今日の日記も長文で、話があちこち飛びますので暇な人以外は読まないのが「吉」。(笑)
このクアラルンプール全体の開発の異常さを見ていると「未来永劫コンドの需要は供給を上回ることはない」なんて気がしてきますが、「コンドは値上がりする」という声がちらほら聞こえてきます。
本当ですかね。
でもま、業界のことは全くわからない私ですが、自分の生活に関係ある範囲で見てみますと「値上がりがあるかもしれない」なんて気がしてきます。
今借りているコンドもそうで、なんとなく「ジワジワと上がりだした」感じがしないでもないのです。
最近聞いた話ですが、ブキビンタンのパビリオンの横に出来た高級コンドがあるじゃないですか。バニアンだったかな。あそこも「日本人がかなり多い」そうで、また月額15000リンギを出す人たちが増えているそうな。
うーーむ、やっぱり「コンドによる」ってことですかね。
我々がよく言う「物価」も同じで、国全体のインフレって実は自分には関係ないんですよね。「自分が売買するもの、関係するもの」の価格が上がるか下がるかが問題であって、全体のたとえばコメの価格がどう動こうと、実際には自分の生活圏で自分が買うものの価格がどう変化しているかが問題。私がマレーシアウォッチングを始めた10年前と「レストラン業界」も大きく変わったわけで、以前は「東南アジアっぽい」と感じたものが今では「欧米風の洗練された店」がモールの中でもどんどん増えている。当然、価格もまるで違うわけで、これがマレーシア標準か?と疑いたくなることは頻繁にあります。
安い庶民的な店が消えて、ホーカーズにも変化があるのかもしれない。スーパーも同じで、扱う商品がどんどん良くなって高いものが中心になってくれば、「自分のインフレ率」は間違いなく上がる。
コンドもそれと同じなのかもしれないと思ったり。
また我々が住んでいるコンド内でも「価格の動きが違う」のが見えるわけで、「広くて高層階の部屋」は間違いなく値上がっている様子。それどころか「取り合い」の動きもあるようで、「良い物件はすぐに決まる」傾向がでているように感じます。このコンドって広さが売りってわけでもないんでしょうが、一般的な広さのそして数も多い低層階の部屋は空きが多く値上がりは感じない。
コンド全体が値上がりしてきたということはまだ無いにしても、「それぞれの需要がある中で良いものは上がってきている」傾向はあるのかもしれない。
今までは「おお~~、また下がった~~」なんて喜んでいたのですが、なんとなく流れが変わったような気がしないでもない。これは私がウォッチングしている狭い範疇のことでしかありませんが。
今、我が家としてはまだマレーシアに来たばかりだし、一体マレーシアでの生活ってどのくらいのお金がかかるのかがわからなかった私たちは、「基本はゴールドコースト時代と同じ出費でどの程度の生活が出来るのか」を知りたいと思いました。そこが原点。マレーシアではオーストラリアみたいな恐ろしい所得税がないわけですから、「同じ経費」だとしても税金分を考えれば安いわけで、だからといって「税引き所得は増えた」ことを原点としてお金を使うと何のために物価の安い国へ来たのかの意味がなくなる。だからやっぱり「価格そのもの」で見ていく必要は間違いなくある。
その考え方で一年過ごしてみましたが、居住費(コンド)はゴールドコーストでコンドを借りていたときより増えちゃったものの全体としては間違いなく節減できている。
これはこれで嬉しくて「マレーシアに来たのは大正解」であるのは間違いがない。
ところが今回コンドの経費が増えちゃったのと同じように、また多くの日本人が「物価の上がり方が凄い」と言っているのを考え合わすと、「物価が安い」と喜べるのがいつまで続くのかという不安があります。
そもそも「物価が高くなった」と感じるのは「安い時代を知っている古い人」であるわけで、私達みたいに生活を初めてまだ一年だと「物価が上がったという印象」は殆ど無いわけです。でもこれが2年3年と経つと、こりゃ大変なことが起きていると感じるのかも。
インフレが半端じゃなかったオーストラリアも同じで、私達がゴールドコーストに渡った1991年なんて「なんでこんなに安いんだ~~~」と歓喜したんですよ。私達が行く前の世代は「4人家族で月15万円で生活できる」なんて言っていた人もいるぐらい。私はそんな話が出ている時代にゴールドコーストに渡ったわけですが、でもその月に15万円なんてのは大嘘でしたが、それでも当時は「安い!!」と思いました。当時は一般企業の部長クラスで手取り年収が「300万円程度」だったはず。
それが今では大卒の初任給で年収500万なんてのは普通で、20代で1000万を超える人達はいくらでもいる。うちのシドニーの次男坊もまだ27歳ですが大台を超えたと最近、連絡があった。夫婦共働き(これが普通)で家の収入が3000万を越す家庭ってどこにでもあるんじゃなかろうか。
こんな時代になったらそりゃなんでも高いのは当たり前で、そして税金も高いわけで、我が家はギブアップしたわけです。
私たちはオーストラリアからマレーシアに逃げて来たわけで、ある意味、難民みたいなもんですが、それと同じことがマレーシアでも起こるという予感がします。
マレーシアの物価がオーストラリアみたいになるって意味ではなくて、遠い過去を思い出せば、シンガポール、香港、台湾だってかつては半端じゃなく安くて「東南アジアは安い」の代名詞だったんですよね。それが今じゃ「物価が高い国」の代名詞になったわけで、マレーシアとてそれは同じだろうと考えるのが順当。
そもそもデフレだった日本の方がおかしいわけで、今では韓国のほうが初任給が高いなんて私には信じられないんですよ。でもそれってまさに私が未だに日本人的デフレマインドを持っているってことでしかなくて、これじゃ「インフレが当たり前の海外で生きていけない」はずなんですね。本来なら日本でも初任給は年収500万超えで、年金だって月額50万円ぐらいあっても全くおかしくないはず。でも現実は全く違う。
ただし、マレーシアって「安い労働力を使う」のがうまい国で、でもそれは「外国人を利用する国」でもあって、それが「マレーシアの物価のやすさ」を支えているんだろうと思うわけです。だからシンガポール、香港、台湾などとはちょっと違う動きをするはずで、だからこそ「マレーシアは住みやすい」と言われるのではなかろうかと。
都市部でもまだ安いと感じたところで「マレーシア人の所得増」とともに、そしてその所得増は都市部が突出しているわけで、「安いねぇ」なんていうのがいつまで続くとは思えず。
こんな心配をする考え方って、本来我々のようにインフレがめちゃくちゃだったオーストラリアに住んでいた者としてはおかしいんですね。本来は「インフレは当たり前」と考えるべきなんですが、我が家にはそれが出来ない(笑)。デフレで長年続いている日本から見た場合の不安ならわかる。つまり、我が家はオーストラリアに住みながら、「オーストラリア人と同じような所得増がなかった」からインフレに敏感になるだけなんですね。そりゃ収入が劇的に増えたにしてもオーストラリア人が「オーストラリアの物価は安い」なんて言うわけもないのだけれど、かつては車といえばポンコツに乗っていたのがいまではベンツやBMWは「普通の車」で子供の教育だって年間200万円ぐらい掛かる小中学校に子供を二人、三人通わす家庭はいくらでもあるわけだから、やっぱり「収入を増やす」ことがいかに大事なのかがわかります。
日本がチンタラしていた間に世界各国はどんどんGDPも伸びて、一人あたりのGDPや所得も増え続けた。この感覚が日本人にはないわけで、日本ではなくてオーストラリアに住んでいた私達も同じ。これってなんだかんだ言っても我らの目線は「日本人目線」であったからだと思います。日本人としては「収入が減らなければ上出来」と考えてしまいがちで、そのように考えていた我が家は完全にオーストラリアが伸びるスピードに追いつけず、結果的に逃げ出ることになった。
この反省はきっちりしないと駄目だと私は思っていて、「インフレは当たり前」「所得が増えて当たり前」を前提にして、人生設計をしないとならないと思うわけです。
でも「退職者はどうするんだよ」ってことになりますが、その所得の源泉が日本にある場合はうまくない。日本はいまだにデフレから出られていないし、社会保障費は削られるのは見えているわけで、「インフレが当たり前の海外で生きるのは簡単ではない」と考えるべきでしょう。今はたまたま「安い国」「安い時期」に住んでいるだけで、これって絶対に解決策にはならないはず。
その辺の理解がないと「安い国」へ流れ続けるしかなくなる。でも「理解はしても収入は増えない」わけで(笑)、さてどうするべきかが運命の分かれ道になるんだろうと。
退職者が収入を増やすのは簡単ではないのは古今東西同じなわけで、異常なインフレのオーストラリアとて同じ。かつて部長クラスの手取り収入が年間300万程度だった時代の退職者ってどのくらいの収入があったんでしょうか。残念ながらそれは私は知らないのだけれど、「物価に合わせてスライドした」のは間違いがないんですね。当時の退職者って私には本当に優雅に見えて、「ハッピーリタイアメント」ってのはこれを言うんだろうなと思ったんですよ。
でも退職者の収入(年金)が物価とスライドしても「生きていくのは難しい」という声もある時代から聞こえるようになってきた。またかつては「老人の生活苦による自殺」なんて聞いたことがなかたのがチラホラ聞こえるようになった。
収入が物価にスライドして増えて来たオーストラリアでもそれが起こっているのに、「収入は増えないのにインフレ率が高い国へ住む」ってことがいかに異常かってことだと思うんですよ。
でもま、それは「ロングステイ」だからどうってことないんですね。生きるのが大変だと思えば「帰れば良い」んですから。
ところがその地に根を張って生きるしかない場合は、収入増を積極的に狙っていかなくては大変なことになるし、マレーシアの定期預金の利回りが良いなんて「日本みたいな異常な国と比べて喜ぶこと」がいかに馬鹿げているか。そもそもその高いと言われる金利ですが、政府が発表するインフレ率ではなくて「自分の生活圏のインフレ」と比べたら、そのインフレ率の方が間違いなく高いですよね。つまり金利を使わずに溜め込んでも「インフレには負ける」わけで、なおかつその金利を生活費に当てたら何が起こるかは小学生にもわかること。
こんなことを考えると、「自分が長生きしない」ってどれだけ素晴らしいことかなんて思うこともある。(笑)
でもまだ若いのにマレーシアで「金利生活」なんかしたら何が起こるのかは簡単にわかるってことですよね。
つまり「数%」の利回りで嬉しいのは「デフレ時代」であり「世界にイノベーションが起きていない時代」だけであって、世界が大きく動き出すとそんな小さな%は全く関係がなくなるってこと。マレーシアだってここまで伸びる前の時代に庶民は一体何を考えていたか想像すれば良いと思うんですよ。きっと数%の利回りで一喜一憂していたはず。ところが開発と発展の波が来たら資産を何倍、何十倍、あるいは何百倍にする人たちが続出したはずで、「小さな利回りばかり考えている人たち」は消えていったはず。当時の金持ちも「資産保全」に動いた人たちは取り残されて「普通の人」になったんじゃないですかね。
世界的にそれが起きることがあるのを想像しないと駄目だし、私は「世界的なインフレ」が起きると思っていて、リーマンショックを各国は乗り越えたものの、どの国も「半端じゃない額のお金を刷った」んですね。そのお金が世界中を動き回って行き場を探しているわけですが、この額が半端じゃない。日本だってジャブジャブお金を刷り続けているわけで、この世界中の「たっぷりあるお金」がいつか悪さをするだろうと思うんです。
いや「悪さ」というのはそれを持っていない者の考え方で(笑)、持っている人たちには大きなチャンスがいつか訪れるような気がするんですよ。
そのキッカケは戦争かもしれないし、あるいは長い世界の歴史の中では技術的なイノベーションが繰り返し起きて今に至るわけですが、今の我々には想像もできない「何か」が起きるのが歴史じゃなかろうかと。それが想像できないのは、かつてクワを持ち畑を耕し、洗濯は洗濯板を使い、蒸気で動く馬車を見て腰を抜かしし、月を眺めてはあんなところへ人類が行く時代が来るなんて想像もしなかったわけで、そういう時代の人たちと今の我々って大差ないような気がするんですよ。
私の人生でさえ、洗濯板は家にあったし、冷蔵庫と言えば木製で毎日氷を入れて冷やす冷蔵庫だったし、カラーテレビを見てびっくりし、電話なんて呼び出しがあった時代を思い出します。自家用車なんてとんでもない話で、一人一台のテレビ、電話なんて、そんな時代は全く想像できなかった。計算機、コピーやFAXだって凄いものが出来たと驚いたもんです。コンピュータの歴史は長いですが、まさかパーソナルコンピュータの時代が来るなんて・・。
こういうイノベーションって常に起きるのが世界の歴史で、「もうこれ以上のものは出てこないだろう」なんて思うのは50年前の人も同じで(笑)、きっとまた新しい時代が来る。
その時に、世界中にジャブジャブと溜まって生き場所を探しているキャッシュはどう動くのか。
マレーシアだって同じというか、その歴史の縮図を私は感じるんですよ。
今日もとんでもない金持ちと会ってきましたが、彼がそれだけの財産を作ったのはこの20年ぐらいじゃないんですかね。マレーシアが突如発展しだしたときに、時流に乗った人たちが莫大な資産を作ったはず。そしてそれに乗った人と、乗れなかった人の格差が半端じゃない。
こういうことって原始時代から続いているはずで、時流に乗れなかった人たちは表舞台から消えていく。我らが祖先の縄文人も同じだったはず。
今は人類史上初めての巨額のお金が世界で「その時」を待っているはずで、これが動き出したらとんでもないことが起きるはず。「AIの普及」も今の時点で「見えている」わけで、これに乗り遅れた企業がどうなるのかなんて想像は簡単にできる。自動車の「自動運転」も世界を大きく変えるはず。
そんなことが頻繁に起きることは無いにしても、動き出したらあっという間に世界が変わるのはスマホの登場と同じだと思うんですよ。同じようにヒューマノイド型のAI搭載のロボットが家庭に一台あるのが当たり前の時代は間違いなく来る。
ま、こんなことを考えるのは妄想だと思われるかもしれないけれど、そして私はその時がくるまで生きていないとも思うのだけれど、ダボ家がそんな時代にどう生き抜くかというのを「今の私」が考えることは無駄じゃないと思っています。
社会って「過去の遺産を受け継ぐ」ことで出来ているはずなのは間違いがない。これは技術やノウハウ、文化も含めて「資産」であって、それを積み上げたから今がある。
ところがですね、日本って明治維新から今まで「ゼロから作り上げるのが人生」だと考えがち。戦後の焼け野原から立ち上がったのもそれだし、「一人ひとりの頑張りで今が出来ている」と考えてしまう。それは間違いがないのだけれど、「過去からの遺産」が根本にあるのを忘れてはならないと思うんですよ。私は日本の「寺子屋制度」って凄いと思っていて、武家だけでなくて読み書きや計算を覚えた。かつての日本に来た外国人が日本人の素養の高さに驚いたという記録もありますが、過去と現在ってつながっていると思うんですよ。
ところが「サラリーマン」が世の中の原点になった時代からその考え方が変わってしまったと思うんです。
私は商人の家に生まれましたから、「伝承」は当たり前なんですね。農家だってそうで、農地や技術を過去から未来に渡すから成り立っている。これってどんな企業も同じで、過去からの積み上げた「ありとあらゆる資産」を後継者に渡すから成り立っている。
この考え方が今の時代、「個人の中から消えた」と私は常日頃思っているんですよ。
子供には教育だけはしっかり与えて、あとは「社会に出て自分の力で生きていけ」って誰しもが考える。
でもこれって「労働者を欲しがる側」から見れば最高なだけで、個人はそれで良いのかって思うんですよ。「美田を残すな」なんてことを聞くと多くの人がその通りだと頷く。
でももしそれが本当だとしたら、農家は潰れるんですね。「俺が死ぬ時にはこの田畑は他人のものになるから、お前たちは自分で荒野を切り開け」っていうのと同じ。漁業も同じで、「この船も漁業権もお前にはゆずらない」となったらどうなるのか。林業なんて恐ろしいことになって全く成り立たないじゃないですか。(笑)
企業も同じで、自分の血筋に残すかどうかは別にして、「創業者の社長が死んだら会社は解散」だったらどうなります?
世界は「過去の遺産を伝承する」ことで成り立っているのは間違いがないのに、個人はまったくそれを考えないって、私には異常に思えるんです。
では私は何を残せるのか・・・、それをしっかり考えたいし実行に移さなければならない。なんてことをジジーになってから考えているわけ。(笑)
インフレに勝つのもサバイバルの原点で、そのサバイバルというのは「皆の協力」「過去からの伝承」で成り立つはず。
親と子が、あるいは先輩と後輩が、「俺は俺、お前はお前で頑張れ」で世界は成り立たない。
ではどうするべきか?この答えは簡単にはでないわけですが、少なくとも「残せるものは残す」のが当たり前じゃないかと。そしてそれを受け取った者がそれを活かすのか殺すのかは別問題じゃないかと。
でも商人の世界では過去の伝統、技術、それらを含めた「ありとあらゆる資産」をいかに活かして生活し、それをまた後世に伝えていくかってのは「子供の教育の原点」なんですね。それをそれぞれが「時代の変化」に合わせて使いこなしていく。
私はその考え方そのものが何よりも大事な「伝承」じゃないかと思うんですよ。
そしてインフレに勝ち、生き延びるサバイバルは「総力戦」であって、「個人の努力だけ」でどうにかなるもんじゃないんじゃないかと。
でもフト、オーストラリアを思い浮かべると「なんて幸せな国なんだ」って思うわけです。
個人が個人の好きなように生きて、馬鹿げた無理難題を押し付ける企業なんかさっさと辞めるのが普通で、サービス残業だの単身赴任だの、行きたくもない部署や赴任地には行かない。それで国が、経済が、そしてそれぞれの人生が成り立つって一体どうなっているんだ?って思う。不思議な国。
でもそれは「地面の下に埋まっている莫大なオーストラリアの資産」があるからだと私は思っていて、昔、子供が学校で教わったと言う話を思い出します。「日本は金持ちだけれど、オーストラリアには地下に【中央銀行】がある」という話。(笑)
それがない国は全く違う生き方をしないとならないし、個人とて同じで、「お前はお前で頑張れ」で終わらしてしまうと恐ろしいことが起きる。そういう意味でやっぱり日本人って恵まれているというか楽天家なんだろうと思うのだけれど、アジアや世界の貧しい国々で底辺を生きている人たちを見ると、「自分と大差がない」と私は思うんです。たまたま日本で生まれ育ったから「日本の良さ」を身に着けているだけで、「人生を生きる」「家族を大事にする」「一族で協力してのし上がる」ことに関しては、今の日本人は何も知らないのと同じかもしれない。
もし中国人が我々日本人みたいにのほほ~~んと生きる民族だったら、世界に散らばり勢力を持つ「華僑」は存在しなかったはず。また今では世界にあった「日本村、ジャパニーズタウン」も消えつつあるのが私は悲しいし悔しい。これもまた戦後のマッカーサーが日本改造に使ったウォーギルトインフォメーションプログラムのせいでもあると思うんです。日本人から愛国心や民族の誇りを消し去って、世界に出ても隅っこで静かに暮す民族になってしまった。今は変わってきましたが、かつては「国防」とか「国益」という言葉を発しただけで「右翼」のレッテルを貼られるなんて、本当にとんでもない国になってしまった。そしてそういう日本のままでいて欲しい韓国や中国は、当たり前の国防、国益をいう政治家を「極右」として非難する。そしてそれに朝日、毎日新聞が乗る。NHKもやんわりとその路線で番組を作る。
今、マレーシアにいるということはそういう点でも学び考えるチャンスがこの国にはあるわけで、「世界で生き残る日本人はどうあるべきか」を家族と一緒に考え、構築していこうと思っています。