このブログの読者から、マレーシアで放送されたラジオの内容が面白かったとコメントを頂きました。それがポットキャストで聞けます。英語です。
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紹介を有り難うございます。
二人の女性の対談で話が進んでいますが、一番最初に話題になる動画(?)が見れない、わからないのが残念だと思いました。
私が感じたことは、彼らは語学力とコミュニケーション能力は別のものとして話していること。これは見落としがちなポイントだと思いました。語学力はコミュニケーション能力で補えるし、逆を言えばコミュニケーション能力が低ければ語学力が有りとはいえないんでしょうね。
ただ、マレーシアにおける英語をコミュニケーションの道具として彼らは話しているわけで、最近のこのブログでの話題ではっきりした、言語の発達が知能や教養を育てるというところを中心に考えると、気楽な話をしているなぁ~という感じがしてきます。つまり、コアとしての英語を考えた場合、コミュニケーションが出来ればよいってわけにはいきませんもんね。でも一般論としては彼女達の話は正論だろうと思いました。
私が最近のここでの話で考えること、心配なことは、コアとしての日本語の教育が子供達にちゃんとできたのかどうかということ。
例えば日本人なら誰でも知っている、理解している、侘び、寂び、粋、枯淡、幽玄とか、そういう日本的なしかし抽象的な概念を理解するのは簡単なようで簡単では無いわけで、情緒であるとか文化、思想、あるいは哲学であるとか、あるいは一般的な文学の世界を理解できないような語学力なら、いくらコミュニケーションで問題がなくてもやっぱり駄目だろうと私は思うのです。決して小学生レベルではないにしても、高校レベルはどうか・・みたいな国語力では中途半端な日本人だと私は思います。
でもこの日記にも書いたように、では60年間も日本人、日本語まっしぐらの私の国語力はどうなんだろうと考えた場合、寂しいレベルであるのは間違いが無く、所詮は海外育ちの息子達と同じレベルかもしれないなんて気もしてくるのです。言語の勉強って終わりの無い戦いであるんでしょうね。また海外育ちに多くのものを求めるのは絶対に無理だとも思うようになりました。
バイリンガルなんてのは所詮夢だった・・・・なんてことを最近感じます。
でもたった一つの望みは、彼らが望めば彼らの中に国語力を育てる基礎だけは作れたと思っているので、どうにか彼らの力で彼らの中に欠落している日本人としての「何か」を身につけて欲しいと思います。
しかし、私の「海外での子育て」に関する考え方の結論としては、文化的側面から考えたら危険極まりない夢でしかないということ。
海外に出て苦労して得たものは、レベルの低い外国語とそれによるコミュニケーション能力だけだった、なんて考えたらゾッとします。そして失ったものは大きい。外人の中で逞しく生きる能力は、いつも書いている通り、個人の能力に大きく左右されるもので海外に出たから身につくものでは無いと思っています。つまり海外育ちじゃなくてもどうにでもなることで、下手に海外に育ち、アイデンティティを失ったり、コメントで教えていただいた「セミリンガル」しかり、脱落して消えていく子弟が多いことを考えると、あまり投資効果がないような気さえします。
ただ、オーストラリアでは十分以上な時間を子供達と過ごせたこと。そしてイジメや差別に親子共々挑んで普通では得られなかったかもしれない連帯感を持てたこと。親子が尊敬しあう関係を作れたこと。その他、ここには書ききれないほどのプラス面があったのも間違いがありません。
ただ、オーストラリアで育ったということは、日本で育ったらどうだったかというのはまるでわからないわけで、日本よりオーストラリアのほうが良いという結論は出せません。
結局、多くの親がそうであるように、「これでよかったんだよ」という事になるのね。ま、後悔らしい後悔がないことだけでも感謝しようと思います。
で、話が元に戻りますが、以前にも紹介しましたが、コミュニケーションの道具として通じれば良い英語の動画を出します。これはマレーシアじゃなくてシンガポールですが、同じでしょう。
かなり笑えます。堅い話ばかりじゃつまらないですよね~。CockはCokeでコーラのこと。
マルタに行ったイタリア人の話。ちゃんと通じていないケース。ネタの説明は面白くないのですが、英語に弱い方の為に。Piece(個数)がPiss(おしっこ)で、Fork(フォーク)がFuck(ファック)で、Sheet(シーツ)がShit(ウンチ)で、Peace(平安)がPiss(オシッコ)。
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上に紹介したシンガポールイングリッシュ(シングリッシュ)ですが、決してバカにしてこれを紹介したわけじゃないですから、そこのところをご理解ください。二つ目のイタリア英語のジョークもひとつのエンターテイメントとして笑えるってことであって、こういうのは世界共通語としての英語は各国で変化して、あるいは微妙な発音の違いでとんでもないことになるという日常茶飯事の出来事で、それを笑いとして受け止めるのは決して悪いとは思っていません。日本の方言も同じで、面白いものは面白いですもの。
オーストラリア英語もいつも笑われる対照であり、また米語でさえも笑えるところがある。イギリス英語はイギリス英語で笑いの対象になるわけで、それを馬鹿にしていると不謹慎とか言わずに、笑って楽しんじゃうのもありだと思ってます。
言語って通じれば良い訳で、こうじゃなければならないということもなく、時代や地域によってどんどん変化していくのでしょう。ただ、どこまで通じるのかとなるとそれぞれの理解度や習熟度、また概念としての固定は大事であって、あまりにも自由にめちゃくちゃに使ったら文化そのものが壊れ衰退していくと思っています。それは知性や教養という面を考えた場合も同じであって、通じれば良いと言っても、通じるのは日常会話だけって事じゃ困るわけで、それでも良いなんてのは世界の文化の否定であるとさえ私は思います。
私はうまい下手は別にして、その土地の言語を習得するのが趣味というか面白いと思っています。ですから今まではグアム語(チャモロ語)やフィリピン語(タガログ語)を覚えたり、あるいはグアム英語、フィリピン英語を真似して話すのも楽しいと思ってました。
ただマレー語に関してはお手上げ。タイ語やベトナム語もそうなのですが、パッと聞いてこりゃ駄目だというのがわかるんです。発音が自分の中にまるでないのね。音楽で言うフレーズやコード進行が自分の中にまるでないのと同じで、その歌を歌うのは非常に難しいですよね。そんな感じをマレー語に受けるんです。
だからマレーシアに行ったらマングリッシュを徹底的に覚えて使おうと思っています。
一番上で紹介したポッドキャストの最初に話題になっている動画を教えてもらいました。