やっぱり来た。「足るを知れ」というコメント。

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二つ前のエントリー【なぜ次男坊が「マレーシアに移ってくる計画を白紙にした」のか】に「足るを知れ」というコメントが来ました。

我が家は「お金に執着が強い家」ですが、我が家の考え方を書くと「足るを知れ」というコメントが付くことが前にもありました。

でも私はそれを「そう思うのが普通だろう」と思っていて、決して違和感はないのね。

ただ我が家の考え方は違う。

こういうコメントをいただいたのは初めてではないのですが、我が家には「足るを知る」という考え方はありません。

なぜなら、「人として生まれきた限り、やらねばならぬことがある」と考えるし、それにはどうしても【資金が必要】なのね。

その資金は自分のお金である必要はないのですが、「資金を出して欲しい」と世の中に訴えても【世の中の人はお金は自分のものだ】と信じていて抱き込むばかりでお金を出さない。でも「無料の優しい言葉だけは掛ける」「無料の理屈だけはこねる」のね。だから私としては自分で資金を作るしか無い。

でもそれに必要な資金は「際限がない」わけであればあるほど良い。100億円あってもまだ足りない。

では100億円、自分で用意できるのかといえば、無理でしょう。そしてその資金が集まらなければ何もしない、何も出来ないというわけではなくて、1万円の資金からでも出来る。

それとやっぱり誰しも「夢」があるじゃないですか。日本人、あるいは人類としての夢がある。また「技術開発」や「投資」にしても【お金にならないけれど、大事なこと】って山程ある。でも「利益が見えなければ誰も投資しない、手出ししない」のが世の中の常で、だから「政府がバックアップすることが重要」なわけですが、もし自分に財力があれば、「自分が思う重要なことに投資が可能」となる。また世の中には「自費で頑張る人達も多い」わけで、私も出来ることならそれに参画したい思うことは多いわけです。

私はそういうこともせずに「外野から見ているだけ」という人生を送りたくない。

大事なことは「その理想に向かって歩む」「実行する」ということであって、我が家のその考え方は「自分が足りていればそれで良い」と考える人たちには決して理解できないことだと思っています。

昔からこんな言葉がある。

「立って半畳、寝て一畳」

つまりその広さだけあれば「人には十分である」という考え方。「足るを知れ」というのと同じ意味。

きっと私も私の家族たちも「その広さ」があれば十分なんでしょう。でも「どうしてもやるべきだと思うこと」があって、それにはその広さじゃ足りないんですよ。

理由は簡単で、「その広ささえ確保できない人達が世の中にはゴマンといる」から。自分の家族、親族にも足りていない人がいる。私は「地球の裏側に住む人達」まで気は回らないけれど、身近に知らん顔できない人達がそこそこいるんですよ。だから我が家では「足るを知れ」という考え方は、「あまりにも自己中の考え方である」と戒めるべき考え方です。

でも世の中の多くの人達はそれを良いことだと信じている。それは仏教の教えでそう教えられ信じてきたからでしょう。でも私にしてみれば、その考え方は「死後に極楽浄土がある」と【現世の辛さを忘れさすための方便】に使うある宗派の教えと同じに私には思えるんです。

残念ながら、我が家には「自分だけご飯を食べて寝る場所があれば良い」という考え方は皆無。それどころかそういう考え方は「世界を滅ぼす」と考えるし、そもそも世界はそういうふうには出来ていない。何のために市町村や県、そして国が存在するのか。

もしも公務員や政治家が「足るを知れ」と自分のことだけ考える世界はどうなるか、子供でもわかること。

それは「個人」も同じで、自分だけ食べるものを食べて、飢えて死に行く人を横目で見るだけで通り過ぎて行く人はいない。

でも「足るを知れ」というのは【そうしろ】という考え方だと私は思うわけです。

私の祖母は仏教の理解と普及に晩年を捧げた人で、その影響は私の母、そして私にも伝わったけれど、その考え方の中に「足るを知れ」という言葉はなかったんですよ。それどころか商人であった祖母は「金山を探せ。必ず見つけろ」という人でした。

何のために?

一々書かなくてもわかることだと思います。

人はより良い生活を求める。それは我が家も同じだけれど、それは人によって違う。「最低限確保したい生活レベル」は北朝鮮と日本とは違うだろうし、マレーシアもオーストラリアも違う。時代の違いもあって、私が育った家には「家風呂がなかった」んですよ。昔の商人の家ではそれが普通でしたが、今では「ええ~、お風呂がないの?」という時代になった。これって皆が「足るを知る」ことを忘れたからなんですかね。

今の時代、誰でもスマホを持っていますが、私が幼い頃は「電話もない家」は多く、だからといって、現代人に「足るを知れ」「スマホを保つ必要もない」「公衆電話があるじゃないか」という人はいない。

だから「足るを知る」というのも内容が違うのが当たり前で、「白米を食べるのが普通」の人達のことを「アワ、ヒエ」さえ食べられない人は「足るを知れ」と思うかもしれない。また逆の視線で見て「足りていない」と見えても、本人は「足りている」と思っているかもしれない。

私とヨメさんと二人で生活を始めたころは「ベランダを含めて19平米しかないワンルームマンションで二人でシングルベッドに寝ていた」ような生活だったけれど、「足りていない」とは思わなかった。

逆に今、一般的には「大きく広い」と言われるようなところに住んでいても「全く足りていない」んですよ。

それはですね、「重要なことは自分にとって足りているかどうかじゃない」からなのね。

私に足るを知れという人達にはその視点がないんだろうと思うんですよ。【判断基準が自分】で、自分が足りているか足りていないかだけを考えている様に見える。

そういう「自分」を判断基準にすれば、私もヨメさんも息子たちも「足りている」のはきっと間違いがない。

でも視点を「家族、親族、友人知人」に広げると【足りていない人達は結構多い】のね。ましてや視点を「世界」に広げたら、地獄のようなところで生活している人達はごっそりいる。

さて、そんな世界の中で「自分が足りていればそれでよいのか」って話なんですよ。

でもここで難しいのは「まず自分がそこから抜け出すこと」が重要で、それが出来ずに【やりたいことは出来ないし】し、愛する人を助けようと思っても【出来ない】のね。「お金のかからない【優しい言葉を掛ける】のが関の山」でしょう。下手に手を差し伸べると「共倒れになる事が多い」のが世の常で、それはやってみればすぐわかることだし、親子、兄弟姉妹でもそれは同じ。

だからまず自分がその枠から出ることに集中して、でもそこで止まること無く、「富を得る力を神に与えられた」とするなら、そこで止まれば「神の意志に反する」のかもしれないのね。だから「もっと大きくなれる可能性がある」のだとすれば、「そのチャンスを掴むのが使命」だと私は考えます。

そしてやるべきことをすれば良い。(ちなみに私はどの宗教にも入っていません)

三島由紀夫が言っていた「人は自分のためだけに生きられるほど強くはない」というのは真実だと思っていますが、それに気がついたら「足るを知れ」なんて言葉はマイナス思考の最たるものにしか感じないんですよ。

私が今、幸せに生きているのも「自分でそれを得た」とは全く思っていなくて、私の70年以上の人生の節目節目で「多くの人に助けられて今がある」のね。

それなのに「足るを知れ」なんて私は自分に言う事は不可能なんですよ。

私の祖母は「晩年、私財を投げ売って道場を開設した」のね。それは仏教の勉強と普及をする道場で、宗教施設と言うより「仏教を学ぶ教室」みたいなもの。星の数ほどある「お教」を現代文に直して内容を理解するのを中心にやっていた。

それはそれで私はそんな祖母を尊敬しているし、その祖母の影響は私にもあるのだけれど、祖母は「足るを知れ」とは言わなかった。逆に祖母は私に「金山を探せ、必ず見つけろ」と言い続けた。何のためにそれが必要なのかは祖母の生き方を見ていれば馬鹿でもわかるわけで、何をするかは別にしても、私は「祖母に続け」という思いがあるし、それが今のダボ家の基本的な考え方でもあるんですよ。

そしてそれが重要であるのは、「今の自分があるのも自分の力だけでそうなったわけじゃない」のがわかるから。

人それぞれ生き方があるけれど、私にしてみれば「足るを知るべき」と考え、「足りている状態」だとすれば、もう少し頑張って、余剰分を他のために使ってみたらどうかと提案したいくらいです。

もしかしたら「そのための力」を神が与えてくれているのかもしれないのだから。

母親が乳飲み子に「乳を与える」のも私は同じことだと思っています。

世界はそうやって出来ていて、世界中の人が「足るを知れ」と自分のことだけ考えたらどうなっちゃう?

ま、好きなように生きればよいし、私は他人の生き方に口出しはしない。でもダボ家の中では「やるべき使命がある」のは徹底して伝えるし、その私の考え方に賛同したからこそ、長男は日本での就職も蹴ってマレーシアに一緒に来て、今があるわけです。

「立って半畳、寝て一畳」。それだけあれば十分なことなんかとっくの昔に理解しているし、今は大好きな刺し身やお寿司も、365日、3食、食べようと思えば食べられる。

でも重要なことは「一人で食べる刺し身やお寿司は美味しくない」ってこと。

皆で「美味しいね~~~」とニコニコしながら食べるから美味しい。

私は、そしてダボ家が狙うのはそういう【輪】をいかに広げるかってこと。それだけのこと。

お金だって「足るを知る」どころか、いくらあっても足りないんですよ。

そもそも私に「足るを知る」という考え方があったら、今、マレーシアに住んでいないだろうし、30数年前にオーストラリアに渡ることもなかった。日本にいた若いころも「自立して頑張ろう」とも思わなかったろうし、そもそも良い学校に行って勉強しようなんてことも考えなかったかもしれない。私は幼い頃から「飢えた経験はない」し、「寝るところもあった」し。そりゃ欲しいものはいくらでもあったけれど、「足りていない」なんて思ったことは一度もありませんでしたから。

もしかしたら「マレーシアのMM2Hの人達」も「足るを知れ」とは思わなかった人達かもしれない。日本にいたら「食えない、生きていけない」からマレーシアに来たわけじゃないだろうから。

でもマレーシアには「生きていくのも簡単ではなくて逃げてきた難民」も結構受け入れていて多いのね。変わっているのは日本で、「足るを知れ」という日本人は多いけれど、「難民を受け入れるのが嫌いな国」。近年、外国人を積極的に受け入れているけれど、それは「安い労働力が欲しい」だけ。

世の中、いろいろですね~~。

そもそも「足るを知れ」ってどういう意味で、どれほどの価値があるのかさっぱり私にはわからない。

でもあえて言えば、「足るを知れ」というのは【自分で富を抱え込んで独占するな】という意味じゃないかとは思っています。

金は天下の回りもの

私はそれを掴まえて「有効利用する」のが私の、ダボ家の使命だと思っています。

世界中に「ダム」があるのも、同じことでしょう。

昔の人が「足るを知れ」とダムさえ作らなかったらどんな世界になっていたんでしょうか。

私が「足るを知れ」という言葉が嫌いなのは、「出来ることさえしない」「やるべきこともやらない理由を探す」ことに使われているケースが多いと思うから。

だから、他人はどうでも構わないけれど、我が家の子どもたちにはその言葉は絶対に使わない。使わせない。

ましてやそれを「自分に言い聞かせて満足する」のは良いにしろ、なぜ【頑張る人にそれを言うのか】というところが理解の外。余計なお世話そのもので、他人の足を引っ張るのに何の利益があるのか?

お金に関しては「金は天下の回りもの」であり、「絶対に一人で握りしめてはならない」のは徹底的に子どもたちには教えてきました。私が母に常にそれを言われ続けてきたように。

でもそれはけっして「優しさ」とか「道徳」ではないんですよ。

【皆で勝つため】には【皆で結集する】しか手は無いということ。

それは普遍の摂理であって、だから人類は村を作り大きくなって国を作り、安全保障や社会保障も充実させようとしてきたんでしょう。そのためには「税金を取る」ことが重要で、それが国家の原点。そして徴税の基本は「足りている人からは多く取る」様になっているじゃないですか。

だから「足りている人が多い国」は豊かになり、それが国中に浸透していく。「足りていない人達」を助けるシステムも充実する。

だから人々が「足るを知れ」と個人個人が自分の小さな枠の中で満足していたら【国は成り立たない】【人類は滅びる】ぐらいに思うわけです。個人個人は「足りている」と満足していても、「それ以上に稼ぐ人や企業」がいなかったらどうなるんです?

だから私は「足るを知れ」というのは「自分の稼いだ富を独占してはならない」という意味だろうとしか思わないわけです。決して「稼げるのに稼ぐな」「適当なところで止めておけ」という意味じゃない。

皆さんがどう考えるかは皆さんの自由。そして私の考えを押し付けようとも理解してもらおうとも思わない。でもダボ家は上に書いたような考えだというだけのこと。

私もダボ家も、見えない頂上に向かって登り続けるつもり。それも大きなリスクを背負ってそれをするわけで、滑落する、つまり破産倒産のリスクも受け入れて進んでいるわけで、「足るを知れ」なんて言葉は私達にとって「軽い言葉でしか無い」のですよ。

それは世界中で上を向いて頑張る人達、サラリーマンを辞めて自分の力で新たな事業を始めたり、FIREを目指したり、海外に新天地を求めて飛び出す人達、私財を投げ売ってボランティアに没頭する人達に取っても同じなはずで、「人生を諦めろ」「無駄な抵抗はやめろ」というのと同意語なんですよ。

パリでオリンピックが開かれたけれど、頑張るアスリートたちに「足るを知れ」と言えるんですかね。早く走ったり泳いだりすることに何の意味があるんだ、という?

企業も同じで、世界の競合相手に頑張ってる企業、たとえばトヨタに「足るを知れ」って言えますかね。

自分で自分に言い聞かすことは勝手ですが、他人に言う言葉じゃない。

当然、反論がある方もいらっしゃるでしょう。どうぞご自由にコメントを書いてください。私は誰がどんな考え方を持とうと、それを主張しようとそれは自由だと思っていて、決して否定はしません。ただ賛同できるかどうかは別の話。

私自身は思想的には(ちょっと)右傾していて「日本人らしい考え方」を持っていると(自分では)思っています。

ただ日本人が大好きな「同調圧力だけは我慢ができない」んですよ。金太郎飴みたいに「皆と同じである」ことに価値を見出さないどころか、「生き延びるためには他人と違うことをするしかない」と若い頃に起業してすぐにわかったこと。

そして私は若い頃から「変人」と言われ続け、幼い頃からそうでそれによる「トラウマ」をジジーになっても抱えていますが、反面、「変人で良かった」と思うことも多いのね。【視点がずれている】のが仕事では大いに役に立ちました。(笑)

でも同調圧力が強い日本では「生きづらい」のを感じ続けてきたし、でもしょうがないと諦めていたんですよ。

ところが結婚をし、子供も出来て、その子供の寝顔を見ていた時に思ったのね。

「こいつも私と同じ様に自分を殺し、隠し、言いたいことも言わず、周りの人達の顔色を見ながら生きていくんだろう」と。

でもその瞬間、ガツンと衝撃があるくらいに思ったことがあるんですよ。

「私はこのままでも良い。でも子どもたちに同じ様に生きろということは出来ない。するべきじゃない」と。

それがオーストラリアへ渡るようになった【たった一つの理由】です。

大正解でした。

そこには私が求めていた「自由」があったし、私も「開放された」と感じたし、そんな中で子どもたちも「自分を失うこと無く」スクスクと育ってくれた。でも「現地の日本人コミュニティーは日本そのもの」だと思いましたっけ。

多くの海外ではユニーク(独特、特異)であることが重視され、どんな会議でも「意見もなくニコニコしているだけ」だと馬鹿にされて相手にもしてくれない世界。「皆と同じ」ということは【君がここにいる意味は?】と聞かれる世界。ま、日本人は「農耕民族」だから皆と同じ、横並びであることが重視されるのでしょうが、個性を尊重する世界、そして価値観を押し付けない世界は本当に私にとっても家族にとっても「生きやすく、頑張りがいがある世界」でした。

今となれば、何か見えない存在に「有難うございました」と心底、お礼を言いたい気持ちで一杯です。

ところが今、なぜかマレーシアに住んでいる。

なんなんでしょうねぇ。

人生って面白い。

男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山

男児志を立てて郷関を出づ
学もし成る無くんば死すとも還らず
骨を埋むる豈に惟だに墳墓の地のみならんや
人間到る処に青山(墓)有り

 
 
 

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