ヨメさんと息子がいない間に感じたこと(かなり個人的な話)

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こんなことをブログに書くべきかどうか結構悩んだのですが、私のブログは日記であって情報提供が目的ではないし、私はこんなことを毎日考えながら生きていたという遺書でもあります。あるいは病院の天井を見ながら生活する時が来ても、このブログを読んで思い出にふけるのも良いと思っています。

だから今回、かなり個人的なことで、私の秘密でもあるんですが、書き留めておこうと思います。

人の恋愛体験って一生のうちにどれだけあるんでしょうか。

私は自分が恋多き男だとは思っていないのだけれど、思い出してみれば「結婚しても良いかな」と思う恋愛は20代の頃に3度、経験しました。でも結婚までには至らず別れたり失恋したり。

20代の終わりの頃に一人の女性と知り合いました。一目惚れってこういうのを言うのだと思うくらいで、大勢の女性の中のたった一人にだけフォーカスが合うというか、ズームインするような感覚がありました。

どうにかその女性に近づき、知り合いになり、友人関係を作ることに一生懸命(笑)。そして自分が彼女に合わせたつもりはないのだけれど、結構、気が合い、週に一度は一緒に食事に行ったり飲みに行くような間柄にまでなりました。私としてはこれほど女性を好きになったことはないと自覚していて、まだ「友達以上、恋人未満」なのに結婚という言葉を口に出すアホでした。でも週に一度会うってよっぽどじゃないとありえませんよね。だからその女性も満更ではないはずだという確信に近いものは持っていたんです。

ところがある日、彼女は田舎の実家に突然帰った。

私としてはいつ帰ってくるのか気になるし、電話でしょっちゅう話をしていました。

ところがですね、ある頃から、居留守を使って電話にも出ないようになったんですよ。一体、何があったのか私は困惑するばかりで、気持ちとしては気が狂いそう。

そしてある時、一方的に「会いたい」と彼女の親族に伝言をたのんで、仕事の合間を見て九州は福岡に飛びました。私は福岡のことはまるで知りませんから、地図で調べて「西公園でXX日のXX時に会って欲しい」と家族に伝言をお願いしました。伝言の答えは「OK」。

そして当日。西公園で待てど暮らせど彼女は来ない。実家に電話をしてみると「ダボさんに会うために福岡にでかけた」というじゃありませんか。だから私は待ち続けました。真冬の2月。寒いなんてもんじゃありませんでしたが、彼女は間違いなくこちらに向かっているはずだから待つのは平気でした。

でも5時間ぐらい待ってもまだ来ない。実家に電話しても「そちらに向かったはずですが、おかしいですねぇ」というばかり。

日も暮れて西公園には人もいなくなり、お茶屋みたいな店も閉まるので、仕方がなく引き上げることにしました。本来はその日に東京へ帰るつもりでしたが、飛行機はキャンセルしホテルを取ってとりあえずチェックイン。その後、実家にまた電話をかけて(当時は携帯電話などない時代)、ホテルの名前と電話番号、部屋番号を伝えました。

でも電話もかかってこない。

この時、どれだけアホな私でも気がついたんですね。彼女は会う気はないのだと。

実家に電話をして「どうもすいません。ご迷惑をおかけしました。東京に帰ることにします」と伝えました。私と何度も電話でやり取りをしたのは彼女のお姉さん。非常に良い人でした。

そして私は東京に帰るわけですが、ここから地獄が始まりました。

「結局、振られたってこと」を自分で認められないんですね。それまでは毎週必ず会って遊ぶ仲だったんですから。あまりの急変を私には受け入れらませんでした。でもその後、実家に電話をしても彼女は一切、電話に出ません。

「失恋ってことか・・」と思いました。

当然、失恋なんて何度も経験していて、どんなに辛いと思っても大体3ヶ月、長くても6ヶ月もすれば吹っ切れていたのがそれまでの私でした。だから「忘れなくては・・」と思いつつ、時間が私の痛む心を癒やしてくれるのを待ち続けました。

ところがですねぇ、自分でもおかしいと思うくらい、忘れられないんですよ。

仕事中でもフト気がつくと彼女のことを考えていたり、また彼女のことを考えていないのに涙が出てきたり。

それがなんと3年間、続いたんですよ。3年間。

それまでの間、忘れようと努力もしたし、正直なところ宗教にもすがろうと思いました。お見合い結婚でもしようと動いたこともありました。でも忘れられない。

でも3年という月日は私を変えたんですね。どう変えたかと言うと「彼女を諦めるということを諦める」と。

この思いと共に一生、生きようと決めました。そして今世では無理でも来世では絶対に再び巡り合うぞと決めた。もう今世は俺はどうなっても良いと投げやりの気持ちになりました。

バカみたいですが、これで結構気が楽になってきたんです。

でも生きる張りあいもなく、来世のことばかり考える自分に変化が現れました。

とんでもなく痛い偏頭痛に襲われるようになりました。これが毎日、でもいつどんなときに出るのかわからないけれど、必ず襲ってくる。これが痛いなんてもんじゃなくて、顔は変形して左目は全く見えなくなるし、涙は出っぱなし。市販の痛み止めでは全く効かないので、医者にもらった強い鎮痛剤を飲むと、さほど痛みは変わらないのにラリっちゃうのね。頭はボーッとして夢心地。でも痛みは消えない。

あちこちの医者に行っても全然良くならないんですわ。

この偏頭痛がいつ出るのかわかりませんが、出れば頭を抱えてのたうち回って、鉛筆でもなんでも尖ったものがあればそれで頭を突っつくと痛みが多少和らいだり、壁に頭を打ち付けたり、そんな状態なので、仕事なんか一切できないんですね。運転中にもこれが出ると大変なことになって、車を止めて車の中でのたうち回るなんてことをやっていました。

だから仕事も辞め、家の中でボーッとしながらテレビを見るだけ。そして偏頭痛が来るとのたうち回るという生活になりました。そして彼女のことを思い出しては意気消沈してため息ばかりで、テレビのメロドラマを見ては涙ポロポロ。

母に「俺はこんなになっちゃった。もう駄目だ。ゴメンね」と言ったら、「そんなあんたに生んだ覚えはない。大丈夫だ、頑張れ」という言葉が嬉しいと言うより、余計、悲しみや情けなさが増長したのを思い出します。

心身ともにボロボロで、しかし早く元気になってまた頑張ろうという気も全く起きないんですわ。このまま行けば廃人みたいになってそして消えていくのかもしれないと思いましたが、それも俺の人生かもしれないと思っていました。

31歳でした。

そんなある日、一本の電話。3年前に振られた、あの女性からです。「どうしてる?元気?」ですと。

私にしてみれば「馬鹿野郎~~~、今頃~~~~」ってなもんですが、「おお、XX子かぁ。久しぶり。元気にしてる?」と返事。そうしたら、「もし時間があったら会わない?」ですと。

私の心をメチャクチャにして、3年間も放っておいてよく言うと思ったのですが、会えるならすぐにでも飛んでいって会いたい。でも偏頭痛が出たらうまくない。

でも会うのを断る理由は全くないし、その日に会うことにしました。

不思議なのは、この日を堺にあの恐ろしい偏頭痛はピタリと止まったんです。彼女と再会してから一度も出ていないんですよ。

不思議だと思います。またあの偏頭痛の原因が彼女に振られたことにあるとも思えません。偏頭痛が出てきたのは失恋してから3年目。彼女を諦めのを諦めると決めてから。

でも今考えると、人って「生きる望みを無くすと体に変調を起こし、そしてそのうち死ぬんじゃないか」ってこと。私の叔母で「もう十分生きたし、もう未練はないからもうすぐ行くわ」と言っていたら本当に数週間後に死んだのを思い出します。巷でよく言われる、妻に先立たれた夫は後を追うようにして死ぬ傾向があるとのと同じかも。

私の場合、彼女からの電話、そして会っただけで私の人生の何が変わるわけじゃありませんが、きっとこれは「地獄にするすると降りてきた一本の糸」だったのかもしれませんね。

私は彼女と会っても、3年前に何があったのか、その後、私がどう生きていたのかは一切話しませんでした。当然、この3年間、思い出さない日は一日もなかったなんてことも言わない。それはあの3年前、彼女が突然消えたのは「私からの強すぎるラブコール」があったからに違いないという確信があったから。

でも同時に、なんで今頃、連絡する気になったのかも聞きませんでした。聞く必要もないし、聞きたくもなかった。

それからは私が彼女に対してどういう行動をとったのかは想像できると思います。付き合って欲しいなんて本音は一切出さずに、「保護者」に徹しました。彼女が困っていることは全て助ける、相談に乗る。私ができることはすべてやる。私にとっては、私を恋人と認めてくれなくても、また再び彼女が消えることのほうが怖かったんですね。

でもこの距離感が良かったのでしょう。非常に良い友人となり、ある時、恋人としての付き合いも始まった。そして時期を見て、プロポーズ。結婚することになりました。

付き合いだした当時の二人。

それが今のヨメさんですが、私の辛かった時のことは未だに話していません。また彼女はこのブログも読んでいない。(笑)

ただ「お前は俺の命の恩人だ」ということは言いますが、ヨメさんはなんのことやらさっぱりわかっていない。(笑)

でも面白いのは、実は彼女も初めて会ったときに「結婚する予感はあった」と言うんですわ。ま、それもあるから毎週遊びに行くような仲にもなったんでしょう。

どちらにしても、今のヨメさんは、私が私の人生でこれほど女性を好きになることができるのかと言う意味で、ダントツの一位であるということ。私はヨメさんと再会し結婚できたことをヨメさんに感謝すると言うより、神様というか見えない力にお礼を言いました。あの辛い時期に、もし私の願いを叶えてもらえるなら何でもすると何度もお願いした目に見えない存在にです。

そして子供ができた。男の子が二人。

この子達を見て、この手に抱いた時の感激を忘れることが出来ません。まさに神様からの贈り物だと思ったし、こいつらの為に自分の人生を捧げよう、捧げたいと心底、思いました。そしてこのときに気がついた。世の中では「親に生んでもらったことに感謝しろ」と言うし、私もそう言われて育ったけれど、それは大嘘だということ。「こんな親のところに良くぞ生まれ出てきてくれた」と親が子に感謝するべきで、親孝行なんてのは「子供が生まれた瞬間にそれは完了する」と思いました。

でもその自分の命より大事に思う子どもたちがどう育つのか、それは気がかりでした。大事大事に育てれば馬鹿になるのは間違いがないし、かと言って「可愛い子には旅をさせろ」なんて突き放すことは自分に出来るわけもない。(笑)

でも環境が何よりも重要なのはわかっていたので、日本脱出を図ったわけです。そして親として有難うと言いたいぐらい期待以上の青年に育ってくれた。何よりも、二人共、「オヤジを尊敬している」と真顔で言ってくれるのが嬉しい。

でもねぇ、これほど愛したヨメさんでも、自分の命より大事に思う息子たちでも「このやろう~~~~~」って思うことはしょっちゅうあるわけですよ。「なんでお前たちってそうなっちゃうの?」みたいに私としては納得できない、許せないと思うところが結構ある。

「馬鹿野郎、好きにしろ」なんて思うのは毎度のこと。そうやって毎日が過ぎていくのが現状。

でも今回、ヨメさんと長男が二人でシンガポールに行き、私一人で5日間過ごしながら、いろいろ考えていたんですわ。

もし私に「人生で起きた【良かったこと】は?」と聞かれたらなんと答えるか。

1 最愛の女性と結婚できたこと

2 自分の命より大事に思える子どもたちを授かったこと

3 その子どもたちもちゃんと素晴らしい青年に育ってくれたこと(まだまだ親としての要望はあるにしても)

ま、この3つが私の人生の最大の「良かったこと」かな、と思ったんですよ。

でも、違う!ってことに気がついたんです。

ヨメさんのこと、子どもたちのこと、それぞれが「一つの良いこと」じゃないということがわかった。

そうじゃなくて、そのヨメさんと、その子供と、毎日、毎日、同じ時間、同じ時代を生きていることが凄いことなんだと気がついた。

最愛の女性と結婚できたことも、素晴らしい子どもたちを授かったことも、それで終わりじゃなくて、現在進行中ですよね。

つまり、この毎日が、一日、一日が、神様から私が頂戴している素晴らしいご褒美、プレゼントだってこと。

でも私はヨメさんや子どもたちにそれに関しては感謝しない。したくない。(笑)

ただ、この毎日をくれている神様、見えないなんらかの運命を司る存在に感謝したいと思った。

昨日も、今日も、その素晴らしい一日を私は頂戴した。

ヨメさんと長男がシンガポールから帰ってきて、また早速、好き勝手なことを言い、好き勝手なことをやっているけれど・・・。

愛する人達と一緒に生きる事ができるこの一日、一日が何よりも素晴らしい神様からの贈り物なのだと気がついた。

 
 
 

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