理想主義者と現実主義者。自分のポジションは?

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マレーシア関連のブログの中で非常に面白いエントリーを発見しました。そのブログの主は経営コンサルタントをしてらっしゃる方で、いつも内容が非常に濃く、考えさせられることが多い。

今日のエントリーは私の中でモヤモヤしていたものが一瞬で整理されるような内容でした。人の思想をいかに分類するかってことなのですが。一つだけわかりやすい図を転載させてもらいます。この図だけではなくてわかりやすい図と解説がその方のブログにありますので、興味がある方は是非読んでみたら面白いと思います。

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理想主義者・現実主義者の縦軸、善悪論よりも現実論 | 立花聡オフィシャルブログ

この話は今巷で大騒ぎになっている「安保法案」に関することですが、この図で自分のポジション、また保守派の中でもいろいろ論議が別れる中でそれぞれの言論人のポジションもわかって、非常に面白いと思いました。

日記の中で私の印象に残った言葉は【「こうであるべき」よりも、「こうするべき」】というところ。そして差異があるのを認めて【うまく住み分けて共存していくのは一種の現実的な解決策ではないだろうか】というところ。

話は安保法案だけではなくて、生き方そのものが自分のポジションで左右される。仕事も人生も全く同じだと思いました。

そして理想主義者こそが「排他的になる」傾向があると思うのです。理想や価値観を共有できない人とは付き合いたくないと。極端に言えば「異分子は存在してはならない」と。これは歴史が証明していて、「愛とか平和」を追求するはずの宗教がとんでもない殺戮を繰り返してきた世界の歴史がある。またそれは現在進行形。

つまりファンクラブを形成しやすくなるんでしょう。そして「異なるもの」は排斥する。これが日本的村社会の特徴でもあって、今回の話は我々の日常と密接なつながりがある。

また最近、ブログには書きませんが、ちょっと人間関係で悩んでいることがあります。どうしてこういうことになってしまったんだろうと色々考えているのですが、今回紹介した日記を読み、自分の中でその答えが簡単に解けてしまいました。

つまり、私は現実主義者で相手は理想主義者であったのだろうと。ですから引き合うものがあるときには引き合いますが、何か違うものを感じた時には突然態度が変わる。これは理想主義者の傾向だと私は思っていて、自分の中にある「理想」あるいは「プライド」が人との付き合いを考える基準になっているのだろうと。

では私の中に理想もプライドも無いのか?ということになりますが(笑)、私は基本的には「それぞれが自由」があり「違いを認める世界」が理想であって、その異なるものが手を繋いで前に歩いて行く世界が理想社会です。だから「異なるもの」を排斥しませんし、「異なるもの」こそが自分に刺激を与えてくれる大事なものだと考えています。

ところが理想やそれに拘ることにプライドを持っていると、「異なるもの」は「理想を壊すもの」という解釈になるのではないかと想像しています。

ここでは理想という言葉を違う意味で二回使っていますからわかりずらいかと思いますが、「自分の理想と違う理想を持っているもの同士の共存」が私の理想と言っても良いと思います。

また「下手なプライドは持たない」のが私のプライド。(笑)

ここが私が変人扱いされる所以だろうと思いますが、今までの人生、仕事の歴史の中で私が確信したことは、プライドは「自分を助けるために存在する」のではなくて「失敗に導くもの」ということでした。結局、自分が想像しているより世界は、社会は多様化していて、自分のプライドに拘リ過ぎていると「生きていけない」という現実があまりにも多いと感じます。仕事で言えば失敗を意味します。

海外生活においてはまさにそれが顕著で、自分の理想やプライドなんて外人から見れば「馬鹿じゃないの?」みたいなものもあるわけで、こちらから見れば「こいつらどうしようもない」と思うのと同じことなんですね。だからといって自分が変わるのは簡単ではないし、相手を変えることは不可能。

やっぱり「それぞれに差異があるのは当たり前」と認めて、手を携えて生きていかなくてはならない。これってこういう風に書くと殆どの人が「そうそう、その通り」って思うはずですが、実はそれを実行するのは簡単じゃないんですね。「感情」が必ず邪魔をしますから。

結局、理想とかプライドが「感情と直結」しているとうまくないってことなんだろうと思います。これが「理想主義者」であって、理想やプライドを「感情と繋げない」ことが出来る人が現実主義者なんだろうと。

人間って「感情のいきもの」だと私は考えていて、全ての行動の基本は「感情にある」とさえ思います。いくら論理的な考えをしようと思っても、結局それは「感情が出した答え」を論理的に納得しようとしているだけじゃないかと。

だから大切なのは「感情をいかに切り離すか」というところを「意識」するべきで、そうではないとどんどん流されていく。

結局、国も、人付き合いも、仕事もその基本は同じだと思うのです。

今回の安保法案に関して見ているとそういう面が見えてきますよね。「戦争反対」のプラカードを持つ人達が溢れていますが、この「戦争反対」という考え方に反対する人は一般市民の中にはいないと言って良いくらいで、意味が無いと思うんですよ。「安保法案に反対」=「戦争反対」ってまるで筋が通っていないように思います。これは「高邁な理想」を全面に出して「気に入らないものを潰す行為」でしかない。

私だって安保法案に全面賛成なんかしていなくて、そもそも多くの法案をひとまとめにしたところに問題の根本があるんじゃないかと思っています。議論が細部に至らないのは全法案をひとまとめにしてしまった安倍さんの落ち度でもある。

同じ保守派にも反対派はいて、「アメリカ従属を深める」という人は少なくない。ここは確かに私も気になる点で、「アメリカが起こす戦争に巻き込まれることはない」と安倍さんは主張しますが、どうやってそれが担保できるのかの説明がないんじゃないでしょうか。

イラク侵攻の時にはイギリスのブレア氏から小泉氏に電話が入って「賛同してくれ」という言葉に「何がなんだかわからないのにイエスと答えた」と時の官房長官の福田氏が暴露していましたが、「日本が参戦すると決めれば参戦できる」状態になれば、そこをあの手この手でアメリカは策を練って環境づくりをするであろうことは目に見えています。

でも「戦争反対」の声を上げるとしたらその時であって、今ではないと思っています。私が望む日本の姿は「憲法で決まっているから戦争をしない」のではなくて「国民の意志として戦争をしない国」であって欲しいです。今のまま「戦争反対」という大きな理想で全てくくって安保法案が潰れてしまうと、安保法案の良い部分も潰してしまうと思います。

安倍政権を支持する%は高く、しかし安保法案は「今、成立させるべきではない」という%も高い。これがまさに正解かもしれないと私は思っていて、なぜそうなったのかは、多くの大事な法案をひとまとめにしてしまったのが原因で、そこをプロパガンダが大好きで得意な左派に利用されているという構図があるんじゃないでしょうか。そして理想主義者がそれに乗る。というか乗らざるをえない。

そういう意味で、安倍さんは国民をバカにしていると私も思うところがあるのですが、国民もそこまでバカじゃない。見ている人は見ているのが数字に出ていると思います。でも「戦争反対」のプラカードを持つ人達はどこかピントがずれているのも間違いがないと感じます。

そしてこの賛成と反対の構図は今日紹介したそれぞれのポジションで違うし、またそれは安保法案だけに限らず、我々の生活、仕事でも全く同じだと思いました。

日本国民があの図で言うどういうポジションであるべきかを考えるのは意味がなくて、たとえどのポジションだとしても「手を携えて一緒に前に歩こう」という意識が何よりも大事だと思います。しかし、そういう考え方こそが「現実主義者」の考え方であって、理想主義者には受け入れられないってことなんでしょう。

理想主義者は排他的である。これは間違いがないと思います。これは他に対してだけではなくて、自分で自分を縛ることでもあるんですよね。そういう生き方も良いのでしょうが、良い悪いは別にして「弱肉強食」のこの世界で「自分の(国の)立場」を考えるとそれで果たしてやっていけるのかどうか。ここが重要な点。

ちなみに自分が考える自分の立ち位置を上の図に入れてみました(赤丸)。進歩的文化人とは真逆。(笑)

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みなさんはご自分がどの辺にあると思います?

 
 
 

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