上に書いたことは「鎮霊社」があるから良いじゃないかということになる。ま、それもそうなんですが、私としては主従逆転していると思うわけです(靖国では本殿の祭神と差をつけている)。そして「鎮霊社」は「内外」の戦没者が対象になっていて「日本の」ではない。これがどういうことかというと、靖国参拝の本質って「戦没者」の慰霊ではなくて、「戦没者」の中でも「時の政府に対し」特に功労があった「一部の戦没者」を褒め讃える場所であるということが出来るんですね。生き延びた英雄達、時の反政府軍は蚊帳の外。これはあの有名な漫画家の小林よしのり氏が言っていますが、靖国神社は「特段に秀でた英霊達を『良く戦ってくださいました』と讃える場所である」ということ。だから「貴方達の霊を慰めます」という失礼なことをしてはいけないと、慰霊の参拝をしたとされる安倍氏を批判している。
私はこういう靖国の特殊性がもう海外にも知れ渡っていると考えています。だから安倍氏が「鎮霊社」にも参拝して、英雄だけを讃えにきたのではなくて、広く戦没者に慰霊しているんですよと世界にアピールしたとも言える(でもメディアの多くは「鎮霊社」に行ったことは報道していない)。私としてはこういう靖国の特殊事情を理解するのは大切だと思うわけで、靖国参拝は単純な「戦没者の慰霊」なんだと考えてはまずいと思うんですよ。つまりこの辺は反日勢力が指摘する部分も決して間違えてはいないことを認めざるを得ない。彼らのいう「戦没者の慰霊場所ではなく、戦意高揚の場所であった」、そして「勇ましく戦場で死ぬ」ことに主眼が置かれているという点も否定はできません。
また靖国参拝をアメリカのアーリントン墓地と比べて、同じじゃないかと多くの人、また政治家も言いますが、アーリントン墓地は全く違う。そもそもアーリントンは墓地であって、靖国は墓地ではないわけですが、基本的にアーリントンはどんな宗教形式を選んでもOK、そして申請によって埋葬される(嫌なら埋葬されない)、なおかつ基準が広く一般人も含め、もちろん戦争を生き延びた人たちも基準に合えば、今でも将来でもアーリントンに埋葬される。靖国とは全く違うじゃないですか。どうしてこれを同じだと言えるんです?共通点はありますが、一緒だという論理的根拠は何?私の叔父で日系2世だった彼は戦後進駐軍として日本に来ました。戦闘には参加していません。彼は日本人と結婚し、日本に長らく住んでいましたが、数年前に亡くなったときには彼の遺言通り、ハワイのパンチボールにある米軍墓地に埋葬されました。アーリントンもそういう墓地で、靖国とは全く性格が違うんですね。
アーリントンには敷地内に奴隷制や朝鮮戦争、ベトナム戦争の正当性を主張するような資料館もない。しかし靖国にはある。ここも大きな違いで、無視するべきではないでしょう。
アーリントンと靖国は同じだという人の論理に、アーリントンは南北戦争で二つに分かれた戦った人たちが差別なく入っていて、それは靖国が戦犯を合祀しているのと同じだというのがありますよね。大嘘じゃないですか。尊皇攘夷の政府軍は合祀されているけれど、反政府軍である幕府軍は合祀されていない。犯罪者も駄目。例えば戦後インドネシアに残ってインドネシア独立の為に戦った日本兵もいますよね。あの時、武器弾薬もそのまま使ったそうで、これは条約違反になってしまう。だから彼らは脱走兵ということにした。当然、日本政府に反する立場ということになって、合祀対象外。これもおかしいでしょ。多くの保守は日本軍はインドネシアやベトナムに残って彼らの独立を助けた英雄というのに、靖国では犯罪者であるからして合祀されていない。これって明かな差別だと言って良いと思います。死に方で日本軍人を差別している。片や神で、片や賊軍、犯罪者扱い。
では靖国は不要かというと、そうではないと思っています。ここのところは協調しておきます。靖国不要論者ではないのははっきりさせてください。私は神とか霊魂とかの存在はあると考えていますし、本当に「靖国で会おう」と誓い合って死んでいった人たちは間違いなくいると思っていますし、そういう御霊は靖国に集まると考えています。また遺族が靖国に自分の大切な人の魂があると信じているなら、それはそれで絶対に尊重すべきだと思っています。でもそれ以上のものはないというのが今の私の考え方です。
また分祀は不可能という考え方もわかります。これは神道の考え方であって、一般的、あるいは論理的、そして海外には理解が難しいとは思いますが、一度合祀されたものを分ける事はできないという神道の考え方はその通りだと思います。コップ一杯の水をたくさん集めてまとめたものを、やっぱりあれはなかったことにしようと思っても無理なのと同じ。でも、世界の中の日本を考えた場合、神道ではこうなんだからと押し通すべきなのかどうかはわからず。でも靖国は一宗教法人ですから、それを決めるのは彼らであって、外野に決定権はない。変えろとは言えないし、変えるなとも言えない。
靖国のイメージは古来から続く、日本を守るために命を捧げた人たちを祀る場所と考えてきましたが、実際はそうではなくて、非常に範囲が狭く、それも靖国の論理で決めた合祀基準に則っていて、我々一般がイメージする「戦没者」とはかなりの乖離があるように思います。明治維新から現在まで、たったの246万+柱しか合祀されていない。祖国日本に命を捧げて戦った人の何分の1?何十分の1?
海外はかつては靖国参拝に文句を言わなかったのも、彼らはまさにアーリントンのような場所をイメージしていたからだと私は思うのです。ところが実は成り立ちも性格も全く違う特定の戦没者の為の施設であるのを海外は知ってしまった。また靖国にいけば誰しもが感じることですが、「戦後レジーム」を認めていない神社であるのは誰しも感じるはず。もちろん「戦後レジームからの脱却」それは多くの日本国民の願いでもあるわけですが、それは戦勝国が決めた「戦後の世界秩序」、またGHQが作った「あるべき日本の姿」に真っ向から反発する考え方なわけで、それを海外は中韓も含めて気がついているということだと思います。
つまり、靖国参拝は「戦後レジーム」を認めないという意思表示であると海外が受け取るのは当たり前と言っても良いはず。いやいや、戦没者の慰霊だと言っても、上に書いたように、極限られた軍人達(軍属)しか祀られていないじゃないか、つまり、A級戦犯がどうのじゃなくて、軍国主義、この言葉が悪いとすれば帝国主義に染まって、なおかつ国の方針に従った場合に限られていて、それも戦時中、あるいは戦後だとしても戦争に関わる事によって命を落としたある一部分の軍人(軍関係者)しか祀られていない、広い意味での戦没者の慰霊場所ではないと海外は言い出したとしてもそれに反論はできないんじゃないでしょうか。海外がそこまで突っ込んでこないのは、それは日本に対する礼儀なのか思いやりなのか、そう考える方が筋が取っているような気がします。
また海外の反発に激怒する日本人は、内政干渉だとか、戦没者の慰霊をして何が悪いと言いますが、実はまさに戦後レジームを壊したいのが本音で、表には出てこないけれどそのレジームを「守る」と「壊す」の戦いをしているのだろうと思います。だからこそ、海外は参拝に反発するという図式。
まぁ、そういうことからも何度か話には出ているA級戦犯の分祀なんてのは、神道の考え方からも不可能だし、本来の問題点ではないのがはっきりわかると思います。中韓も米国もA級戦犯に関して言ったとしてもそれが問題の根本でもなんでもなく、ただわかりやすい象徴的なことを言っているだけでしかないのもわかります。
そう考えていくと総理大臣の靖国参拝がどうあるべきか、というのも答えは簡単にでないと思うわけで、「戦没者の慰霊」に関して「海外は内政干渉をするな」という視点で主張するのもピントがずれているし(海外は日本から挑戦を受けていると見ている)、そこを論点にしても全く解決しない問題だと思います。もし海外は無視して国内だけで考えても、左派はもちろん納得しない、そしてとりあえず参拝してくれればOKと妥協する保守層があり、そして愛国主義者は「慰霊なんてとんでもない(讃えるべき)」とそれぞれ無視できない根拠がある。
だから何なんだよと結論を急ぐのではなくて、まず前提はどうなっているのかを私は正確に把握したい。また都合の良いところだけを切り出して結論に結びつけるのが良いとも思わないし、この混沌とした状態は混沌としているとそのまま受け入れるのもアリだと思っています。
でも私としては安倍さんは「戦没者の慰霊」という表面的な行動を通して「戦後レジームに物申す」と世界に告げているのだと思っています。もし安倍さんが本音で「戦没者の慰霊」だけを考えているとしたら、それはちょっとずれている(靖国の成り立ちを無視した妥協)かもしれない。そもそも「慰霊」だとすれば上に書いたとおり(愛国主義者の言うとおり)靖国の本質から離れるかもしれないし、また格下(靖国での決め事)の「鎮霊社」に参拝しても、広い意味での「日本の為に戦った、しかし靖国には合祀されていないもっと多くの人たちに対する冒涜(思想や死に方による差別)」となる。でも現在は靖国と鎮霊社、千鳥が淵の三つで一つだから各々参拝するしかない。私は安倍支持ですから、彼が靖国の問題点を理解していないはずがないし、靖国参拝は彼の世界戦略の一環だと私は捉えています。
私に言わせれば、そもそもあの戦争は仕掛けられたものであって、その仕掛け方、また戦後の処理にも戦勝国側の「過度な無理」があったというのを彼らが気づく時代になっていると思います。そこらの正義も信念もない、金も技術もなく、強大国に尻尾を振りながら生きるしかない小国と同じように、どうにかなるだろうと考えた戦勝国の読みが甘かったということ。日本を過小評価しすぎたツケを彼らも払わないとならない時期に来ているんじゃないでしょうか。
でも戦勝国が作った戦後の世界秩序は間違いなく存在するわけで、それを変えることにチャレンジする日本に勝ち目があるのかないのか、それが私にはわかりません。今の状態を近衛文麿(私は彼が戦争を始めた張本人だと思う)内閣の末期と全く同じだという評論家がいますが、それも満更外れていないような気もします。
結局、戦争というのはレジームとレジームの戦いであって、日本にどれほどの理念や正義があろうと大東亜戦争では日本の負けという形で、戦後レジームが決まった。これに対し、また日本が挑戦しようとしているのは全く同じで、世界が日本が右傾化しているとか、軍国主義化しているとか、侵略戦争をまたやるつもりだと捉えるのも当たり前かもしれません。それに対して、いやいや防衛予算の伸びも見てくださいよ、これで軍国主義化ですか?なんていうのも的外れで、海外はそういうことを言っているんじゃないんですね。世界秩序、つまり戦勝国が作った戦後レジームに対して、「日本が戦いを挑もうとしている姿」のことを言うのでしょう。
私としては戦争そのものはない方が良いに決まっていますが、戦後レジームに対する挑戦を日本がすることに対しては賛成です。前回は侵略者のレッテルを貼られましたが、戦争はしない形での世界秩序に対するチャレンジも可能だと思っています。今の世界は少なくともこちらから手を出さない限り、戦争にはならない世界だと思いますし、勝ち目は無くはないと思っています。でもまさにかつて仕掛けられたように、あの手この手を中国、欧米は仕掛けてくるんでしょう。それに対抗する力が日本にあるのかどうか、またそれをするべきときは今なのかどうか、ここは疑問があって、時期尚早だというのが私の考え。経済的にまず日本が立ち直るのが先で今の状態じゃ世界秩序に挑むには苦しい。でもその音頭を取るのは総理大臣の仕事であって、任期を考えれば今しかない、安倍氏しかできないと考えるのも理解できます。
その焦りがあらぬ方向へ動いていくとしたら、かなり危険なことにもなると思っています。中韓やアメリカがいやに日本の動きに敏感で過剰反応しているように見えるのもそこに問題点があるからでしょう。彼らは日本からチャレンジを受けているという実感を持っているのでしょう。
でもなんで海外はあんなにうるさいの?と考える日本人も多いのね。やっぱり平和ボケ。
また「戦没者の慰霊」をして何が悪いんだと思っている人も、実はピントがずれているかもしれないと再考する必要があるんじゃないでしょうか。私がそれでした。
私が考える「戦後レジームからの脱却」は、海外に日本の言い分、正義もあった、お前達の謀略とまでは言わないけれど、失策があったことも認めろということではなくて、このままでも良いと思うんですよ。その代わり、しっかり経済的に世界の大国になれるように頑張って、そして法と秩序が守られるように東シナ海、南シナ海をコントロールし、真のアジアの連帯を作ること。つまり、誰がどう見ても「素晴らしい大東亜共栄圏」を作り上げ、地域の安全と安定、発展に尽力すること。
それが出来上がったとき、「実はあの時もこれをやろうとしていたんですよ」という日本にアジアから喝采をもらえたら、私はその時に「戦後レジーム」は氷解すると思っています。逆を言えばそれなくして「戦後レジームからの脱却」もへちまもなくて、アジアの植民地からの開放は日本の力だのなんだのとギャーギャー騒いだところで何も起こらない。負け犬の遠吠え。大東亜共栄圏?そんなのは侵略を始めてから後付けした言い訳だろうといわれて終わり。
かつて我々の祖先が目指したのは(たとえ後付けの理屈だとしても)、決して植民地の開放だけじゃなくて、まさに字の通り「大東亜共栄圏」であって、各国は独立しただけでその目標はいまだ達せられていない。つまり大東亜戦争は形を変えただけで、第二ラウンド進行中というのが私の考え方。戦後は終わったのどうのどころか、戦争そのものが終わっていない。靖国に行くのが祖先の為になるのではなくて、この大東亜共栄圏を日本の手によって完成させるのが祖先に報いる唯一の方法だと思うわけです。またもしも祖国日本に疑念を持ち続けているさ迷える魂があったとしたら、これが日本の真の姿だと示すことができるんじゃないでしょうか。大東亜共栄圏の夢も忘れて、靖国参拝したところで祖先が喜ぶわけがない。これはあまりにも単純明快な理屈だと思うのですが、いかがでしょうか。
ということで、お約束のあの動画。(笑)