私は食べ物でも「美味しいとか美味しくないとか」言いたいことを言うし、「消費社会の中」で好きなように生きていますが、心のなかでは「全く違うこと」も考えていて、私達が当たり前のように殺して食べる「牛、豚、鶏の命を大事にしたい」という強い思いがある。
側溝にハマった犬や猫は消防隊まで出動して助けるのに、屠殺場に送られる牛や豚、鶏を助けろと言う人はいない。「クジラを殺すな」というのも不思議で「牛を殺すな」とはなぜ言わないのか。
昔、ゴールドコースト時代、パーティであるオーストラリア人が私に「なぜ日本人はクジラを殺すのか。止めるべきだ」と話しかけてきたことがある。私は逆に「なぜクジラだけは殺してはならないのか」と聞いたら、「彼らの知能は高いから」という。ま、この辺の理屈はいろいろで、どの理屈は正しい、間違えているということはないと私はないと思っていて、その人の考え方でしかない。
私は即座に答えたんですよ。「私の子供は知的障害を持っているのだけれど(嘘)、彼は生きる価値がないということになるね?」と。そうしたら彼は驚いた顔をして黙ってその場を去っていった。
またその男性は実は知り合いで、ヨメさんの友人の旦那。
また彼がある日、こんな事を言いだした。「全ての命は貴重だから、ゴキブリも殺さないことにした」と。これにその奥さんも困っているらしいのは聞いていたのだけれど、私はその時もすぐにこういった。「素晴らしいじゃないか。でも命を大事にするならアリや蚊の命も大事にしないとだね」と。当然彼は「その通り」というので、「でも大変だね。外を歩く時にアリを踏み潰さないように注意して歩かないとならない。凄いね」と。その時も彼はすぐに話題を変えた。
私はこういう「単純に物事を考える傾向」は欧米人には多いと思っていて、そんな話をインド人の友人と話していたら「あはは、そんなもんだよ」と笑っていう。そして「菜食主義者も同じだね」と。菜食主義者もいろいろあるけれど、「野菜なら何を食べても良いと思っている欧米人は多い」と。でもインド人が考える菜食主義とは「根菜類は食べない」のが普通だという。もし命を大事にするとするなら、「根菜類は引っこ抜いたら死ぬ」わけで、でも「葉っぱや実、種を食べるのであれば、その植物を殺すことはない」と考える。そういう意味では、私は「ヴィーガンの人達は筋が通っている」とは思う。
でも命に拘るとするなら、それこそアリや蚊にも命があるし、植物の実や種も同じ。そして「動物の繁殖には欠かせない【精子】」にしても何億の中から一尾しか生き残らない」し、多くは無駄死にして「排泄される」わけで、それを救おうとする人はいない。
結局、「数が多い生命、小さな生命はそれの一つ一つを大事にする必要はない」という【暗黙の了解】があって、世界はそれの上に成り立っている。
そしてそれは「人間社会」も同じで、世界の何処かで人口爆発が起きていて、多くの子供達が病気や飢餓で死んでいっても「しょうがない」と諦める。そこで死ぬ子供は「自分の子供」と同じ「一つの命」なのに救おうとはしない。
私はこういう簡単な疑問さえ解決出来る宗教家に会ったこともなくて、どうしても宗教とは「ご都合主義」だという思いが捨てきれない。
かくいう私も「全ての命を救おうと思うか?」と聞かれれば答えは「ノー」だし、自分の腕に止まった「蚊」を叩き潰した時の「喜びや満足感」は半端じゃない。(^_^)v
ただ出来ることは「手を合わすことだけ」ぐらいで、その感情も複雑で、多くは「哀れみ」でしかなくて、「助けようとは思わない」のね。
これは食事をする時の「いただきます」と同じで、「他の生命の犠牲の上に成り立っている」不甲斐なさをどうすることもできないから、せめて「お礼ぐらいはしっかりしよう」と思うだけのこと。また「牛や豚を殺す」なんてことが自分には出来るとは思えないし、そういう嫌な役を引き受けてくれる人達がいたり、動植物を育て、収穫し、流通に乗せてくれる人達がいないと、私は何も食べることが出来ないから、そういう人達にも「お礼」は必要だと思うだけのこと。
でも「いただきます」と感謝の意を表せばそれで済むとも思えない。
ま、こんな事を考える自分って変わっているのかもしれないけれど、この問題は答えが出ないからいつまでも私の中でひきずったまま。(笑)
でも「他を殺すのを当たり前だと思うことだけはやめよう」と思う。
また「助けられるものは助けよう」とも思う。
これはオーストラリア時代に「地下に水耕栽培工場を作って野菜類を育てていた」ときにも強く感じたことで、食物栽培では「間引き」は絶対にせざるをえないことで、「元気で強い株を残し、他は殺処分する」わけで、毎日毎日「お前達可愛いね~。頑張って育てよ~~」と言いつつ「ダメな奴は殺すからな」と言っているのと同じで、そして「結果的には殺して食べるのは同じ」で、「愛情を持って育てる」というのも【偽善でしか無い】と思うわけです。彼らが育つのを見ながらいろいろ妄想するのが好きだった私は、ちょうど子育ての時期で「人間も同じなんだ・・」と気がついた時には本当に恐ろしいと思いましたっけ。
弱肉強食は「この世の決まり」だけれど、神様がいるとするなら「神様はそれをどう考えるのか」なんてことが結構気になったり。
でもこの答えは私の中では出ていて「私達が考える【命は大事】」という価値観を神は持っていないと思うんですよ。私達にとって大事な「生死」も神にとっては「夜になったら寝て、朝、また起きる」のと同じで、【生命を単体で考えるからそこに価値があると思ってしまう】けれど、「命とは集合体で全てが繋がっている」と考えれば「一つ一つの命は【大きな木の一枚の葉っぱと同じ】かもしれない」のね。個々のキーワードは「分け御霊」かもしれなくて、大きな木の一枚の葉っぱだから「価値がないということでもない」のだと思う。
昔、私はSF小説が好きで、特に「半村良」が大好きだったんですよ。彼の作品の中には「哲学的なことを考えさせられるもの」も多くて、ある短編SF小説で宇宙人が地球に降り立ち、時代は江戸時代の日本で、そこで知り合った日本人たちと各地を旅するのね。ある時、峠を超えたら「見渡す限り花が咲き乱れる絶景だった」のだけれど、それを見た一同は感激するものの「宇宙人だけは泣き出した」のね。彼いわく「恐ろしい光景だ。地球ではこうやって自分が生き伸びるために他を殺さないとならないのか」と。いわゆるその絶景とは「ある種が他を絶滅させて大繁殖している光景だった」わけです。で、ある仲間が彼に聞く、「君の星ではこういうことはないのか?」と。彼は「私の星ではあらゆる生命は、他の生命を殺すこと無く生きて共存している」という。私はその描写に驚いたのね。そんなことを想像することもなかったから。
私はそれが頭の片隅に残っていて、何十年も経ってからSMAPの「世界に一つだけの花」という歌を聞いてそれを思い出した。そして「恐ろしい歌だ」と思ったんですよ。
世界に一つだけの花
一人一人違う種をもつ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい
もともと特別な only one
この歌って「弱肉強食の世界」を無視していて、【その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい】というのは【なんとしてでも、他を殺してでも自分だけは生き残れ】という意味に私には思えた。これは今でも間違えていないと思っていて、「花屋の店頭に並ぶ花」は【それぞれが弱肉強食の世界で勝ち抜いたからそこに存在している】のは間違いがないと思う。つまりこの歌は「勝ち組になれ」「他の生命のことは考えるな」という非情な歌に思えたわけです。それは「道端に咲く花も同じ」で、厳しい競争社会で勝ち残ったからそこで花を咲かせている。「皆で手を繋いで皆で繁栄しよう」なんてことは絶対に不可能なのが私達が生きているこの世界。だから「進化が起きる」わけだけれど、「進化しなくてもいいから皆で生きよう」という発想があっても良さそうだけれど、それはあり得ない、殺戮の世界。
でも全ての命を助けることは絶対に不可能だし、では「どの命を助けるのかをどう決めるのか」という問題があるけれど、「助けたいと思ったら助ければ良い」し、「助けたいのに見て見ぬふりをするのだけはやめよう」と思う程度。
自分も「数多い雑草の一つ」と考えれば、「他を押しのけてでも生き延びる必要がある」のだろうけれど、私はそうまでして生きたいとは思わないタイプ。逆に「生き延びるべき存在がある」としたら、いかに自分はそれの【有用なエサ、養分となってそれを生かすか】が重要だと思う。だから私は「子どもたちに命をかける」わけです。そしてそれこそが「生きる道」なのだと。この考え方って上にも書いた「命とは集合体である」とすれば、全くおかしな考え方ではないし、多くの人たちが持つ「愛する者のためには命を捨てる」という行動も、「会社にすべてを賭ける」「国のために命を捨てる」という、あるいはウクライナもそうだけれど、兵士たちが「命を賭す」のも【集合体であるのに気がついているから】じゃないかと思ったり。「名誉だとか報酬、死後に良い生活がある」なんてのは「後付の理屈でしかなくて、古代からもっと本質的なことに人間は気がついている」ような気がしています。でも現代は「個を重視過ぎるかもしれない」と思っていて、でもそれは「命が生きようとする本能に直結している」から受け入れられやすいけれど、「本質からは遠ざかっている」ような気がしないでもない。アリやハチが「個々の権利を強く主張しだしたらどうなるのか」みたいな。
そんな風に考えて毎日を生きていると、やっぱり気になるのは「人間の都合で育てた犬や猫」を「飼育放棄してしまう」ことで、そういう犬や猫は「殺処分になる」こと。これって最悪で、愛する夫婦間に生まれた子供を愛し、育てたある時、その子供を捨てるのと同じ。そしてその子供が殺されても見ぬふりをするのと同じ。
そういう犬や猫は世界中に多数いて、全てを助けることは出来ないにしても、「出来る限り助けよう」とする人達は少なくないのは良い、というか「救い」だと思う。
それと同じ様に、私は昔から気になっていたのは「競走馬」で「用無しになると殺処分される」ことがどうにも我慢出来ないのね。でも自分で救うことは出来ないし、それどころか「食用に回される」事も多くて、「馬刺しも美味しいね~~~」なんて喜ぶ自分がいるのも事実。と同時に「やっぱり助けたい」と思う気持ちは常にある。
どうあるべきかなんて考えても自分の頭では答えは出ないわけで、せめて「救おうと頑張る人達の応援ぐらいはしよう」と思う。
でもそれも根本にある思いは「贖罪」でしかなくて、それをしたからなんなんだってことなんだけれど、「頑張る人達がもっと頑張ろう」と思ってくれれば役に立つのかもしれないし、「餌代が無い」なんてのを聞いてそれを放置したら「私自身の罪が重なる」ような気がするんですよ。でも援助したら許されるわけでもなくて、結論は出ないのだけれど、美味しい人参でも干し草でも食べて、「美味しかった」と喜ぶ馬の顔を想像して、「その一瞬を作ろう」と思う。
私も70数年生きているといろいろあるわけで、「生きた」というより「生かされた」感が非常に強いし、本当に困っている時に手を差し伸べてくれた人の笑顔を、そしてその時の有難さは一生忘れられない。それがあったから私の人生が変わったかと言うとそういうことでもないのだけれど、「あの時に感じた暖かさ、喜び」がたとえ一瞬だとしても「そんな一瞬を少しでも増やす」のが【求めるべき幸せ】だと思うんですよ。「将来のこと」なんかわからないわけで、「明日のことさえわからない」のが人生だけれど、だからこそ「ニコっと笑える瞬間」を積み重ねたいと思う。
「金は天下の周りもの」だし、【足るをしれ】なんて言わずに「稼げる人はガンガン稼いで使えば良い」と思う。それで「助かる命もある」のだから。
アルパカを見る場合・・・協力金としてふれあい体験料 1200円/人10分間※動物の飼育環境向上と健康管理のため有料とな…
応援はこちらから。
これまで、応援金をご寄附をくださった皆様、誠にありがとうございます。厩舎前にカンパ箱を設置しています。(バーバパパ貯…

