安保法案が参院特別委員会でとうとう可決しましたね。
私は安保法案賛成派ですがなんだかしっくりしません。でもこういう事態を招いたのは自公民だけの責任とは思っていなくて、「反対するため」には民衆に恐怖を植え付け、「戦争法案なんだ」と刷り込んで煽る戦略を取った野党の責任もあると思っています。結局、大事なところは「誰にも見えていない」のではないかと。
安保法案そのものに関しては「必要だ」と考える人がかなり増えているものの、このような成立のさせ方には反対の人が多いってのはそういうことじゃないかと。皆もっと詳しく知りたいんですよね。ここは与党も野党もしっかり考えるべきで、まともな議論をして欲しかった。
賛成派でも今回の法案が完璧だなんて思う人は少数派のはずで、もっとクリアにして細かいところを煮詰めて欲しい。
でも私はそもそも政府を信用していなくて、それが確実になったのは福島の原発事故です。あの時の政府、官僚の対応、事業者、学者を見ていると、こりゃまもとじゃないと思いましたもの。
世界はどこでもそんなもんだと言えばそうなのかもしれませんが、責任の所在、問題点が浮き彫りになりやすいのはあのアメリカさえも日本よりはまともだと私は思っていて、今回の法案が仮にどんなに素晴らしい法案だとしても誰がどう運用するのかが一番の心配事です。
これは大東亜戦争も同じで、「大東亜共栄圏」だの「植民地解放」だのと良いことを並べて、大義があると言う保守派は多いですが、私は疑問に思っています。それはまさに大義名分であって、実際にやったことは違うのではないかと。
アジア諸国はみんな日本に感謝していますと断言する論者もいますが、日露戦争からの歴史を見てみると、確かに日本がアジアに勇気を与えたことは間違いがないにしても「感謝しています」というのは極論で、最初はそのつもりがあったにしても日本に結果的に銃を向けた国もあった。
韓国を思い出すと、韓国は日本と併合して、戦後、日本の敗戦により独立したと言われていますが、韓国の正史は違うんですね。併合された後、中国国内に臨時政府を設立して、そして日本と戦い続けて勝利したというのが彼らの正史。じゃぁ、その臨時政府とはどのくらいの規模で何をしたのかと聞きたくなるわけですが、たとえそれが小さくてもそちらが本流であると言われればそうなんでしょう。
こういう韓国の論理と日本の大義名分と似ているところがあると私は感じるわけで、実際に何をして他国がどう思っているかは別だろうと。
つまりですね、この法案も大義名分でしか無く、実際の運用面ではかなり違いがあるようなことも出て来るであろうことが簡単に想像できちゃうってことなんですね。
それを理屈ではなくて感覚的に気がついた人たちが「戦争法案」だと言っているのかもしれない。
私の大好きなあのルバング島から出てきた小野田氏ですが、彼の対談を前の日記で紹介しました。あの中で私がドキッとしたことがあるんですよ。彼は帝国軍人そのものですが、彼は日本には大義があったというような言い方はしないんですね。「日本には資源もないんだから(海外進出は)しょうがないじゃないですか」と対談の中で一言言った。私はこれが真実だと思っていて、中国進出(侵略でもいいけど)、満州国、朝鮮併合はそれであったろうし、そして戦争に突入してからまずは東南アジアを押さえ、独立させると言いながら、利用価値がある国は手放したくないわけで独立をさせなかった(マレーシアもそう)。これに対して話と違うじゃないかと反発して銃を向けた国もあるわけで、最初の大東亜会議に各国が出てきて「アジアの解放」「大東亜共栄圏」に賛同したという点だけに注目したら嘘になる。
それと日本は軍国主義で・・と多くの人がいうけれど、進出・侵略は軍国主義だからしたのかと言えばそんなことはないわけで、結局利益を追求したからであって、その利益とは南下するソ連に対抗するということもあったろうけれど、それ以上に日本を大きくして資源も押さえなければならぬと考えていたのは間違いが無いと思っています。そしてそう考えたのは軍国主義だからではないわけで、たとえば石油にしても軍が掘るわけでもないしそれを流通させるわけでもなく、そこに必ず財閥がくっついていたわけですよね。
中国には莫大な利権が存在したし、満州も同じ。東南アジアを抑えてもそう簡単には独立させなかった背景に利権が間違いなくからんでいるし、ハル・ノートを受け入れることが出来なかったのは日本の事情というより「経済産業界の要望」だったと言えるかもしれない。もちろんそれは国策でもあるけれど、アメリカの軍産共同体がとんでもない力を持っているのと同様なことが日本でもあったんだろうと想像しています。考えるのは産業界で、実働部隊が軍隊なんでしょう。だから日本の問題点は軍国主義ではなくて、財閥の力が強すぎたのが一番の問題点かもしれず、その財閥に取って軍国主義が一番利用価値があるはずで、軍がピラミッドのトップにあって、その下に民間がくっついていたというのは間違いかもしれない。
大東亜戦争にもそういう背景があるはずだけれど、産業界がどれほどあの戦争に関与したかに言及する人はいない。財閥の責任論を私は聞いたこともない。もう解体されてしまったからそれで責任を取らされたことになるのかもしれないけれど、もしかしたら軍国主義なんてのは表面的なもので、本当の黒幕は財界であったかもしれない。この辺は良くはわからないものの、結局、戦争の背景にあるのは経済だということをもっと我々は意識しないとならないんじゃないかと思っています。
経済的に発展するのが何よりの安全保障だと言われますが、その通りで、そのためにも日本は頑張らないとならないし、中韓がいろいろ言うのは彼らの経済力が強くなってきたこと、そして日本が弱くなってきたことが最大の原因だと思うし、そして「軍備」が関係している。この経済と軍備は車の両輪であって、これがしっかりしているから発言力も強くなるし、相手は聞く耳を持つわけであって、その両輪なくして「話し合い」で解決が付くようにはこの世の中はできていない。
それが常識だと認識しているのは、実は中韓でありその国民であり、我々が??と思うような「日本が再び侵略を始める」と考えている人が多いというのは、彼らの常識からすればこのまま日本が静かにしているわけがないと思うんでしょう。逆を返せば、ダメな日本の姿を彼らは見ているし、今は日本に何でも言いやすい状況なわけで、これが進んでしまうことを日本は考えないとならないし、経済的にはもちろん、軍事的にもまた法律的にも「日本をバカにすると危ない」と思わせないとうまくない。抑止力にもならない。
日本は9条があったから戦争に巻き込まれたこともないなんてことはなくて、日本が戦わない国だとわかれば何をされるかわからない。9条なんてのは日本の都合でしかないわけで、前にも書きましたが、日本は戦後、韓国の侵略によって竹島を取られたという事実を忘れてはならないんですね。当時、日本が戦える国なら戦ったでしょうし、戦える国なら韓国は竹島を取りに来なかったはず。
戦うときには戦う国であると言うのは対外的にも大事だと私は思うし、そういう国だからこそ、国民も政治に無関心ではいられなくなるし、戦えるようになったら即、どこかで戦うような、そんな馬鹿なことが起きるとは思えないし、またそれを止めるのが国民、メディアの義務であって、警察官に銃も警棒も持たせないほうが良いというような発想は間違えていると私は思います。
そういう意味での今回の安保法案は意味が「多少は」あると思うけれど、それでどうにかなるなんてこともないのだろうし、実際に日本が戦う選択をしたとしても今回の法案はがんじがらめの法案でしか無く、それに気がついた中韓はニタニタほくそ笑むだけなんでしょう。そんな意味でも、日本人がワイワイ騒いでいる「戦争をする国になる」とか、「抑止力になる」とか、どちらの考え方も大外れな気がするわけです。
ま、そんなことも含めて、なんだか今回の安保法案、そしてこの政治家や国民の動き、なんだかまるで頓珍漢なことをやっているんじゃないか、そんな気がしてしかたがありません。
また私が気になるのは、本当にアメリカ軍が縮小していって、日本から手を引く、安保もなくなったらどうなるか。本来これが一番自然な形なはずで、その時に、日本の国防はどうなるのか。ここが最大のキモで、本来議論はここからスタートしなくてはならないはず。
ただ、国会前のデモを見ていると、そこに参加する政治家、著名人にしても、こういう人たちに国を任せたらかなり危ないことになるんじゃないかとしか言いようが無いと思います。
この人達に日本を任せれば戦争に参加することはないのだろうけれど、周りの国々、あるいはアメリカにしてもジワジワと日本包囲網を作り、「王手」の状態を作りそれを維持されることになるはず。南シナ海で起きているのはまさにそれで、パワーポリティクスを日本以外の国は考えているのが普通で、その包囲網に気がついた時に、攻めてこないよね?なんて日本はウジウジするんでしょうか。またそういう日本は益々発言力がなくなるんじゃないですかね。そして万が一、竹島がとられたのと同じようなことが再び起きても、何も出来ない、誰も助けてくれない。世界や国連に何をアピールしても駄目なのは、ウイグル、チベットもそうだし、台湾も同じ。
理想論で生きていけるなら、そもそもこんな世界になっていない。
「僕が一緒に酒を飲んで話して遊んで仲良くなって、僕が抑止力になります!」と宣言した青年ですが、彼を笑うことは出来ないと私は思っていて、もしかしたらそれも可能かもしれないみたいな考え方が日本人にはあるのを感じます。こういう楽観主義と「和の精神」を混同してはまずいんじゃないですかね。
日本人はサファリパークと同じだと言った人がいますが、的を得ていると思いました。そのサファリパークの中でどう生きるかということと、サファリパークそのものをどう運営するのかは全く別のはず。私が「市民派」や「文化人」の話には乗れないのはここの部分で、自分たちは「守られた中にいる」のを前提として権利を主張しているように見えるのです。