巷では「年金生活するにも2000万円のマイナスが生じる」という金融庁の発表でいろいろ騒いでいる様子。
これに関して私なりに考えることはあるのですが、あえてブログに書くこともないかと思っていたんですよ。
そんな時に、このブログの読者である「日本の若者」さんからメール。
年金問題について、ダボさんなりに海外の年金事情(オーストラリアやマレーシア)や日本の将来などの話題も絡めてご意見を伺いたくメールをしました。
おそらく、僕以外にも読者で気になる方がいるはずですので、記事に書いてもらえると僕を含め皆さんが喜ぶと思います。
よろしくお願いします。
ということで書こうと思いますが、私の歩んできた道や考え方は一般的ではないというのは最初に書いておきます。だからダボっておかしい奴だと思うかもしれないし、私も他人に理解してもらおうなんて全く思いません。
でも「日本の若者」さんが書いてくれというから書きます。(笑)
いや、本当は「私の世界ではこれが一般的。常識だ」と私は思っているのですが、いつの間にか世の中は「収入はもらうもの」になって「自ら稼ぎ出すもの」ではないし、年金といえば「厚生年金+企業年金」が当たり前で、私みたいな「国民年金」しかない人のケースは話題にも乗らない。
だから2000万円足らないという話も、他人事にしか思いませんでした。
そもそも国民年金って満額もらっても月額65000円程度。実際には55000円ぐらいが多いらしいですが、世の中で年金という時はそんな額じゃないんですね。毎月20万以上でしょ?勤めていた企業によっては、企業年金を含めて40万以上ってこともあるらしいですね。
また私の遠縁の親類が「田舎の郵便局(自宅が郵便局)」をやっていまして、夫婦でもらう退職金、年金が半端じゃない額だと聞いたことがある(だから廃業したくてもできないと)。また友人の奥さんのご両親が、お二人とも警察で働いていたらしく、お二人が受給する年金の合計額は信じられないぐらいだと。
逆に、私の親類で国民年金なのですが、家のお財布を握っていた奥さんがちゃんと保険料を払っておらず、雀の涙ほどの年金しかもらえないと、晩年は嘆きながらとんでもない苦労をしたのもいます。
これって私も同じで、年金受給資格はあるのですが、保険料を払っていた年数が少ないので、受給開始を70歳にしても、月に3万円程度の年金にしかならず。(オーストラリアの年金受給権もありますが・・)
私の育った環境は周りのほとんどが商人で、年金は国民年金。私の両親も姉も皆、国民年金。
こういう人たちは世の中にごっそりいて2000万円足らないどころの話じゃないのね。簡単に計算しても5-6000万は必要じゃないんですかね。これってとんでもない数の人達が路頭に迷う可能性があるはずだけれど、そんなことは世の中では全く話題にもならないのね。なんで?そしてお金がなければ「生活保護を受ける」ことになるけれど、とんでもない政府負担になるんじゃないですかね。「年金だけ」を見ていれば問題がなくても、生活保護の支出がこれからは凄いスピードで増えるはず。そしてこれにこれからどんどん日本に入ってくる外国人もそれにプラスされるんでしょう。
私はいつかこれが年金以上の社会問題として大騒ぎになるんじゃないかと思っています。額は莫大な額になるし、保険料もまともに払っていない人でも救済されるなら、保険料は払わないという動きも大きくなるはず。
そして手落ちだと私が思うのは、将来必要なお金を計算する時にインフレが一切想定されていないってこと。なおかつ人生って「まさかの坂で転げ落ちる」のが普通だと思っている私は、その「まさかのこと」を想定しない計算は、ただの計算のお遊びだとしか思っていません。
そもそも私みたいな世界では「老後は年金で生活するという考え方がない」んですね。せいぜい「生活費の足しにする」とか考えるのが普通で、あるいは「孫の小遣いにしかならない」という人も少なくない。
また商人の場合は「定年がない」のが普通で、また世襲も多く、歳をとったら子供に仕事を譲り、食わしてもらう、給料をもらうことを考える。当然、その時までにはきっちり貯めておくわけです。
だから2000万円足らないってのを聞いても「そこそこの年金を受給しながら、足りないからと文句をいうのは筋違い」としか思わないわけです。そもそも「足りるわけがない」と思っていますし、足りなければその分は貯めておけと思うし、死ぬまで収入があるような「投資」も考えるのが普通。
ましてや「年金で暮らせないから政府に文句をいう」なんて、おかしな人達がいるんだなぁ、どんな夢を見ていたんだ?ぐらいにしか思わないわけです。
また「2000万円足りないと聞いて驚く人たち」って一体、今までどんな人生計画を持ち、どんな計算をしていたのかと不思議に思います。今頃、何を言ってるんだろうと。
現実的には現在65歳の人たちが持つ金融資産の「平均」は2300万円を超えているとのこと。一般的には「年金だけでは生きていけない」なんてことは常識として昔から考えているんじゃないですかね。
これに関しては橋下徹氏がAbemaTVで言っていたことが理にかなっていると思うなぁ。
「日本は資本主義社会だから、最後は自分でなんとかするというのが前提。それが嫌だったら共産主義社会にして、稼ぎから何から税金を取って、全て平等にする。そうすれば老後も完璧に保障しますよ、というのもありえる。だけど日本がそういう社会じゃない以上、2000万円くらい足りないですよと言われたら、国民の方もそれに向けてなんとかせなアカン、と思わなきゃいけない。公平に検証したデータを元に、“人生設計として、いくら貯めておかないといけない“という数字を示すのは大賛成だし、金額が大きすぎると思うのなら、累進課税の税率をもっと高くして、所得の再分配をしっかりやるような政治を選んでいかないといけない。これを聞いて“ふざけんじゃねえ、この政治“と言うんだったら、問題を解決するような政治を選ぶのも国民の責任。ただ、このタイミングでこういうデータを出したというのは、何か増税に持っていくためのレールを敷いているのかな、という感じもする」。
ま、若い人たちは「老後の自分」を想像するのは簡単ではないし、ぼんやりとした「自分の将来像」しか持っていないのだろうし、「老後は年金で暮らすのが普通」と信じ込んでいたのかもしれませんね。
でもそうだとしたら、世の中を全く観察していないってことだし、自分の周りの年寄りを見れば、一体何が起きているのか、自分はどうなるのか簡単に想像できるはずなんですね。いや、もしかしたら彼らが見てきたのは「年金で生活出来ている(ラッキーな)老人」だったのかもしれない。ちょっと前までは退職金も高額でしたし。
私にしてみれば「年金だけで生活する老人なんて周りに一人もいない」わけで「退職金」なるものも関係なく、「死ぬまで稼ぐしか無いのが常識」ですから、まるで考え方が違うわけです。
私が育った頃と今とは随分世の中も変わっていて、商人でも「まともな年金をもらう」ことが可能なのかもしれないし、個人年金を「買う」ことをする人もいる。私の姉がそれで、随分昔にかなりまとまったお金をつぎ込んで、今ではそこそこの年金をもらっている。
この個人年金ってのは個人が勝手に加入するわけですが、私達家族が25年住んだオーストラリアには「国の年金」プラス、スーパーアニュエーションという上乗せする個人年金にも加入することが義務付けられています。日本で言う【個人型確定拠出年金「iDeCo(イデコ)」】みたいなものですが、これにかなりの大きなお金を払い込むことも出来ますし、またそれは「所得控除対象」になる。なおかつ「企業も負担する」形になっていて、そこそこ大きな額の年金を手にすることが出来る。
日本もこういう方向に持っていきたいんじゃないですかね。
今の年金は「生活保護」と合体させるのが良いと私は考えています。オーストラリアの公的年金はまさにそれで、「資産・所得によって受給額が変わる」ようになっていて、基本的には「金持ちは受給できない」ようになっています。
これじゃ国民は文句を言うだろうと思いますが、文句は言わない。
その理由は簡単で、この公的年金を受け取るために、私達は「保険料、掛け金などは一切支払わない」から。つまり国の税収がこの公的年金の原資となっていますから、「払い損」という感覚はないのね。
ここで大事なことがあると思うんです。
年金も社会保障の一つですが、この原資を捻出するために消費税を使う国はどこもないとのこと。私が信奉する高橋洋一教授がそう言っていました。でも日本は「社会保障を充実させるために消費税が必要」ということになっている。
これが絶対に駄目なのは、社会保障というのは保険の概念が基本にあるべきで、要は「助け合い」なんですね。年金の場合は「早く死んだ人は損をして、その分を長く生きた人が受け取るシステム」であるし、税金を投入する場合は「富める者から取って、弱者に与える」という「富の再分配」が基本にあるべき。
ところが消費税ってのは、国民、皆、一律で、「貧しい者ほど負担が大きい」逆進性がある税金だということ。つまり、「貧乏人からむしり取って、皆で分ける」と言っても過言ではないし、もし年金だとすれば「クソ大金持ちにも受給資格がある」わけで、一体何のための消費税かってことになるんですね。
本来は「保険料だけでやりくりする」のが社会保障の原点であって、日本の場合には、保険料を取りながら税金からも補填するという、そしてその税金は「貧乏人からもむしり取る」というわけがわからないシステム。これってやっぱりどこかで線引きをやり直さないと駄目なんじゃないですかね。ここをウヤムヤにして先に進んでも、良いことはなにもないと思います。
でも私は今の日本にそれは出来ないと思っています。政治家は票のことしか考えていないし、権力と金を持っている官僚は「省益しか考えない」「過去を踏襲する」のが基本だから。つまり「本音の大事なことは一切議論されない」のが日本の特色で、「表面を取り繕うことばかりやっている」ように私には見えます。これは天下り問題ひとつ解決できないことからもわかるし、憲法改正論議にしても、「話し合いさえまともに行われない」という異常なことが起きている。
でもこれって私は日本人が持つ特色だとも思っていて、それがまさに広島の原爆慰霊碑に書いてある「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という言葉に現れていると思います。
なんとなく気持ちだけはわかるけれど、大事なことはボカしてウヤムヤにするのね。
私がもし原爆の被害者だとしたら、墓の中から叫びますよ。「過ちとは一体なんのことか。繰り返さないようにするには【具体的に】どうするつもりなんだ?」と。「祈ります」「戦争反対と世界に向かって叫びます」なんて答えだったら、私は化けて出てきますよ。冗談言うなって。
この日本人のなんとなく真面目で、それを装っていればそれで良いみたいな感覚って私は大嫌いなんですわ。偽善者そのものじゃないですか。
これって「戦争反対。話し合いで解決しろ」というのも同じで、じゃぁ、お前、今でも戦争地帯はあるんだから、そこへ乗り込んでいって話し合いでかたをつけてこいやっと私は思う。竹島も北方領土も話し合いで取り返してくれ、中国に尖閣諸島近海をウロウロして脅かすのは止めてくれと話を付けてこいって思う。
夢を見て、理想論を語るのもそりゃ気持ちが良いだろうことはわかるけれど、それで現実を変えることはできない。絶対にできない。
こういう本質的なところで私は日本に問題があると思っていて、年金問題も同じで、解決するのはかなり難しいと思っています。
でも今回の「2000万円足りない」って話は、「自分で稼げ」「貯めろ」「投資も考えろ」ということで、ある意味、良いことであるとは思うんです。
「寄らば大樹の陰」で、かつては国家や地方自治体、あるいは企業に身を寄せて、「真面目に普通に働いていれば、給料もちゃんともらえて、退職金も十分、年金もちゃんともらえた」という過去のことは、「もうそれは幻想でしか無い」と国民がはっきり自覚しなければならない時代になったという警鐘だとも思うから。
でも上に書いたように、そもそも国民年金しかない私みたいなものに言わせれば、「何をいまさら・・」でしかないのね。
また今回のあの話は、タイミングとして「消費税増税を正当化するため」に金融庁が言ったのは間違いないと思うし、そして「投資をしろ」なんてのは、にっちもさっちも行かなくなった「銀行救済(投資商品を大々的に売るはず)」を考えているのかとも思う。そして「個人型確定拠出年金」の普及にはずみを着けて、将来的にはオーストラリアみたいに法的に義務化する方向へ持っていきたいのかもしれない。オーストラリアの場合、雇い主もがっつり掛け金を負担しなければならないシステムで、そうなれば給料も上げずに利益を溜め込んでいる企業対策にもなるんでしょう。
でもこれってしっかりした企業じゃないと「潰れる」「雇い止め」が起きるのね。それはオーストラリアも同じで、今では大卒の初任給でも年収600万円を超えるようなところはいくらでもあるけれど、職を見つければ万々歳、でもなかなか良いところに就職できないことが起きる。
どちらにしても私みたいに「基本的に給料をもらったことがない(数年間はある)」「政府や自治体の世話になろうと思ったこともない」「年金をあてにしたこともない」、つまり【野良犬】みたいに生きてきた者にしてみれば、「いかに稼いで貯めるか」「いかに収入を持続させるか」を考えるしか生きる道はないわけです。
きっと日本の年金を含む社会保障が将来良くなるのかもしれないけれど、またオーストラリアみたいに「のたれ死ぬことはまずありえない」ような社会保障が「すでに充実している国」に移住するのも良いとは思いますが、基本は同じなんですね。
「自分で稼ぐしか無い」
これしかない。だってそういう社会保障で十分な額がもらえて豊かな生活が出来ると思うほうがおかしいでしょうよ。良い会社に入ろうが、国の将来に期待しようが、住みやすい外国に移住しようが、「他力本願で収入を得ること」を止めない限り、いつかちょっと大きな嵐が世の中に来れば破綻しちゃうんじゃないですかね。
でも自分で稼げるのか?ってなりますが、「世の中の大半の人達はそうやって生きている」のを忘れてはならないと思うんですよ。勤め人をしていてそこそこの収入を得、そこそこの退職金ももらい、年金もまぁまぁもらえて幸せな老後が待っている?そんな世界がどこにある?まぁなくはないんでしょうが、生活環境とか国民性が大きく関係するし、他国の真似しようと思って出来ることじゃないんじゃないですかね。
日本のある時代はそういうことがあったかもしれないけれど、それが普通なのではなくて、「本来、野良犬のように生き抜くしか無い」のが私は本来の姿だと思っています。
だからそこから若者は絶対に逃げてはならないと思うんですよ。ラッキーだった親の世代の後ろ姿を見ても何も参考にならないのははっきりしているはず。
そのラッキーだった人たちでさえ「年金では足りない」と「生活費の安い海外に出て老後を過ごす」なんてのがブームになるようじゃ、国はもう終わりですよね。
そして前にも書きましたが、「自分は自分が想像した自分以上に大きくなることはありえない」ということも忘れてはならないのね。
まずお金のことが気になりますが、「月収50万を確保したい」と頑張る人は、うまく行ってもそこで止まるのが普通。100万は欲しいと思う人は、ちょっと違うことを考えるでしょ?でもその人もそこで止まる。
もしが中小企業のトップだとしたら、毎月1000万は稼がないと会社は潰れるとした場合、何を考えます?
逆にそこをクリアできたとしても、では上場企業の管理職だとして、毎月1000万稼ぐことしか考えられないとしたらアウトでしょう。
当然、退職して「俺には稼げない」と思っている人の収入が増えることはありえない。
そもそも「給料とは受け取るものである」と考えるのっておかしくないですか?なぜ「支払う側の自分」は想像しないのか?ここは非常に重要な点だと思います。つまり「稼ぐのは自分の義務、責任」として考えられるか、考えられないのかの差って非常に大きいってこと。
でもその責任を考えるのって難しいことじゃなくて、独り者にはわからないかもしれませんが、実は「自分のためだけに稼ぐ」場合は、人って適当なところで妥協しちゃうのが普通でしょ。でも伴侶や子供の寝顔を見ると、「俺はもっと頑張らければならない」とやる気を起こす。親が貧乏だった子供も頑張るでしょ。それと同じ様に、輪を広げて一族だとか友人知人、あるいは自分の会社のスタッフに対しても同じ様な気持ちを持つようになるのが普通。そしてそれが地域、国家と広がって、それで世界はうまく回っているんじゃないですかね。皆が自分のことだけを考えたら世界は回らない。
稼ぐのは簡単ではありませんが、「それを望まない限り、向こうからやってくることは絶対にない」のだけは間違いが無い。毎月50万あればいいやと思って頑張っていたら、月収200万になったなんてことはまず起きないのが普通。
でも自分には夢しか無いのに「大きな額を稼ぎたい」なんて思っても、何も起こらない。
やっぱり「計画を練る」ことが何よりも重要で、夢は「ビルゲイツを追い越す」だとしても良いんですよ(笑)。その代り、何をどうするべきか毎年の到達目標を作り、それを四半期に分け、週に落とし、最終的には毎日の目標まで落とし込まないと駄目なのね。そしてその目標は「必達目標」であって、「できればいいなぁ」では駄目なわけです。
そうすればうまくいくのか?
それが簡単なら誰でもビルゲイツになれる。(笑)
でもそういう細かな計画を立てて一つずつクリアしていかないと、100段の階段の最初の一段さえ登ることはできないってことだと思います。
「日本の若者」さん、頑張ってみてください。マーフィーの法則は絶対に「真理である」のは間違いがありませんから。
まずは、常識を捨てるのが最初の一歩。そして自分の夢を大事に心にしっかりと描き、それに到達するための計画を練って、毎日、それに向かって邁進する。もしそれを誰も理解してくれなくても構わない。俺は一人ででもこの道を進むという覚悟が大事だと思います。「俺はそのために生まれてきた」と信じ込むのも大切かもしれません。
そんな風に生きていると、あら不思議、似た者がいるのもわかってくるのね。これは援軍が現れるのと同じで、お互いに協力し、切磋琢磨して進んでいけば良いんじゃないですかね。
これって勤め人でも同じだと思います。
出る杭は打たれるにしても、社内を見渡すとそういう「杭」があちこちに点在しているのも見えるんじゃないですか?
「触らぬ神に祟りなし」と考える人も多いけれど、そういう「杭」と一緒に進む道を模索するのも良いんじゃないかと思います。私はそういうタイプ。
「日本の若者」さん、私は古い人間ですから、こんなものを紹介するしかありませんが、私が20代の頃にこの漢詩(詩吟)に出会い、感激したことがあります。その当時の私もこの手のものは「こんな古臭い・・」と思って敬遠していたのですが、ここに「自分の生きる道」があると感じたんです。
この漢詩が好きなんですよ。「壁に題す」
男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山
男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんば死すとも還らず
骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや
人間到る処に青山有り
詩吟はこれ。
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びっくりしたでしょ?(笑)
また、私が10代の頃でしたが、私が尊敬し、この人みたいになりたいと思っていた実業家が、酒を飲むと目に涙を浮かべながら、でもニッコリと笑いつつ、この歌を歌うんですよ。
「男~~なら やってみな~~~~」と。彼は若い頃からこんな歌を口ずさみながら自分を奮い立たせて困難に立ち向かっていったのだろうと思いましたっけ。
これもびっくりでしょ。(笑)
今の私はこの曲が心の支え。
「このままでは終われない。まだ夢の途中、諦めない・・・」
要はですね、時代は違っても、巷の常識や価値観に流されずに、自分の夢を大事にして生きようとする人たちはいくらでもいて、でもきっと彼らは一般的に言えば「変人」なんでしょう。自分だってそんな生き方は結構、厳しいのだけれど、泣きながら突っ走ったのはどんな時代も同じだと思うんですよ。
でもだからこそ、「常識的ではない面白い人生」を手に入れ、何にも代えがたい「満足感」を手にすることができたんじゃないですかね。
諦めるのは簡単。世の中の大多数の人達の中に埋もれ、右へ倣えして生きるのもそれも人生。
でも「そんな人生、面白くもなんともない。俺は嫌だ!」と我が道を行く人って古今東西いくらでもいるのね。だから「これこそが世の中の常識なのだ」と思えば、「疎外感」もなくなるし「不安」もなくなる。逆に「俺も負けてなるものか」という思いが強くなるはず。
心の持ち方一つで、人生は大きく変わるってことですね。
年金にしても、「俺にはそんなものは必要ない」というやる気が大事だと思う私。でもそれだけに稼いで貯め、そして収入を継続させることを常に考えないと駄目だし、「まさかの坂で転げ落ちないように」常に細心の注意が必要ってことでしょう。
でもうまくいかなかったら?
その時には、上に紹介した「壁に題す」という漢詩の通りです。
「骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや 人間到る処に青山有り」
どこで野たれ死んでも一向にかまわないと。
どうせ俺は野良犬だと開き直るのが良いと思っています。(笑)
私としてはそれが人間の本質なんじゃないかと思うくらい。
死ぬ時には「わが人生に悔いなし」と微笑んで逝きましょうよ。残された家族はいろいろ思うことがあると思いますが、「父はやるべきことは全てやってくれた」と許してくれるんじゃないですかね。
あ、そうそう。人生の最大の後悔って、「失敗したことじゃなくて、やろうと思ったのにやらなかったこと」が一番心に残るのね。これって早ければ30代でも痛烈に感じること。
そしてそれを人の心ってちゃんとわかっているから、「夢を見ない」ことを選択する人もいるのね。自分の心の中に浮かぶ夢を一つ一つ潰してしまう。そうすれば、自分は後で後悔することがないわけだから自分には大きすぎると思う夢は見ない、諦める方法をいろいろ考えるのが普通。「負けない方法は唯一つ」、それは「戦わないこと」だとそれを信条に生きる人も少なくない。
そして聞きたくないことは絶対に聞かない。(笑)
さぁ、どうする?
---------(後記)-----------
前にマーフィーの法則の話をした時に紹介したと思うけれど、この彼の「イメージング」って大事だと思う。「タイムマシンに乗って未来に行く」っていう考え方はかなり有効だと思うなぁ。
今のままで歳を取るとどうなるであろうか、なんてことは未来を想像すればかなり正確にわかるはずなんですね。でもそれを見るのは誰だって怖い。そして何かにすがりたいと思うことさえやりたくないから、一切、考えないなんて人も結構いるのかもね。
でも自分を変えていくことを選んだ人は、将来を見るたびに、そこには今までとは違う自分が見えるんじゃなかろうか。そうなったら、それを繰り返していくだけ。それを楽しみにできるようになったらしめたもん。
では年寄りは?
年寄りには若者より絶対に優れている能力があるんですね。それは「諦める能力」。これを使うのが実は「正しい」考え方だと私は思う。
私は諦めませんが。というか、今まで通り生きていくだけ。退職なんていう言葉は私の辞書には無いし。(笑)