どんなところに住んで、どうやって稼いで、どう家族を養って、どう子供を育てて、どんな生活をしたいか。
そんな夢、理想を誰しもが持っていて、それを一生追い求めているのが人生なんだって、改めて気がついた。
私としては「生きづらいところからは逃げるしか無い」と思い続けていて、自分としては「逃げ回る人生」でしかなくて、理想を追っているという自覚は全くなかった。
で、「理想的な場所」といえば
◯ 都市機能がある
◯ 自然豊かである
◯ 稼げる地である
◯ 過激な競争の地ではない
◯ 治安が良い
◯ 危険な行動をする貧困層がいない
当然、医療が充実していたり、子供の教育に問題がない、買い物は便利、食事も美味しい、娯楽があるなどの必要なことは「都市機能」の中に含まれる。
人それぞれ、何を重視するか、どの程度のレベルを欲するかは違っているものの、「項目」を出せばみんな似たようなものだと思う。
でもそんな「自分の夢や理想が叶う地なんてない」わけで、「妥協の上に妥協を重ね、その上にまた妥協を重ね、一番上には諦めが乗っている」ような地で生きているのが現状だと思う。そして時々、「息抜きを求めて旅行する」程度。
「でもそういう理想の地を作らなければならない」という学者がいるのがわかった。その地を「風の谷」と呼ぶ。
▼安宅和人(慶應義塾大学環境情報学部教授/LINEヤフー株式会社シニアストラテジスト/一般社団法人 残すに値する未来 代表理事)
マッキンゼーにて11年間、多岐にわたる分野で商品・事業開発やブランド再生に携わった後、2008年よりヤフーへ。2012年から10年間CSOを務め、2022年よりZホールディングス(現LINEヤフー)にてシニアストラテジスト(現兼務)。2016年より慶應義塾SFCで教え、2018年秋より現職。著書に『イシューからはじめよ』(英治出版)、『シン・ニホン』(NewsPicksパブリッシング)など。
こういう発想って素晴らしいと思うし、「理想の地」は決して放置してできることはなくて、「設計と構築という強い意志」がなければ出来得ない。
私は「選ぶことしか出来ない」と思っていたけれど、考えてみると「意図的にそういう場所を作ったのであろうこと」はヨーロッパの都市や地方の中小の町を見るとわかるのね。
特に「経済」は重要で、これが弱ければ理想の地は絶対に作れない。
でもそれが簡単なら誰も苦労することはなくて、でも「それは出来ない」と決めつけて「放置」してしまうと、【荒れ果てた大都会】と【廃れた田舎】にしかならないし、それはアメリカを見てもそう思うし、まさに日本がその方向に凄いスピードで変化しているのがわかる。
とはいうものの「日本に意図的に良い都会、良い地方都市、良い田舎を作れるか?」と言えば、私としては「無理に決まってるじゃん」と思う。でもトヨタがやっているような静岡県裾野市にある「ウーブン・シティ」みたいに、「未来の生き方を模索する」ことは重要だし、そういう都市もあちこちにできるかもしれない。
「都市を作る」なんていうと嘘みたいな話に聞こえるけれど、実は「オーストラリアでは普通のこと」なのね。実は1980年代~1990年代にゴールドコーストとブリスベンの中間位置に「30万人の都市を作る構想」がありました。これは日本政府も噛んでいて、「教育と研究施設、医療、最先端技術、ハイテク企業が充実した学園都市」みたいな都市。そしてその周辺に「老人用施設も併設する」という、日本の「老人対策」が隠れた目玉だった。
これは日本の「シルバーコロンビア計画」の一部だった。これは日本政府内の組織で、オーストラリア、カナダ、スペイン、ポルトガル、アルゼンチンなどへ「老人を送り出す計画」だったのね。当然、各国も「金持ち日本人が来る」ということで協力する国もあれば、カナダみたいに「日本は自動車だけじゃなくて老人も輸出するつもりか」と反対運動も起きたり。でもこれはこれである程度は成功して、1980年代は「移住ブームが起きた」わけです。オーストラリアに移住する人が爆発的に増えたのもこれが理由。でもその当時は「マレーシア」は全く対象となっていなかった。
この新都市開発計画の実行が決まるかどうかという時に「日本のバブルは崩壊して、この話はご破算となった」のね。でもそのシルバーコロンビア計画の実行部隊は、後に皆さんご存知の「ロングステイ財団」へと変わっていって、今に至る。この歴史を知っていました?面白いでしょ?
オーストラリアのあの馬鹿みたいに広い国土の開発を「自然に任せたらどうなるか」なんてすぐに分かるわけで、オーストラリアは「国土計画」がちゃんとあって「都市さえも作る」のね。これはゴールドコースト周辺も同じで、人口が増えると、突如、辺鄙なところに「街が出来上がる」ような国。
日本の場合は「国土が狭い」「人口が多い」から、これから都市をデザインして作るのは難しいにしても、「過疎」も恐ろしいことになっているし、それは「かつては栄えた地方都市も最悪」のところは多いし、【再開発する】のは可能だし、また放置してはならないと思う。
でも問題は「経済」であって、それが活況にならない場所を再開発しようとしても絶対に無理。
ただ一つの手段として「金持ちを集める」という都市づくりもあるはずで、金持ちが集まると自然に経済も動き出すのを私達は「ドバイ」がそれの良い例なのを知っているし、サウジアラビアの「NEOM」プロジェクトや、UAEの「マスダールシティ」みたいに新たな都市が出来つつある。
そして私が思うに、皆がコロナ禍では苦労したけれど、コロナの影響で「リモートワーク、テレワーク」が大きく伸びて広がったし、また「フリーランス」が爆発的に増えたのは良い傾向だと思うのね。
人類の歴史としては、「稼ぐのは住む場所に大きく依存する」のが常識だったけれど、そこに変化が出てきたのは素晴らしいと思う。
私が若い頃にはリモートワークなんて全くそういう考え方自体が存在しなかったし、「フリーランス」は「定職もない信用できない人」でしかなかった。
ゴールドコーストへ渡ってからも「稼ぐ方法」として私は「零細企業のオヤジ」でしかなかったけれど、それは当然「住む場所に大きな影響を受ける」わけで、「どこに住んでも良い」なんてことはあり得なかった。でも「株式投資」や「債券投資」も副業としてやっていたし、それはまさに「フリーランスになる下地を作っていた」のかもね。全く意識はしていなかったけれど【FIREを目指してまっしぐら】だったと言えるかもしれない。
38歳の時に「日本から逃げるようにゴールドコーストへ家族4人で渡った」のも、私は「自営業で食える」という自信があったからで、また「資産運用のスキルも芽生え出していた」という意識があったから。もしそれがなかったら「職を得やすい大都会に出るしかない」となったはず。
でも逆を言えば「ゴールドコーストは職を求めて人が集まる場所じゃなかった」ということ。だから恐ろしいゲットーもなかったし、夜は危なくて歩けないような街もなかったし、怖い顔つきの人たちもいない、温和で平和な街で、自然が豊かだった。
つまり、私達家族にとって「ゴールドコーストは風の谷だった」ということになる。
ところがゴールドコーストに近い大都市というと「オーストラリア第三番目の都市であるブリスベン」があるけれど、ブリスベンに行くとまるで様相が変わるのね。まず「歩く人達のスピードが違う」「服装が違う」「顔つきが違う」「人種が違う」し、大きなビルが立ち並び、近寄りたくないような汚い街や、夜は危ないと思われる箇所はいくらでもあった。当然、「貧民窟」もあった。
そしてシドニーやメルボルンに行くと、そういう意味での大都市感はもっと凄くて、「まるでオーストラリアじゃない」と思ったくらい。
というかああいう大都市がオーストラリアなのか、ゴールドコーストみたいな温暖で温和なのがオーストラリアなのか、それとも生存すら難しい水も草木もない砂漠みたいな広がりがオーストラリアなのか。そんな事を考えてしまいましたっけ。
私はゴールドコーストへ渡ってから事業を始めたけれど、当然、それは「ゴールドコーストという土地密着型の中古車の輸入販売」だった。私はもともと「オーストラリアにオーストラリア初、オーストラリア自前のパソコン通信網を築く」という事業計画をつくり、それで永住権を取ったのだけれど、あまりにもその計画は壮大すぎて、そして危険で、様子を見ていた。そんな時に「インターネットの民間への解放が始まった」わけで、もしあの時「パソコン通信」なんてやっていたら、「一瞬にして倒産」したと思う。
でもま、「通信が解放された」のは素晴らしいことで、ところが私はインターネットより「電話」の方に興味があって、そちらの新事業を始めたり。今思えば、インターネットの黎明期にどっぷりハマれば面白いことも起きただろうと思うのだけれど、「後の祭り」。(笑)
その時点では40歳を超えていて、もうすでに「経営者としての資質がない」のは自覚があったんですよ。また異国の地で全力投球で仕事に打ち込むのはリスクが有ると思っていたし、まぁ、やっぱり日本時代と同じ「零細企業」一直線。(笑)
しかし、私の投資熱はジワジワと熱くなり、また株式投資や先物投資の自由度が増して面白くなってきた時期でもあった。そしてデイトレと出会い、それに心を奪われた。
そしてある時、ついに「この世界で生きていこう」と決心をしたのね。「デイトレーダー+債券投資」で生きていくことを決めて、2つの事業は手放した。
この時点では「どうやって生きていくか」ばかり考えていて、「デイトレーダー+債券投資」が【住む場所は関係ない】なんてことは意識したことはまったくなかったんですよ。
でもある時、それに気がついた。(笑)
そうかぁ、世界中、どこに住んでもこれで食えるということかと。
そうこうしているうちに、子どもたちは勉強のためにゴールドコーストを離れてメルボルン、シドニーに行ってしまったし、夫婦二人でゴールドコーストで「なにやってんの?」みたいな生活が始まった。でもまだまだ「引退」とか「老後」なんて考える年齢でもなかった。
そこで「もしかしたら次のステップに上がるチャンスかも知れない」と思うようになったのね。そして「マレーシアって面白いんじゃない?」と思うようになった。
よーーし、行くぞ!と心を決めたときにリーマン・ショック。(┰_┰)
これで大打撃を食らって「俺はもう終わりだ」と思った。そしてマレーシアに渡るのも、MM2Hのビザは取ったのに棚上げ。マレーシア行きを一年早く考えて実行していたらまるで違う人生だったと思う。
でもその後7年経っても「何も変わらない」わけで、もうマレーシアに渡るしかないかとゴールドコーストの資産も全て叩き売ってマレーシアに渡ったのが2016年。
つまり、マレーシアも私にとっては「あらたな風の谷」だったのね。そしてマレーシアに「将来の夢を重ねることが出来た」。
何が言いたいかと言うと、まだ「世界には自分に合う【風の谷は存在する】ということ」なのね。
そんなことはわかっていても、「よし、行こう」なんて簡単に決められない。その第一の理由は「経済的なこと」で、【どうやって食うんだよ】という問題から逃れることは出来ない。
でも私の場合は「デイトレ+債券投資」で、たまたま「住む場所は全く関係がなかった」ということ。でもあえてそれを狙って、そうなったわけでもない。
でもこれからは「あえてそういう生き方を狙う」というのもありじゃないの?と思うわけです。
多くの人がデイトレをしたり、債券投資もするけれど、それは「もう少し収入が欲しい」とか「資産形成をしたい」と考える人がほとんど。
でも【自由を手に入れるためにやる】という意識は強くないんじゃなかろうか。
私もそんなつもりで始めたわけじゃない。
でも今は「自由を手に入れるのはこれしかない」と断言できるようになったし、この生き方は世界に大混乱が起きようが、戦争だろうが、大災害だろうが、大不況だろうがなんだろうが、「証券会社、取引所、インターネットが世界に存在すれば生きていける世界」。
その生き方を手に入れるためのトレード、投資だと考えれば、「かなりのやる気も出る」んじゃなかろうか。
そして「自分の好きな風の谷で生きる」ことができるようになる。
でもそれには「収入は与えられるものではない」のであって、「自分で掴み取るもの」と考えてそれができる状態を維持することが条件となる。
つまり「給料はいくら?」という発想ではダメで、でも新NISAで「ドルコスト法で良いんだよね?」なんてのは【お金は全部使わないで、多少は貯金しましょうね~】というレベルでしかないのを知る必要がある。
そして願わくば、いつの日にか、日本中に「風の谷」ができていれば良いなぁと思う。