オーストラリアが戦争に突入した

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イスラム国の話ですが、やっぱり自分の中には「対岸の火事」という感覚があって、「早く収束すれば良いのに・・」と単純に願うだけ。自分に何が出来るわけでもありませんが、自分の中には「面倒なことは起こすなよ」という自分勝手な思いがあるのもわかります。喧嘩をしている人たちの仲裁に入ることなく「お前ら、うるせ~~んだよ!」と思うのと同じレベル。

ところがオーストラリアが以前から公言していたように、とうとうイスラム国の爆撃を始めた。オーストラリアに言わせれば、「イスラム国が世界に対して宣戦布告した」ということで、「イラクへの支援」という立場での戦闘参加。

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豪 「イスラム国」に初の空爆
10月9日 12時02分

オーストラリア国防省は、イラクにあるイスラム過激派組織「イスラム国」の施設に対し、初めての空爆を行ったことを明らかにしました。

オーストラリア国防省の発表によりますと、中東に派遣されたFA18戦闘攻撃機が、日本時間の8日夜から9日朝にかけてイラクにある過激派組織「イスラム国」の施設に向けて2発の爆弾を投下しました。オーストラリアが「イスラム国」に対して空爆を行ったのは今回が初めてです。

オーストラリア国防省は今回の空爆について、「作戦を行った戦闘機は無事基地に帰還した」としていますが、作戦を単独で行ったのか、また成功したのかどうかなど詳しい状況は明らかにしていません。

オーストラリアは「イスラム国」への空爆について、シリアでの作戦には参加しないとしていますが、今回のイラクでの空爆に関連し、アボット首相は9日、記者団に対して「『イスラム国』は世界に宣戦布告した組織だ。われわれはイラクを支援するため同盟国などとともにできるかぎりのことをする」と述べました。

オーストラリアでは先月、「イスラム国」の戦闘員から指示を受けた男らが一般市民を誘拐して「イスラム国」の旗で包み殺害するという計画を立てていたことが明らかになりました。このためアボット政権が「イスラム国」に対するアメリカ主導の軍事行動に参加していることは、国民から一定の支持を得ています。

そもそもイスラム国ってなんなのかってところから考えないとならないし、イラクとの湾岸戦争、イラク侵攻、そして歴史を戻ってみれば911のNYテロ、そしてもっと時間を巻き戻せば数千年に渡る対立の歴史があって、自分の軸足をどこに置くのかによって「世界vsモスレム」の見方も変わるんでしょう。

どっちが悪いのかを決めるのに「誰が何をしたか」を基準に考えれば「(自称)イスラム国」が悪いに決まっていると考えてしまうけれど、それって表面的な見方でしかなくて、強者が弱者を駆逐するという弱肉強食の世界の中で、弱者は強者に飲まれていくしか無いのか。強者が弱者を放っておいてくれれば何も起こらなかったのではないか、そんな事も「イスラム国」を弱者として見るとそんな気がしてきます。

我々は民主主義、自由主義がベストだと「なぜか」信じているけれど、それも洗脳されているだけで、他の生き方を望む人たち、あるいは中国もそれをはっきりと世界に発信しているけれど、他の主義で成り立っている国なり文化を強引に変える必要があるのかどうか。でもこういう考え方も甘っちょろくて、弱者を弱者と見ればその通りなのだろうけれど、弱者でも勢力が大きくなってくると侵略を考えるのが世の常。

「邪魔者は消せ」

これが世界を動かす根本原理なんでしょうね。強者も弱者も同じ考え方を持っている。

ここで良く出てくる考え方は「犠牲になるのは常に一般市民」という考え方。市民派、人権擁護派は必ずこれを言い出す。

人権を無視しても良いとは思わないけれど、国レベルの強者弱者の戦いの下で、本当の弱者は市民であるという考え方は私には「理想論者」にしか聞こえません。

蜂の世界をみるといつも不思議に思うことがあるんです。外敵が現れると当然、蜂の攻撃部隊は外敵に立ち向かっていく。そして特攻する。私は蜂って「針で刺す」という攻撃方法を持った虫という感覚しか無かったのだけれど、いつの頃だったか「蜂は一刺しすると死ぬ」(種類によるのかもしれないけれど)ことをしってびっくりしたのを思い出します。それって特攻隊、自爆テロと同じだと思ったから。

もし蜂の一匹一匹が自分の「生存権利」を表に出したらどうなるんだろう。「俺は死ぬたくない」と言い出したらどうなるんだろう。

そんなことが気になるわけです。蜂は畜生の世界で人間とは違うと考えるのは間違っていて、その考え方は人間が生物の順位の上の方に立っている「優れた存在」という奢りを私は感じます。

私は「特攻精神」というのは生き物の根源的なものだと思っていて、「死」と「生」は対極にあるものではなくて、「生きることは死ぬこと」であり「死ぬことは生きること」であると考えています。だから「生きるために死ぬ」という現象が起きるし、ここぞという時に何も出来ないのであれば「生きる屍」であると考えます。

生きていれば良いってもんじゃない。

でもそれは「自分の問題」であって、他に強制するべきものじゃない。でもそれぞれにそれなりの心構えがあるから生命そのものが存続できたと私は思うわけで、戦うことをせずに逃げ惑う、強者に屈する、あるいは「話し合いで解決すれば良い」なんてのは生命の根源的なものを否定しているように思うわけです。

でもま、今の時代、「嫌なことはしなければ良い自由」があるわけで、その権利を守るのは大切なのは間違いがない。

でも「ここが正念場」と考え、命をかけて戦う人たちを否定してしまっていいのだろうか。それが味方であれば賞賛し、敵側であればとんでもないやつらだと否定してしまっていいのか。いやいや敵も味方もなくて「戦いそのものがあってはならないのだ」という理想論をつらぬけばそれで良いのか。

「戦ってはいけない」という考え方こそ、私にしてみると強者の論法であり、誰も反論できないその考え方を御旗にして、あの手この手で弱者を追い込んでいくのが人間の世界。。経済制裁もそれで、戦わなくても兵糧攻めで敵をやっつけることができますから。

本来、「戦ってはならない」と言うのであれば、結果的に「相手を死に至らしめる」経済制裁もあってはならないはずだけれど、市民派の多くはそんなことは考えずに「制裁に賛成」することがあるように見えます。いわゆる「殺すな。でも悪い奴らは痛めつけろ」と。でも「戦争反対」なのね。めちゃくちゃだと思いますわ。

ま、こんなことをグルグル考えていてもしょうがないんですが、オーストラリアが戦争を始めたことには間違いがなく、これがどういう風に展開していくのか、オーストラリアに住む我々にどう影響があるのか、我々はどうすれば良いのか、そんなことを考えないわけにはいきません。もう対岸の火事ではなくなったんですから。

今日は違うニュースで、「日本人がイスラム国に渡り戦闘に参加した」というニュースがありました。正確にはイスラム国ではなくて他のイスラム組織だったようですが、大怪我をして帰国したとのこと。その若者曰く「政治的に何があるわけじゃなく、ただ戦ってみたかった」という大馬鹿者ですが、こういう人も含めてイスラム国側に立とうとする反イスラム国の人々が決して少なくないも不思議です。

一体彼らは何を考えているんでしょうか。

マレーシアもそうで、決して対岸の火事じゃないはずで、イスラム国としてどう今回の争いに関与していくんでしょうか。

第二次世界大戦、あるいは大東亜戦争でも呼び方は別にして、開戦に至るまでいったい何がどう動いていったのかを体感した人はもうこの世にはいないわけですが、一番最初の最初はまさか世界があんなことになると想像もしなかったのが普通の一般市民だったろうと思います。

モスレムとのいざこざは昨日今日始まったわけではなく、数千年の歴史があるわけで、イスラエルの問題にしても話し合いで解決しろよ、なんてそうは簡単にはいかないはず。

さて、今回、イスラム国は戦いの場を世界広げようと世界中のモスレムに声を掛けているわけですが、どうなりますか。死ぬことは生きることと考える人たちはモスリムの中には多いはずで、その感覚が理解できない欧米諸国がどう対応できるのか。力でねじ込むことが出来ればそれで良いのか。

我々一般は、火の粉が飛んでこなければそれで良いと悠長な考え方でいて良いのか。戦争反対と叫んでいればそれで良いのか。安全な場所に自分が逃げればそれで良いのか。

ま、そんなことを考えさせられたニュースでした。

 

 
    

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