ロシアのウクライナへの侵攻ですが、毎日毎日新しい情報が入ってきて「まさか」の方向へ動いているように感じます。
でも的確な情報を得るのも難しいと感じていて、我が家では私と息子は全く違うソースで情報を集めているのですが、すり合わせをするとかなりピントがズレています。特に、巷では大メディアが報道していないような「新情報」「裏情報」の類も多く出ていて、その中には「過去の映像や写真」を使って、いかにも今起きていることのような説明もあるし、小さな話を大きくして拡散しようとしているのが見えたり、まさにコロナ、ワクチン情報と似ていると感じます。
どこに真実があるのかというのも大事ですが、「多くは真実であるけれど、その重要度がわからない」ということもあって、全体像を把握し、今後の動きの予測なんて素人には全くできない。
多くの情報がありますが、よくまとめていると思うのは「テレ東BIZ」で。前にも紹介しましたが「テレビ東京前ロンドン・モスクワ支局長の豊島晋作氏」のまとめ方、視点はかなり参考になると思います。
ここから先は毎度の与太話。
私にとって印象的なのは、やっぱり誰しもが考えた、そしてプーチンもそのつもりだった「短期決着」が起きていないこと。そしてウクライナには同盟国もなくNATOにも加入していないわけで、「何かが起きても自国でどうにかするしか無い国」なわけですよね。そして決して軍事大国でもないことから、「首都キエフの陥落も48時間~4日以内だろう」と誰しもが予想した。
西側諸国はイライラドキドキハラハラしながらも「積極的に助けることは出来ない」状態で、それでも過去には「何かあれば助ける」とウクライナには言っていたし(1994年のブタペスト合意)、バイデンの態度も見れば「何かあったら助ける」と思うじゃないですか。でもそうはならなくて、ウクライナが騙された感があるのは間違いがないと思うんです。そして「ウクライナは核を放棄した」のを悔やんでいるようだし、「核があれば今回の侵攻はなかっただろう」と誰しもが考えた。
でもウクライナ人は簡単にロシアに屈服することはなかった。
ここに意外性を感じた人は専門家の中にも多いようで、そのウクライナ人の「決死の抵抗」が世界を動かしたと私は思っています。
ロシアへの制裁さえも及び腰だったドイツが180度変わったのには驚きで、当初は5000個のヘルメットを供与なんてふざけたことを言っていたのが「武器の供与」を決定した。またドイツ国内では軍事費GDPの1.5%程度だったのを1.2%に削減するという計画がある中、これもまた2%へ増大するという大変化。
スェーデンは一切紛争には関与しないという国是なのに、ウクライナに武器供与を決定。
これらの背後には「合理的に考えられない危機もありうる」のを目の辺りにしたからという理由もさながら、私はウクライナ人の決意が世界を動かしたように感じるわけです。世界では続々と義勇兵が集結しているそうですが、なんと「無報酬」だという話も伝わってきます。日本人も70人の応募がありその中の50人は自衛隊OB。また有名なフランスの外人部隊経験者の話も聞きましたが、かつての同僚が「無報酬」でウクライナに渡っていると。
もしもウクライナ人が「勝てるわけがないよね」とすぐに降参するような態度だったら、他の国からの援助も、義勇兵もあつまらなかったんじゃないですかね。
一体ウクライナ人のその強さはどこから来るのか興味があって、そのへんを中心に調べてみると、「ウクライナ人の気質は日本人に似ている」と説明する専門家もいました。ただそこに出てくる日本人とは「かつての日本人」であって、今の日本人ではない。
ウクライナ人には不屈の精神があるということですが、ウクライナの国歌にもそれを感じることが出来ます。また大統領は、普通なら国民を退避させるはずなのに、「男は逃げるな、武器を持って戦え」と号令を掛け、青年男性の国外脱出を禁止。
国歌ですが、いかにも戦いの歴史だったのを感じさせる歌詞で、「自由のために魂も身体も捧げよう」という日本的に言えば「一億玉砕も厭わない」という歌詞。で、気になったのは「我々がコサックの子孫であることを示そう」というくだり。コサックとは?これも調べ見ると興味深くて、ま、日本で言えば「武士」だろうと思いますが、実際にかなり勇敢で強かった様子。これも日本人に似ていると言われる点のようですが、日本人の場合は「特攻」とか「万歳突撃」をイメージしますが、コサックは「ゲリラ戦」「徹底抗戦」を得意とした様子。
第2次世界大戦ではヨーロッパでパルチザンという組織がナチスに抵抗をしたわけですが、このコサックもまさにそれでかなり有能であったとのこと。
そのコサックの子孫であることを示そうと言う国歌。まさにそれが今回のウクライナのロシア軍に対する抵抗に出ているような気がします。
私としては一般市民が戦闘に参加して一体何が変わるのかと思っていましたが、それって頭で考えたことでしかなく、実際には「火炎瓶」でさえも効果を発揮しているとのこと。そしてその負けず魂は世界に感動を与えて、「見ているだけ」から「どうにかして救うべきだ」という動きに変化していったように感じます。
またそれは、ウクライナ侵攻に合理的な必然性を感じていないロシア軍の士気を下げる方向に動くし、ロシア国民の「反プーチン」にも火が付いたのだと思います。
「ウクライナは取られてもしょうがない」から「ウクライナを救えと世界は動いた」のを感じます。
またウクライナ人の「負けず魂」の話の中に、日本人との違いがあり、それにはなるほどと思ったり。
つまり、日本人は「アメリカに負けたのはラッキーだった」。言葉を変えれば「アメリカでラッキーだった」ということ。白旗を揚げ降参すれば捕虜として厚遇され、日本国民も殺戮略奪を経験することはなかった。ところが世界の歴史は、「負けるということは、虐殺され、資産は奪われ、国そのものが滅亡する」ことが起きるのが普通なわけで、ウクライナにはそういう過去があったという話。だからこそコサックという最強の戦闘集団も出来たし、国歌の中でも「全てを賭けて戦う」みたいに表現されているんでしょう。
だから「攻めてきたら降参すれば良い」という理屈が成り立たないとのこと。そこが今の日本人との違いだとそのウクライナ人は言う。
ここは非常に重要だと思うわけで、今の日本は「生き延びるために我慢、妥協も必要」という考え方が日本を支配しているように感じますが、「ウクライナ人は生き延びるために戦っている」のだとそのウクライナ人は説明していた。
なるほどと思いましたっけ。最近の日本人は「負ける怖さを知らない」と言ってよいと私も思っていて、「中国が攻めてきたらすぐに降参をする」という若者が街角インタビューで多かったのにびっくりしましたが、彼らは「会社の社長が変わる程度」にしか考えていないのかもしれない。また今でも中国がチベットやウイグル、それどころか自国民にもどんなことをしているのかをも知らないのかもしれない。「降参しても、自分の生活に大きな変化はない」と思っているのかも。
私としては世界の歴史も良くわからないかなり若い時期に「なぜメキシコはスペイン語を、ブラジルはポルトガル語なのか」に疑問を持ち、ちょっとだけその理由、南アメリカで何が起きたのかを調べて愕然としたことが忘れられません。そして「戦争のイメージ」が大きく変わりました。その後、興味を持って調べていくと戦争の恐ろしさは「一般人の死を超えた恐ろしさがある」と思うようになりました。国そのもの、人種も文化も伝統も全て消し去るのが戦争。そしてたまたま生き延びた国、人種が今の世界を形作っているだけで、これもまた流動的なのは今の世界の各地で起きている紛争を見てもわかる。
ま、そんなこんなで、私も「今では消えてしまった【日本人魂】をウクライナに見た」ような気がしています。そしてその心意気は世界を動かすのも見た。
しかし本当に不思議なのは、プーチンが彼の計画通りに全てが進んだにしろ、その後の世界がロシアをどう見るかを考えれば、逆にプーチンはロシアを追い込む張本人かもしれない。それとも鉄のカーテンを再び張り巡らし、その同盟国の中だけで生きていけると考えたのか。だとすればやっぱりプーチンは狂っているとしか思えず。
でもロシアは何もしなければどんどんだめになり消えていく運命だと考えたとしたら(追い詰められる安全保障と押さえが効かない民主化の波)、「世界にリセットを掛けてカオス状態にして、そこから新たな秩序を構築する」のもありと考えたのか。これって一般的にはそういう考え方はしないけれど、共産主義者はそういう考え方を持っているのね。彼らの大好きな「革命」がまさにそれで、また「一度ぶち壊す」ことが重要で、かつて日本の共産主義者達は「第二次世界大戦で日本が負けることを望んだ」と言われている。その後の荒廃した日本こそ、彼らが勢力を広げる舞台になると考えた。そしてそれはそのとおりになった。
プーチンは反共産主義というけれど、共産主義社会にどっぷり浸かって生きてきたわけで、そういう「まず、全部ぶち壊す」という理屈を信奉しているかもしれない。
だから平気で「核を使う」ことを匂わすのだろうし、そしてそれは彼の選択肢の中に実際に存在するんじゃないですかね。
大都市が一瞬にして消え去るような核ミサイルではなくて、戦場において局所的に使う小型の戦術核もロシアはもっているわけで、これは私達が持っている「核」とはイメージが違う。だから「核は使わないだろう」という考え方は私はかなり古いと思っていて、広島や長崎をイメージするのではなくて、「渋谷だけ吹っ飛ばす核も存在する」としたらどうだろうか。
でも「核」には違いはないわけで、もしそれをロシアが見せしめのために使って、「その次もあり得る」という態度なら世界はどう対応するのか。
私は打つ手が無いと思っていて、だからロシア軍の内部の動きに期待するわけです。そしてロシア国民の声。
クーデターに期待するなんて馬鹿げているようだけれど、そもそも帝政ロシアが滅びたキッカケになったのは「軍の不満が反乱へ発展した」で、それがスタートだったはず。
日本ではクーデターと言うと226事件がすぐに頭に浮かぶし、クーデターは「理想主義者の先走りで、失敗する」というイメージもあるようだけれど、世界の歴史はクーデターだらけじゃないですか。韓国もそうだし、私達が住んでいるマレーシアのお隣の国も同様。
私がもしロシア人で、ロシアという国の延命を第一に考えるのだとすれば、第二次世界大戦後にドイツがやったように、「全てはこいつのせいだ」と決めつけて、首謀者を吊し上げにし、そして国民は世界に向けて申し訳なかったと頭を下げるしか無いんじゃないですかね。
でもそれってリベラル系の考え方で、愛国者であるなら「そうまでして国が生き残る必要はない。理想を掲げてそれに向かうべきで、大きな賭けも必要である」と考えるんじゃないですかね。と書けば、「愛国者とは国の癌」みたいな気がしてくるけれど、私は世界のどの国も理想を掲げて敵と戦ってきた歴史があるわけで、圧力があればそれに屈し、攻められればすぐに降伏するような国は歴史から抹殺されるだけじゃないですかね。
でも「生き残ることが大切」という考え方に一理も二理もあるわけで、国も滅ぼされて言語も失って今も生き続ける人種もある。本当に最後の一人まで戦えば、命のつながりはそこで完全に切れてしまう。だから「自分の親兄弟を殺した敵にさえも媚を売り、彼らの子供を生み育てる」というのも真理の一つなんでしょう。でも逆にイスラエルのようにしぶとく生き延びる国もある。と同時に、生き延びようと思って降参したら虐殺されたなんて歴史も少なくない。あるいは奴隷になった、商品として売られたなんて事実は枚挙にいとまがない。
それは過去の話でまさか現代には起きないだろうと思いたい気持ちは私にもあるけれど、中国がチベットやウイグルでやっていること、あるいは興味が全くない人も多い「ロヒンギャ」にしても、私は「悲惨なことは過去に起きただけ」とは思えないわけです。
でもま、「強い方に付いて、金を儲けるのが大事」という平和主義の考え方が今は世界に蔓延していると思うわけです。そして私みたいに「状況が悪くなれば国を変えて移住すれば良い」みたいなズルいやつも出てくる。
そんな世界に衝撃を与えたのが「ウクライナ人の負けず魂」だと思うわけ。
自分の中にも反省点が山のようにあるのに気が付かされました。
私は気持ちの中に、市ヶ谷にあった自衛隊で演説後に割腹自殺をした三島由紀夫に傾倒する部分があるのだけれど、彼の講演録の中でも「その通り」と思うことが多いんですよ。そして彼は「死に場所を探していた」と思う。自分の命を賭けるに値する「大義」を探し求めていたはず。でも興味深いのは彼の盟友であった石原慎太郎は「生き延びて大義を貫くべきだ」と言い放った。私はどちらも正しいと思っていて、それは「大義を持つことを重視している」という共通点があるから。
でも今の時代、「大義」なんて言えば嘲笑されるのがオチ。
いつのまにか人は「生き延びること」「人生を楽しむこと」を最優先してしまうようになったけれど、本来、人間はそういうふうに出来ていないんじゃないかと思うんですよ。「大事なものを自分の命より優先する」から人類は発展してきたはず。これは「母親が自分の危険を顧みずに子供を助けようとする行動」に見えると思っていて、それは人間だけじゃなくて動物も同じ。そして「敵を一撃すれば自分も死ぬのがわかっているのに、敵を攻撃する蜂」にも共通点がある。
私は子供を持ってからそれを強く感じるようになって、「自分より大事な存在のために生きることの幸せ」をしっかり感じています。そんなのは嘘だ、偽善だと言う人も多いけれど、私は「ヨメさんや子供を救うために自分の命を差し出す必要があるなら喜んで命を差し出そう」と思っています。
また「人生は一度きりだから、楽しむべきだ」という考え方も【全く】持っていないんですよ。嘘みたいでしょ?(笑)
こういう死生観を自分が持っているのは自分でも不思議に思うことがあるのだけれど、その根底に「人生は一度きり」という考え方が薄れたからかもしれない。でも「輪廻転生」を信じているわけでもなくて、「命は糸のようにつながっている」というイメージですかね。命というより魂ですか。だから「大事なものを助ける時に自分の命を失っても、その綿綿と繋がる【愛の絆は切れない】という確信があるし、その絆を維持するのが生きる目的」であって、自分が楽しむための人生だなんて全く考えられないのです。「楽しむことを優先するのは駄目だ」と考えるわけでもなくて、楽しもうと苦しもうと、天寿を全うしようと自殺しようと災害で死のうとそれはいろいろあるわけで、何が良くて何が悪いとは私は思わないのだけれど、その絆だけは何よりも大事にしたいと私の魂が叫んでいるというほうが正解か。
そして私は今、戦うことを諦めないウクライナ人の中にそれを見た。