イラク戦争に関して総括がなされていないことに疑問を感じているのは何度かここに書いていますが、開戦当時の日本は一体何をどう考えて決めたのか、そこのところもを知りたいと思っていました。そして今日、福田元首相のインタビューを見つけて、国会での紛糾を思い出しながらそれを読んだのですが、開いた口がふさがらないってこういうことを言うのだろうと思いました。
イラク戦争10年 福田元首相「我々に情報はなかった」 ←クリック
-----------朝日新聞デジタル 3月20日(水)5時0分配信
イラク戦争開戦当時、官房長官だった福田康夫元首相が朝日新聞のインタビューに応じ、小泉純一郎首相の開戦支持表明の直前、英国からブレア首相の議会演説に先駆けて支持を打ち出してほしいと打診されていたことを明らかにした。「イラクに大量破壊兵器(WMD)がある前提」で支持した日本だが、判断材料を得ようにも「手も足もないという感じがした」と日本独自の情報入手ができなかったと率直に認めた。
2003年3月20日の米英軍の先制攻撃を前に、当時のブッシュ米大統領が18日(日本時間)にイラクへの最後通告演説をした。福田氏によると、その頃に英国外交筋が福田氏に「ブレア首相がこの問題で議会演説をする。日本がその前に英米への支持を表明してほしい」と要請してきた。
福田氏は「小泉首相はもうじき(記者団に)ぶら下がりをする。それを見て判断を」と返答したが、「開戦の判断で英国も(世論の反発で)相当困っていた」との印象を受けたという。結局、小泉氏は直後に「米英が武力行使に踏み切った場合、支持する」とイラク攻撃支持を打ち出した。
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どう思います?
まぁ、福田さんってまさにこういうタイプの人で、指導者の資質はないというのがバレバレの珍しいタイプだと思っていましたが、でもこういうことを平気でバラしちゃうってのがまたまさに彼らしいと思うし、逆に良い人なんだと思いたくなってくるから不思議。(笑)
これはイラク戦争に限らず、ありとあらゆる場面で日本はこうやって生きてきたんだろうと思いました。外圧に弱いというか、強者に従順というか、これは政治家の資質というより、日本そのものが持っている特質のような気がします。
世界は弱肉強食なのは当たり前としても、その中で周りを見ながら誰について誰の言うことを聞いて生きていけばいいのか、それを選ぶのが自分の国の指導者だと思うと悲しくなってきます。政治の世界がまさにそれそのものなのかもしれなくて、指導者とは風見鶏で、良き調整役であるとしたら、なんというべきか、言葉が見つかりません。
下々の世界では家庭でも企業でもこういう調整役タイプの人はあくまで女房役とでも言いましょうか(差別発言?)、目先のことはうまく処理できても大きな夢や希望を持ち、それを実現するための作戦を練って今日を生きるって感じじゃないですね。波風を立てずにうまく流されていく生き方。
まさに近代の日本の最大の欠点はこれで、大企業の中でもこういう雰囲気があったのではないかと思うことが少なくありません。韓国の台頭が目立ちますが、彼らにあったのは我々の身近で言えば中小企業では当たり前の、なりふり構わない生き延びるための選択と集中であり、そこに大きな指導力があったのだろうと思っています。
家庭でも同じことが言えると思っています。かなり古い話ですが、あれれ、あの小説の題名が思い出せない。芸能人の家庭で娘さんがグレて家庭内暴力も始まってって話。ドラマ化されましたよね。ああああ、積み木崩しだ。あの中で娘さんがお父さんに食って掛かる場面で「お父さんは、お父さんの自分の言葉でしゃべってよ!」みたいなところがあるんです。私はそれが忘れられないんですよ。
親が親対子という一対一の関係じゃなくて、社会常識対子供という考え方でものを言ってもそれは子供の心には届かないし、それでは何の解決策にもならなければ、将来の指針にもならないってこと。その場を繕うだけですよね。
政治にも企業にも家庭にもそういう建前や馴れ合い、責任転嫁、そんなのがはびこってしまったのが戦後豊かになった日本の姿みたいな感じがします。
私は日本大好き人間ですから、もし本当にそういうことになっているのなら、どうにか変わって欲しいし、変えて欲しいし、変えるべきだと思うんですよ。
そういう意味でも私は安倍政権に期待するものが大きいし、見渡しても日本の文化、根本的なものに影響を与えるくらいの変革、いや日本のよさを取り戻そすことが出来そうな政治家はほかに見当たりません。これが日本の悲劇なのかと思うのですが、また日本を取り戻すことが出来なくても、日本がどうあるべきなのか考える切っ掛けになればそれはそれでいいのかと思ったり。
実際、私もそうで、安倍さんという存在がなければ、TPPにしてもそうだし、近隣諸国とどうあるべきか、世界の中の日本はどうあるべきか、またここには書いたことがありませんが、日本を破壊したいのではないかとしか思えないような日教組の問題しかり、左翼がはびこるマスコミ・政財界、また延々と続く保守の左傾化、それに歯止めをかけて、まず日本としての独立を取り戻して欲しいとは思うものの、安倍さんがいなかったらもう駄目だあきらめようと思ったに違いない。でも私は安倍さんに光明を見出しています。政治家に期待したいと思ったのは、私の60年の人生ではじめてかも。
もしかしたらこれははかない夢でしかないのかと思いますが、ネトウヨ(ネット右翼)の過激な言動は別にしても、竹島や尖閣、あるいは北朝鮮の動き、そして南京大虐殺、慰安婦問題、東京裁判の評価見直しなどの様々な細かい、そして一方的ではない情報が入ってくるようになり、我々国民の間でジワジワと過去の再評価が広まっているのは間違いが無くて、これは非常に良いことだと思うのです。そしてその先に、我々がどうあるべきか、日本はどうするべきかが見えてくるのでしょう。
その時に邪魔なのは、まさにこの福田さんタイプの政治家。百害あって一利なしだと思います。
こんなことを考えていると、我々ってやっぱり動物園の中で生きているんだなぁと思うんです。見えない檻に囲まれて自由は制限されているけれど(その制限が見えない人も多いのでしょう)、適度な衣食住を得られる環境が整って恐怖におののく必要も無く、自分たちの幸せを追い求めることが出来る。国によって幸福度が違いますが、その点、日本人は本当に恵まれていると思います。
で、その動物園の住民は、あれがないこれがない、ああしろこうしろと好き勝手なことを言うわけですが、その檻の外の世界では全くそれが通用しない厳しさがあるわけで、でもその影響が動物園内に伝わらないように経営者は日々苦労しているんでしょう。それが国家であると思うし、厳しい外と、幸せな動物園とを分けているのが国境であり、法律であり、規制であり、そして関税。
今、国境は低くなり、法律も規制も関税も国としての自主性が取り払われて、外も中も関係なく、そういう壁、檻を全部取り払いましょうという方向へ世の中が動いている。これは貧しい世界、経営困難な動物園からすれば千載一遇のチャンス。またもっと動物園を大きくしたい勢力にしても同じ。それぞれが勝手な夢を描いて、その変化の中でより良い状態にしようとしている。
それぞれの動物園の経営状態もそれぞれで、もう他の動物園を乗っ取るしかない緊迫した状態の動物園もあるし、もっと食わせろとライオンが暴れていて収拾がつかない動物園もある。そんな中でかなりうまく行って豊かで平和にそれぞれの動物がそれなりに生きていた我が日本動物園も、同じ動物園なんだから世界の動きに合わせろと文句が出て、それを言われればまぁ、そうだよねぇ、協力しましょうなんて思う。我々とて問題がないわけじゃないし、日本動物園の動物たちは世界の動物園がどれだけ酷い状態かわかってないから、他の皆さんと同じように壁も檻も取り払えば動物たちはもっと幸せになるだろうなんて思う。
でも他の動物園の内情を知れば知るほど、彼らと一緒になって壁を取り払うと大変なことになるというのに気がつく動物もいる。お互いの動物園が一つの大きな動物園となり、動物達の衣食住も共同で手配できるようになれば経費節減ができて、利益もでるだろうなんて思うものの、そういうボーーっとしている幸せで能天気な動物園(住民はそう考えていない)から毟り取ってやろうと他の動物園が虎視眈々と作戦を練っているのだから気をつけろという叫びも出てくる。
そんなことは重々承知だときっと我が日本動物園の指導者は言うんでしょう。でも我々の一番大事なことは動物園の壁や檻じゃなくて、その動物園が存在するもっと大きな枠組みであると。それを無視はできないのだと。その動物園が存在できている理由を見ろと。言われてみればその通りで、動物園の中じゃなくてその動物園はどの様な、より大きな世界の中にあるのか考えてみると、自分たちで作ったと信じているこの動物園は実は自分たちで作ったのでもなければ、動物園そのものの生死、運命を握っているもっと大きな存在があるのに気がつく。我々が主役だと思っていたけれど、実はそうじゃなくて、経営を任されていただけで、それより上の次元の決定事項に口を出す権限が無い。日本動物園はいまだに他国の占領下にある。
その大きな存在の意向を無視したらそもそも動物園経営ができないんだよ、ってことなのね。
日本動物園そのものが寄生虫みたいなもんで、俺は俺だなんて思っても自分の姿を鏡に映してみたら、俺ってコバンザメだったのかというのに気がつく。それに気がつくと福田元総理は悪くもなんともないし、現実の中で最良の選択をしようと努力をしていたのがわかる。
でも日本という国はコバンザメではなく、違う生物だった過去がある。でも生き方を間違えてある時期、お前はコバンザメになれとマッカーサーという神と同じような力を持つ存在に、我々は作り変えられた。その後何十年とコバンザメとして大海に戻り、コバンザメとしては大いに発展し大きく伸びた。これを世界は賞賛し、諸外国もコバンザメ、良く頑張ったなという。
でも俺をコバンザメと呼ぶな!という動きをすると徹底的に叩かれる。これは外国もそうであるし、マッカーサーによって作られた敗戦利得者と呼ばれる同胞の反日グループが自らの母体を叩く。
これで良いのか、コバンザメ!
私がいつもいう「平民の逆襲」はこういう意味でもあります。国としての独立。個人としての独立。それは精神的、経済的、文化的なもの全て含んでいます。目に見えない、しかし大きな圧力に屈することなく、自分の足で歩き、自由を確保すること。(まずそれには経済的自立が一番重要なのでお金の話ばかり書くわけ。(笑))
私は近年、日本という国そのものに母性を感じる様になりました。白装束を着て優しい顔をしていつも私に微笑みかける存在があって、それが日本そのもの。彼女がいつも私に言い続けてきたことは、「貴方たちが幸せになってくれるのが私の願い。」「私のことは心配しないで良いから、貴方たちは幸せを掴んで。」といつも言う。
「外国に行ってそこに一生住もうと思うんだけれど、それでもいいの?」という私の問いかけに「もちろん。貴方にとってそれが幸せなら後ろを振り返ることなく、まい進しなさい。」という答え。「本当にいいの?」「もちろん」
「お母さんはそれでいいの?」「貴方が幸せなら私はどうなってもいいのよ。」
その言葉に甘えて私は好き勝手なことをやっていたけれど、たまにそのお母さんを見てみると結構疲れているのが見えるわけです。
「お母さん、大丈夫?」「もちろん、私は大丈夫。私のことは心配せずに貴方は自分の幸せを追いなさい。」
いつもこのやり取りが私の中で続いてきたんです。
ところがですね。そろそろ自分にも終わりの時が見えるようになると、母が心配でならないわけです。小さくなってボロボロになった日本という母がそこにいるから。
「お母さん、俺、やっぱりお母さんのところに帰るわ。」と今の私は思うんです。私に何ができるわけじゃない。母をボロボロにして食いつぶしてやろうという外圧、内圧に対して自分は無力。
でもそんな母とせめて一緒にいたいと思うんです。そして私がこの世に生まれたときに優しく包んでくれたその母の腕の中で、私は日本人として、その優しい母の目を見て感謝しつつ、この世から去っていきたいと思う。