自己責任

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原発事故の被害ですが、最近調べれば調べるほどわからなくなってきています。放射線の危険、安全の線引きがどの辺にあるのかが諸説入り乱れていて本当はどの辺りにあるのかがさっぱりわからないのです。

ただ世界には間違いなく安全と危険を分ける法律や基準値があるわけで、それを前提に考えるととりあえず福島市、イイダテ村は速攻で避難したほうが良いと思うし、それなりに私が出来る限りの訴えを続けてきました。そしてその行動の中で同様のことを主張し、行動を起こしているボランティアグループがいるのもわかりました。でも、それがどの程度の効果があったのかは私にはわかりません。

自分の安全を守るのは自分。この大原則は変わることなく、政府に自分の、そして家族の安全を丸投げしてしまう人たちが決して少なくない実態を見ました。そして市町村の首長も同じ。自分では決めることができず政府の指示を待つのみという依存体質、責任逃れも見えました。

結局、特定の地域が危ない危なくないという話の前に、そういう自分で自分の責任に気がつかないという点、これは誰が悪いわけでもなくそういうシステムの中で長年生きてきて、今もなおそうである村社会の壁と自分は戦ってきたような気がします。これは理屈を言っても駄目で、どんなデータを見せても駄目で、お上の言葉、それだけを頼りに生きている人たちがいかに多いかがわかりました。それだけにお上の責任も大きいはずですし、もちろん国民を守る努力はしているものの末端を心配するほど暇じゃないという現実も見ました。

そんなことは今更始まったことじゃないだろうと言われそうですし、その通りなのですが、そうであって欲しくないという期待。これは愛する人に正しい事をして欲しいと思うのと同じように、日本という我が祖国もたった一人の国民の命でさえ全力で助けるようであって欲しいという期待は今でも捨てることが出来ません。

戦争もそうだし、一大事が起きた時には必ず犠牲を強いられるし、それを想定しなおかつ受け入れてどうあるべきか考えなければならないのは当たり前なのでしょう。トカゲも自分の命を守るために自らの尾を切り捨てることがあるように、これはきっと政府も個人も小さな小動物でさえもそれが常識なのかもしれません。

でも私はそれを受け入れる事は出来ないし、そういう生き方はしてこなかったつもりだし、今後もしたくないと思うのです。でも勝手にそう思うやつは勝手にしろということでしかなく、それを他に、政府に求めてはいけないことなのだろうと思いました。

「己が生きること」これは生命の本能ではあるけれど、それに絶対なる価値観を置いてしまうと何でも許される事になってしまう。我々は他の生命を犠牲にしないと生きていけないけれど、それと同じく仲間さえも切り捨て、あるいは仲間さえも食って自らが生きる選択もアリになってしまう。

いや、そんなことはない。皆で頑張ろうと声を掛け合いながら助け合って生きているじゃないかという人もいます。でも私には優しい振りをして、でもここぞという時には「己の損得」が最優先するずるさがありありと見えるのです。。今になるとやっぱり三島由紀夫の言いたかったこと。そして西部氏が文化論で言っていた事。それらの方が正しい、「己の命」に絶対的価値を置いてはならないとあらためて確信しました。

「己のために生きる」なんて当たり前だろうと言う人が私の周りのほとんどの人が言う言葉。でもかつての日本はそうじゃなかった。古臭い言い方だろうけどそれは「武士道」であり、でもそれは武士のための物ではなく、それが育つ価値観を日本人はきっと何千年の歴史の中で育てたのだろうと思うのです。でも日本人は平気でそれを捨てた。

いや、捨てさせられたのでしょう。アメリカによって。

日本人は昔から蟻、蜂に似ていると私は思っていました。それは「規律」と「自己犠牲」からなる社会。でも欧米人はキリギリスの社会で「個」を大事にしてきた文化。個が個の幸せ、欲望を満たそうとするのは当然のことで、自分のその自由を確保するために他の自由も認め、その力関係の中でバランスを取り、それが民主主義に繋がっていったのだろうと思うのです。そして止めておけばいいのに蟻たちは自由に好きなような生きるキリギリスに憧れを持ってしまった。そしてそうであることをマッカーサーは要求し、「個」の確立は良い事だと信じて己が儲ける事のみを優先して日本は走ってきた。

でもその結果は世界第二位のGDPであり、一時期はアメリカさえも追い越す一人当たりのGDPを手に入れた。でもそれは計算上そうなるだけであって、国は栄えても国民は決して先進国とは言えない我慢を強いられ、それも国が栄えている間は良かったけれど、力を無くした途端、体中から膿が溢れるがごとく駄目な部分が浮き彫りになってきた。

そんな時にこの大災害。天災はどうにもならないけれど原発事故をきっかけにいかに政府が、企業が、役人がいい加減であったか、いかに己の利益しか考えていなかったか、そしていかに保身の為に逃げるか、それを目の当たりにみる事になりました。

人災はなぜ起きるのか。それは日本人がみずからの体型にあった服を脱ぎ捨て、欧米の借り物の服を着て、欧米の思想を模倣しただけであるからだろうと今になって思うのです。思想や価値観というのもは、長い年月を掛けて積み上げるものであって、借り物の服を着てもどうにもならない、そんな気がします。

欧米人は「個」を大事にするけれど、それを野放しにすれば大変な事になるのも良く分かっていて「個」を抑制するためのシステムや理念があると思うのです。でも日本はうわべの洋服を借りただけで、その根底にあるものを理解する事もなかったのでしょう。

そんなことにハッと気がついたのは、フランスだったでしょうか、今回の事故についての記述がありました。

「当事者である東電を事故処理からはずさないと、必ず企業論理が出てきて保身をする。従って事故処理はうまくいかない。」というような内容でした。これって欧米の論理としては全く自然で、当たり前のことなのでしょう。でもそこまで日本人の頭は回らない。少なくとも国を預かる政府にその発想はない。

昔の日本なら、当事者も非を認め、自分が生き残る考えは捨て、収拾を図るために全力を尽くすという価値観があった。戦後の大きな価値観の変化もこの考え方が基本になっていたからこそ出来たはず。でも借り物は借り物で、それの使い方がわかっていない。そんな気がします。

原発の是非を決めるのも民主主義国家であるから多数決で決めるのは当たり前。しかし民主主義が成り立つ前提として、運命共同体としてどこへ行くのかという「全体」あるいは「国家」がその中心にあるはず。でも今の日本にはまもるべき主体が無く、「個」が勝手に動くばかりで、原発にしてもこれからどうするべきか、皆が集まりデータを出し合い、「運命共同体」として何を選ぶかの議論がなされていない。賛成派は賛成派、反対派は反対派、自分に有利なデータを持ち出し、これが「絶対」であるという前提での議論しか出来ない。

これは運命共同体がどうあるべきか話し合っているのではなくて、イデオロギーも違う、利益も相反する国と国がぶつかり戦争をするのと同じ状態。これを民主主義だ、多数決だと当たり前に日本人は考えているフシがあります。もちろんこの傾向は世界中どこにでもあるわけだけれど、文化的先進国にはその中心に「運命共同体」という芯があるのを私は感じるわけです。

アメリカはもうそれが希薄になっていると思うけれど、ヨーロッパ人を見ているとまだその芯がはっきりしていて、世界の中で自分達の国がどう生きるか模索している実直さが見れる。でもそれが日本には全くない。それぞれが勝手に「個」が有利になるように喧嘩をしているだけ。

でもまだ救いがあるのも間違いなく見えました。それは世界が賞賛した日本人の行動様式。「規律」「慈悲」「思いやり」「分かち合い」そういう価値観を日本人はまだ持っている。これって当たり前のように思うのは日本人がそうだからであって、「個」を尊ぶ他国の人たちには理解できない行動。

アメリカを見ていると民主主義、自由主義の崩壊を感じるのは私だけじゃないと思うのだけれど、日本は借り物としてそれを受け入れてやっぱりうまく機能していないように思います。

民主主義、自由主義、その次なる価値観、これを生み出せるのは日本人かもしれないと思うのは期待しすぎなのでしょうか。

マッカーサーが狙ったこと。それは日本に二度と戦争を起こさせない体制を作り、つまり戦争が出来ないように自衛能力を削ぎ、なおかつそれを「善」とする価値観を植えつけること。これは見事に成功し、国民は軍国主義に繋がった全体主義を否定し、なおかつ戦争の悲惨さを忘れたいが為に戦前の日本の全てを否定し、アメリカは「解放軍」だと喜びアメリカ国旗を振ってしまった。

それでもいつか日本の自立を取り戻そうと考える政治家も国民も多くいたと聞いています。しかしその後の急激な経済発展によって、アメリカに追従する事が「善」だと誰しも考えるようになり、なりふり構わず「利益のみ」を追い求め、国が自立することなくアメリカに守ってもらえばそれで良いと考えるようになってしまった。

それに追い討ちをかけるように、日米構造協議が始まり、それが後に年次改革要望書となり、アメリカは具体的に、そして細部にわたって日本を彼らの都合の良い国にするためにプレッシャーを掛けてきた。構造改革、市場開放、自由貿易主義、規制緩和、等それが日本の為にもなるというお節介をそのまま信じてしまうバカな日本がそこにあったと思います。「自民党をぶち壊す!」なんてスローガンに新たな素晴らしい国家体制ができるように感じて、一体何をするのか何が起こるのかもわからずに、またそれを受け入れてしまった。今になれば、その内容はアメリカが長年要求していただけの内容であるのがわかる。それを代弁する政治家とそして彼と二人三脚で動いた経済学者を英雄として受け入れてしまった。

なおかつ、ホリエモンのように法律に触れなければなにをしても良いと思うような若者、カスのような会社を吊り上げた自社株で買いあさり、それが素晴らしい業務拡大のように見せかけ自社株の価格をさらに吊り上げ、そしてタイミングをうまく見計らって業界では禁じ手と言われている株の分割を何度も何度も繰り返し、見せ掛けの価格を安く見えるように誘導した錬金術師。そんな彼をこれまた英雄だと受け入れた日本。

この反省をすべきなのに、今またTPPに拍手喝采を送る人たちが多い。アメリカの要求は当初は協議であり、次に要望書になり、そして今度こそは拘束力のある条約として日本の懐に手を突っ込んでくるアメリカになんら危険を感じない人たちがいる。

長い不況とデフレに困っているところへのTPP。誰がどう考えてもTPPはインフレ抑制にはなるけれど決して国家利益としての市場拡大、デフレ脱却になる内容ではないのは誰にでもわかるはず。利益があるのはこれを受ける日本じゃなくて、日本に上陸することを狙う外資のみ。

今以上に規制が緩和され、市場が開放され、競争はより激しく、格差は広がり、弱者は淘汰されるであろう簡単な経済原理がどうして理解できないのでしょう。規制は悪い事だ、無いほうが良いというのは無法地帯を容認する考え方だというのにどうして気がつかないのでしょう。TPPによって利益が見込める企業軍は賛成に回り、彼らから生きる糧を得てるマスコミはそれに乗り、政府はアメリカの脅しに尻尾を振る。だれも国民を考えていないことにどうして国民は気がつかないのでしょう。いまだに反対の声を上げる中心は被害がはっきりしている農業関連の人たちばかり。うーむ、そうでもないかな、最近危険を理解する政治家もぽちぽち出てきた様子は見えてきた。

かつて日本は規制だらけでした。これは我々の世代、ましてや自由に商売をしようと頑張っていた人たちには良く分かること。何をやっても規制規制で縛られていた。そして価格破壊や流通過程の短縮も簡単ではなく「適正価格」という概念が社会にあった。これは生産者も購買者も利益があり「公平な再分配」の思想が根底にあったからに他ならないと思うのです。それが「談合」に繋がりそして企業では「終身雇用」というシステムを産んだ。これは歴史であり文化であり、今ではそれらを否定する人たちがほぼ100%になっているけれど、実はそれらがあった時代こそ日本が繁栄した時代であることを忘れてはならないと思うのです。

皆が生きられる世界だからこそ、「規律」「慈悲」「思いやり」「分かち合い」が保たれていたはず。そしてこれがまさに今回の大災害に見せた日本人が世界から賞賛された行動様式であるということ。「個の欲望と権利」を尊ぶ文化ではそれはありえないこと。

我々日本人が育て上げて手に入れた文化と、それを否定してアメリカ的なものに価値を見出し衰退した日本経済。それがカオスのように混沌としているのが今の日本。

今回の原発事故は人災だと誰しもが認めることだろうけれど、では人災を無くすにはどうしたらいいのか。それは決して簡単な事ではなく、問題の根っこにある文化、思想、価値観、それの是正なくしては出来ないと私は思うのです。

でもそれはきっと単なる懐古思想でしかないとも思うのです。「個」を尊び、「個」や「企業」の果てしない利益追求を認めてしまうのなら、ではそれに歴史のある欧米の手法を導入し、「個」や「企業」を管理するしかないはず。でもそれは決してアメリカのいう新自由主義や市場開放、規制緩和ではなく、それこそがこういう問題を助長する一番の原因である事を考えないとならないと思うのです。

私はヨーロッパに学ぶものが多いような気がします。そして単に原発にどう各国が向き合っているのかそれを調べただけで、例えばドイツもそうですが、国が国として当たり前の議論をして進んでいるのがわかります。しかしそれが日本には全く存在しない。

世界の文化の中心はやっぱりヨーロッパ。そんな感じがしています。アメリカは息苦しいヨーロッパから飛び出したイタズラ小僧のような気がします。そして日本はそのイタズラ小僧の一番の子分。

アメリカには知恵がないと思います。なんでも自由にすれば良いのだというあの新自由主義。でもそれを選ぶしかない、彼らの根底にあるものも見えてきます。でも日本がそれに追従する必要性は全く無い。

ナチズム、ファシズム。これらは悪いものだという決め付けがあります。日本の全体主義も同じ。でもこれらは行き過ぎたから悪い結果が出たのであって、その中心にある思想は全く悪くないし、逆にそれが出てきた背景として1920年代から30年代の自由主義を根底にした世界の崩壊(世界恐慌)があったからだと聞いています。これをこれから自分で詳しく調べてみるつもりですが、今、まさに世界は同じ歴史を繰り返しているような気がします。

全体主義も自由主義も、あるいは保護貿易主義と自由貿易主義も行き過ぎたら駄目で、それを振り子のようにあっちに行ったりこっちに行ったりしているのが世界で、これが一番だ、間違えないという位置にとどまる事は不可能なのでしょう。これは社会主義も共産主義も同じで、決して悪い面だけ見てはならないと思います。常に正しい価値観も主義主張などこの世には存在せず、常に動きながら調整していくしかないのでしょう。

そしてそれは自己責任において考え行動すべきであって、お上や他国に任せておけばどうにかなることじゃないというのが昨今の動き、この大災害を見ていて感じたことです。

私はもう社会との接点が少なくなりつつある仙人みたいな生き方になっていますが、ジックリと日本が、世界がどう動くのか見ていたいと思います。そして、子供達にはちゃんとした世界を残したいという夢は捨てないつもり。

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