世界的に「年金システムが破綻する」のはわかりきったこと

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「労働の対価」だけでは生きられない時代の到来

「収入とは労働の対価である」と考える人は多いですが、「労働の対価を得ることができなくなる時は必ず来る」のは間違いないですよね。

それは「年齢」であり「病気や事故」かもしれませんが、【その時は必ず来る】のは誰でも同じ。

私の場合は「半端じゃない怠け者」なのは幼い頃からそうで、だからこそ「早く起業してメチャクチャ頑張って、そして早く卒業したい」と【キリギリスじゃなくて蟻になろう】と思ったし、でもそれもなかなか上手くいかないし、「もっと良い方法はないか」と思って「株式や債券投資の世界に足を踏み入れた」のが相場の世界に入ったキッカケで、紆余曲折はあったけれどやっと40代でどうしようもない実業から離れることが出来た。でもそれも【FIREだ~~♫】なんて生易しいもんじゃなくて、結局は「全て自己責任の個人事業主」からの脱却はできず、70歳を過ぎても【自転車操業は続いている】のは同じ。【蟻はいつまで経っても結局は蟻で、豊かなキリギリスにはなれない】状態。

ただ、「投資家だ」なんて言えない極小の存在でも「資産と収入は増え続けているし、そのノウハウを手に入れた」ことにはどうにか成功していて、【将来にはまだまだ希望がある状態】なのは運が良かったとは思うし、それを子どもたちに継いでもらい、【今後は彼らに食わしてもらう】ことを狙っている。(笑)

また「労働を続ける」ことが可能だとしても、「役職定年制」は多くの企業が持っていて、それは50代~60歳に設定されていて、その年代になれば「収入は減る」事が多い。もちろん「年功序列」は過去の話しで、定年まで収入が増え続けることはない。

自営業でも企業家でも同じで、いつか体力的にも精神的にも「時代の流れには追いつけない」ことが必ず起きる。

でも「人生100年の時代」に突入した。

いずれ破綻する社会保障システム

だから「年金が重要となる」わけですが、このシステムも「人口構成が年寄りが多くなる国」では【いずれ破綻する】だろうと言われている。

私は「破綻」と言う言い方はちょっと違うと思っていて、年金は「皆で支え合うシステム」であるからして、「一人の老人を何人の若者で支えるか」に変化はあっても破綻はしないと思っています。でも「若者の負担は増えるばかり」で、未来永劫そのシステムが十分に機能するとは思えないし、「破綻はしなくても年金額の減額は起きる」可能性大。でもそれでは「社会問題になる」からして、「政府が補助する」にしても限度があって、「年金システムを維持する」と「国家財政が破綻する」ようなことが起きるであろうことは考えられるし、それプラス「健康保険も同様」で、今のまま進んでいけば世界は大変なことになるであろうことは簡単に想像できる。

今の日本の年寄りは「高度成長時代を生きた」し、「蓄えも多い」し「年金も十分ではないにしろどうにかなっている」状態。だから「逃げ切り」を考えていれば良いとも言える。

でも「これからの若者がどうなるか」は別世界となるであろうことも簡単に想像できる。

ま、悲惨なことになる前に「裕福な老人は年金を減らされる、受給できない」ようになるであろうことはオーストラリアの年金制度がそうなっているし(私は日本からもオーストラリアからも受給資格はあるけれど受給していない)、それは各国の未来でもあると思うのだけれど、それでもうまく行かなくなるのは「寿命が伸びる」「人口構成が変わる」ことから間違いないと思う。

どうなるんですかね~~。

迫りくる津波と「神の采配」

未来がどうなるかはわかりきっているのに、それにどう対処するかを真剣に考えていない人はまだまだ多いと私は感じるし、「だから新NISAなんだよ」というのも【一歩前進】とは思うものの、「新NISAは入口でしかない」ことを理解していない人も多いと思う。

大きな津波が来ることがわかっているのに「逃げようとしない人たち」は多いし、海岸まで見に行く人までいるのが世の中で、本当に不思議だと思う。

でもそれは「自然淘汰」という【神の采配】かもしれなくて、それがいつの世にもあらゆる形で存在するから、どうにか人類は「進化」し生き続けているのかもね。戦争も同じで、もしこの1000年に戦争がなかったとしたら、もし戦争で死ぬ人がいなかったとしたら、もう地球は何倍もの人口になっていて破滅しているかも知れない。それは「疫病」も同じで、かつては人口の30%が死ぬなんてこともヨーロッパで起きたし、日本でも「村が消滅した」ようなこともあった。

そういう過去をつぶさに調べてみれば、「ワクチンは駄目」と断定するのも簡単じゃないことがわかる。「危険だから打たない」のではなくて、死ぬか生きるかの瀬戸際になれば「毒饅頭でも食うしかない」「藁をも掴んですがりたい」状態を人類は何度も経験してきたし、戦争も同じで「自分が生きるために他を殺す」「邪魔者は消す」ことを続けてきたから「世界の安定は保たれている」という発想も無視できない。

生き残るための基本原則:「自己責任」

「生き残る」ことって、私達が考えるよりもっと難しいことなのかもしれない。

当然、ボ~~~っとしている平和ボケの人達が多い国は「多くの人たちが淘汰される」だろうし、逆に北朝鮮やインド、バングラディッシュみたいな国で生き延びた人たちは生き延びるノウハウを持っているかもしれない。

「政府が面倒を見るべき」というのもわかるけれど、それは「解決策とは言えない自己責任、そして進化の放棄でしかない」と私は思う。

「私達を切り捨てるつもりか?」と騒ぐ人たちはいつの時代にも多いけれど、「イエス」と政府は言えないだけで、【国家は弱者を助ける義務は間違いなくある】にしても、医療の世界にある「トリアージ」と同じことは起きて、「助ければ助かる人たちを優先し、助けるのが難しい人たちは切る」ことは必ず起きると私は思う。

それは「国家も同じ」で、「アメリカが必ず助けてくれるだろう」というのも「助ける価値があるから」であって、「その価値がない」「助けることによる代償が大きすぎる」となれば「見殺しにする」のは【自然の摂理】だと思う。

残念ながら「助けたら自分にどういう見返りがあるのか」を考えるのが【世界の構造】であって、「純粋な無償の手助けはない」と【期待をしない】のが「サバイバルの基本」だと思う。「ウクライナを助けろ」という声は大きいけれど、明らかな中国による侵略、民族浄化のジェノサイドが起きている「チベット、ウィグル、南モンゴルを助けろ」という国際的な盛り上がりは【ない】のが現実。

私の友人に「ある上場会社の創業者の娘」がいて、遺産も相続して半端じゃない大金持ち。そして彼女は「ボランティアに一生懸命で、かなりの金額をそれに注ぎ込んでいる」のだけれど、「なぜそこまでやる?」と聞いたら【自分の徳を積みたいから】という返事。これには私も驚いて、「なんだぁ、自分のためか」「偶然、大金持ちになったどうしようもない後ろめたさがあるのだろう」と思った。そんな話を息子としたら「やらないよりやるほうが遥かに良い」と言っていたっけ。

どちらにしても「自分を守るのは自分」であるし、「家族や子孫、愛する人達を守る」のも【自己責任の範疇】【サバイバルの基本】だと思う。

日本の弊害と、次世代に伝えるべきもの

私は「日本は高度成長時代を経験した」ことの弊害があると思っていて、誰しもが「頑張って働けばどうにかなる」と思ってしまっている。だから「親は親で子は子」で【お前も頑張れよ】で親子のつながりを切ってしまう。私はそういう考え方でうまくいくとは全く思えないし、人類は過去も現在も「先祖が残してくれた有形無形の資産を受け継いで生きている」と思うんですよ。それは農家も漁師も商店も企業も同じで、「創業者が死んだらそこでリセットして、全てはゼロから再スタート」なんてことはありえない。教育も同じで「過去からの積み重ねがあるからそれを学ぶことが出来る」わけで、原始人でも「祖先が手に入れた有形無県の資産の上に進化があった」はず。また「それがあるから独立も出来た」のだと思う。

「美田を残すな」という言葉があるけれど、「田畑を残すな」とは言わないところに注目するべきで、もし本当に「誰しもがゼロスタート」だとしたら、何十年、何百年も資産、経験、ノウハウを繋げてきた人たちに勝てる可能性は、私は低いと思う。残し伝えるべきものは「決してお金ではない」し、お金は天下の周りもので価値がなくなることもあるけれど、「経験、知識、ノウハウの継承は大事」だと思うし、「お前はお前で頑張れ。社会に出て学べ」と放り出すのもわかるけれど、「本当に大事なキモの部分」は社会も学校も「教えてくれない」と考えるべきだと思う。理由は簡単で「社会は文句も言わずに歯車のように働く人間が欲しい」だけで、日本の教育は明治維新後の「優秀な兵隊を育てる」という目的のまま、今も変わっていないと思う。反面、「出来る人材が欲しい。人材は育てなければならない」のはいつの時代も同じだけれど、それは「限られた人のケース」であって、それを万人に求めることはない。

また「資本主義の社会である」のは学ぶけれど、「どうやって資本家になるか、そのノウハウ」を社会も教育も【一切、教えることはない】のね。【人は皆、平等です】と【奴隷には教えている】みたいな感じがする。

「人生を変える人との出会い」って多くの人が経験するはずだけれど、まず間違いないのが「自分の親」だと思うんです。これは「良いことばかりではない」にしても、それも含めて「親は学びの元」となるし、親が築き上げた有償無償の資産を親が子供に伝えようとしないって、私は本当におかしいと思う。「親はなくても子は育つ」のは間違いがないしろ、「親がいるのに何も伝えない。社会に出て学べ」っておかしくないですかね。たとえ親は貧農だろうが街の小さな魚屋のオッチャンだろうが、親の知識や経験、生きるノウハウは私は「知恵の宝庫」だと思う。

たとえそれは「片手に乗る程度の少数の種籾でしかない」かもしれないけれど、そこから育つものは大きいと私は思うわけです。でも多くの人は「学校で、社会で学べ」と放り出してしまう。でも学校も社会も「大事なキモのところ」って私は教えてくれないと思う。もちろん「自分で学ぶ」のは基本にしろ、チューターとしての「親の役割」は大きいと思う。そして子供のことを真剣に考えて教えてくれるチューターは「親しかいない」かもしれない。

【帝王学】というのは「どの家庭にもあって、それを子どもたちに伝えること」は重要だと思う。

海外の教育は「独立心を育成する」ことに焦点を置いている国もあるし(オーストラリアがそう)、それもない、お金のことも全く教えない日本とはどうしたって大きな差が出てくる時代になったと思う。

また日本は「チャレンジ精神を称える」けれど、それは「社内チャレンジを意味する」事も多く、独立(FIRE含む)して失敗した人たちを「受け入れない社会」を形成していて、「組織を裏切った人の烙印」を押す。だから【出戻り】は非常に難しく、「出戻りは差別される」のは結婚も同じ。

そうではない「引く手あまたの人たち」がいるにしても、それはごく一部でしかなく、そうやって「我慢をし、与えられた仕事を文句も言わずに続ける」ことを強制する社会。「突然の転勤命令、単身赴任」なんて絶対にありえない国々が多いのに(オーストラリアもそう)、日本の社会はそれを容認する不思議な国。

だから私は「少なくとも自分、一族が持つリソースは有形無形に関わらず全て子どもたちに伝え残すべき」と考えるし、それを他人、社会に期待することは不可能。もちろん「それの活用法」も伝えたい。でもそれをどう使うかは子どもたちの自由で、全て捨ててしまう、活用できない、失うことがあってもしょうがなくて、でも私は「何も残さない」なんてことは考えられないのね。でも出来ることなら「残したものを活用して小さな、しかし他者、他社、政府に依存しないで自由を感じながら生きられる相互補助が基本のコミュニティー」を作ってほしいと願っています。

幸せと不安の狭間で

でもま、そんな事を考えないで生きていられることこそが「幸せ」だと思うし、それが近代の日本だと思うけれど、それが未来永劫、続くとは到底思えないし、それの崩壊はすでに始まっている。

私がそう考えるのも「野良犬みたいな生き方」をしてきたからかもしれず、常に「薄氷の上を歩く」「タイトロープを渡る」不安から抜け出ることが出来ないのは【異常】なのかもね。

でも、今、思うんですよ。「異常だからどうにかなったのかもしれない」って。

 

 

 

 

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